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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
異世界人の修行編

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第28話 知らないふり


ボーマンを見送った後、私はしばらく玄関の前に立っていた。


森の中へ続く小道は、もうすっかり暗くなっている。木々の隙間から差し込む月明かりが地面に細長い影を落とし、夜風が枝葉を揺らすたび、静かな森にかすかな音が広がった。あの老人は来た時と同じように落ち着いた足取りで森の奥へ消えていったけれど、七年ぶりの再会が終わったという実感は、なかなか湧いてこなかった。


王宮の執事長であり、かつて私たち兄妹を教育した恩師。そんな人が突然この家を訪ねてきて、タクマに私の正体を明かし、父上の近況を伝えた挙げ句、二週間後には戻ってきてタクマを鍛えると言い残して帰っていったのだ。


あまりにも色々なことが起こりすぎて、何から考えればいいのか分からない。


「……すごい一日だったな」


隣に立っていたタクマが、ぽつりと言った。


「本当にね」


「まさか、リカの昔の先生が来るとは思わなかったよ」


「私だって思わなかったわよ。それに、あの人はただの先生じゃないんだから」


「元近衛兵団の団長で、王宮の執事長だっけ?」


「そう。しかも、あれで剣も魔法も相当な腕前なのよ。昔から何でもできる人だったけど、まさか私の家の術式まで見破るなんて……」


思い出すだけで悔しくなってくる。


もちろん、ボーマンの説明を聞いて、侵入された理由は理解できた。タクマのために追加した認証の仕組みに、わずかな隙があったのだ。魔法そのものを破られたわけではないけれど、結果として家の中に入られてしまった以上、改善の余地があることは間違いない。


明日にでも修正しよう。そう心に決めてから、私は隣のタクマを見た。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「少し、話してもいい?」


タクマは私の顔を見て、すぐに頷いた。


「もちろん」


私たちは家の中へ戻った。


*


食卓には、夕食の片づけを終えた後の静けさが残っていた。


私はお茶を淹れ直し、タクマの向かいに腰を下ろした。いつもなら隣に座ることが多いけれど、今日はきちんと顔を見て話したかった。タクマはそんな私の様子から何かを察したのか、急かすことなく、私が口を開くのを待ってくれていた。


「……改めて、ごめんなさい」


私は頭を下げた。


「王女だったこと、今まで黙っていて」


「リカ、さっきも謝ってくれただろ?」


「うん。でも、ちゃんと話しておきたいの」


顔を上げると、タクマは静かに私を見つめていた。その表情はいつもと変わらず穏やかで、だからこそ、私は余計に申し訳なくなった。


「タクマのことを信用していなかったわけじゃないの。むしろ、逆だった。タクマと一緒にいる時間が大切になればなるほど、言い出せなくなってしまって……」


自分でも、ずるいと思う。


最初に出会った頃なら、もっと簡単に話せたかもしれない。タクマは異世界から来たばかりで、マリアベル王国のことも知らなかった。私が王女だと打ち明けても、きっと驚くだけで済んだだろう。


でも、一緒に暮らすようになり、恋人になってからは違った。


私が王女だと知れば、タクマは何を思うだろう。いつか王宮へ戻らなければならないのではないか。自分とは住む世界が違うのではないか。そんなふうに考え始めたら、今の関係が変わってしまうかもしれない。


私は、それが怖かった。


「……私、王宮を出てから、ずっと自由に生きてきたつもりだったの」


私はお茶の入ったカップを見つめた。水面には天井の明かりが小さく映り、手を動かすたびにゆっくりと揺れている。


「誰かに決められた人生じゃなくて、自分で選んだ道を歩きたかった。冒険者になって、友達もできて、この街で暮らすようになって……それで、タクマと出会った」


タクマは何も言わずに聞いていた。


「今の暮らしが、本当に好きなの。だから、王女だった頃のことを話したら、何かが変わってしまう気がして……」


「……そっか」


タクマは少し考え込んだ。


「正直に言うとさ。もう少し早く教えてほしかったとは思うよ」


胸が小さく痛んだ。でも、それは当然だと思った。私が彼の立場だったとしても、きっと同じように感じただろう。


「……うん」


「俺だって、リカのことは何でも知ってるつもりだったわけじゃないけど、結構大きな秘密だったからさ。びっくりしたし、ちょっと寂しい気持ちもあった」


タクマは苦笑した。


「でも、話せなかった理由を聞いたら、責める気にはなれないよ」


「……本当に?」


「うん。だって、リカがそんなに心配してたなんて、俺は気づかなかったし」


タクマは少し身を乗り出した。


「俺さ、リカが王女様だから好きになったわけじゃないんだよ。森で助けてもらって、一緒に暮らして、色んなことを教えてもらって……そうやって、少しずつ好きになったんだから」


私は顔を上げた。


「だから、リカが王女様だったとしても、今までのことが嘘になるわけじゃないだろ?」


「……うん」


「それに、俺だってリカに全部話せてるわけじゃないし。日本にいた頃のことだって、まだ話してないことがいっぱいある」


「それは……そうかもしれないけど」


「だったら、お互い様ってことでいいんじゃないかな」


タクマはそう言って笑った。


私は少しだけ肩の力を抜いた。もちろん、秘密の大きさは同じではない。王女という身分は、単なる昔話では済まないものだから。でも、タクマが私を責めるのではなく、これからどうするかを考えてくれていることが嬉しかった。


「……じゃあ、これからも今までどおりでいい?」


「もちろん」


即答だった。


「むしろ、今さら王女様扱いしろって言われても困るよ」


「……それは、絶対にやめて」


「じゃあ、いつもどおりリカって呼ぶ」


「うん。それがいい」


私はようやく笑えた。


タクマが立ち上がり、私の隣へ移動してくる。彼は少し迷ったようにしてから、私の肩を抱いた。私はその肩にそっと頭を預け、しばらく何も言わずに目を閉じた。


王女だったことを知られても、こうしていられる。


たったそれだけのことが、今はとても嬉しかった。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「ありがとう」


「どういたしまして」


タクマは少し照れくさそうに笑った。


七年間、ずっと遠ざけていた王宮のこと。父上や母上のこと。兄上たちのこと。いつかは向き合わなければならないと思いながら、今まで避けてきたものが、ボーマンの訪問によって少しだけ近づいた気がする。


でも、それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。


少なくとも、今夜の私は、昨日までより少しだけ身軽になっていた。


*


翌朝、私は予定どおり家の術式を修正した。


タクマが出入りする際の認証を見直し、魔力の揺らぎを利用されないように調整する。とはいえ、あまり厳密にしすぎると、今度はタクマ本人が入れなくなってしまうので、その加減が難しかった。


魔法の術式というものは、複雑にすればいいというものではない。どれだけ強固な仕組みを作っても、使う人間が不便になってしまっては意味がないし、逆に便利さばかりを優先すれば、思わぬところに隙が生まれる。昨日の一件は、そのことを嫌というほど思い知らされる出来事だった。


「……リカ、これで大丈夫?」


玄関の外に立ったタクマが、不安そうに尋ねてきた。


「うん。もう一回入ってみて」


「分かった」


タクマが扉へ近づくと、術式が彼の魔力を認識し、問題なく通行を許可した。


「お、入れた」


「よし。じゃあ、今度は少し魔力を抑えてみて」


「……えっと、こう?」


「そうそう。そのまま、もう一回」


何度か試した結果、タクマの魔力が多少不安定になっても、問題なく認証できることを確認した。以前よりも判定の仕組みは複雑になったけれど、これならボーマンのような人でも、そう簡単には入り込めないはずだ。


……たぶん。


いや、今度こそ大丈夫だと思いたい。


「リカ、何かすごく真剣な顔してるけど」


「……ちょっと、負けた気がして悔しいだけ」


「ボーマンさんに?」


「そう」


タクマは笑った。


「でも、あの人、本当にすごいんだな」


「そうよ。だから、二週間後からの修行も覚悟しておいた方がいいわよ」


「うん。楽しみだな」


……楽しみ、ね。


私は何も言わなかった。知らないというのは、時に幸せなことなのだ。


*


それから数日、私たちの暮らしは驚くほどいつもどおりだった。


タクマは朝からハーケンのところへ剣術を習いに行き、戻ってくれば私と魔法の練習をする。冒険者としての依頼も、無理のない範囲で受けていた。私も普段どおり仕事をこなし、空いた時間には家の術式を調整したり、タクマの魔法の練習に付き合ったりしていた。


ただ、ボーマンと会ってから、タクマの訓練への取り組み方が少し変わった。


以前から真面目ではあったけれど、最近は自分から質問することが増えたし、剣を振る時も、ただ言われたとおりに動くのではなく、どうすれば無駄なく身体を動かせるかを考えるようになっていた。


ある日の午後、私は庭でタクマの魔法練習を見ていた。


「……うん。今のは悪くないわ」


「本当?」


「うん。魔力の流れが、前より安定してきたと思う」


タクマは嬉しそうに笑った。


魔法の上達は、剣術と同じくらい地道なものだ。特にタクマは、この世界に来るまで魔法というものを知らなかった。最初は魔力を感じ取ることさえ難しかったのだから、今の成長は十分に立派だと思う。


それでも、タクマは自分の手を見つめ、少し考え込んでいた。


「でも、まだまだだな」


「そんなことないわよ。ちゃんと上達してるんだから」


「うん。でも、ボーマンさんに教わるまでに、もう少しできるようになっておきたいんだ」


タクマはそう言って、再び魔力を集中させた。


私は少し苦笑した。あの老人は、たった一晩でタクマのやる気に火をつけてしまったらしい。


もちろん、努力するのはいいことだ。でも、ボーマンの授業は、本人がやる気になればなるほど容赦がなくなる傾向がある。


私が昔、魔法の試験で満点を取った時など、褒めてもらえると思ったら、翌日にはさらに難しい問題を山ほど渡された。できると分かった以上、次へ進むべきだというのが、あの人の考え方なのだ。


「……タクマ」


「ん?」


「一応言っておくけど、無理はしないでね」


「分かってるよ」


「本当に?」


「本当に」


タクマは笑った。


「でも、リカを守れるようになりたいって思ってるのは、本当だから」


その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。


昨日までなら、そんなことを言われても、私の方が強いのだから必要ないと返していたかもしれない。でも、ボーマンとの話を聞いて、タクマが何を考えているのか、少しだけ分かった気がする。


私が自由に生きたいと思うのと同じように、タクマも自分の意志で強くなりたいのだ。


「……じゃあ、頑張って」


「うん!」


私は微笑んだ。


彼がどこまで強くなれるのか、今はまだ分からない。でも、少なくとも、その努力を応援したいと思った。


*


シエラと会ったのは、その翌日のことだった。


私は街へ買い物に出かけ、必要な食材や日用品を揃えていた。タクマはハーケンのところで訓練中だったので、今日は一人だ。


市場を抜け、いつもの通りを歩いていると、向こうから見覚えのある女性がやってきた。


「……リカ」


「あ、シエラ!」


私は手を振った。


シエラは小さく手を上げ、いつものように穏やかな表情を浮かべた。彼女はあまり自分から多くを話す人ではないけれど、決して愛想が悪いわけではない。こちらが話しかければきちんと答えてくれるし、時には少しだけ冗談を言うこともある。


ただ、必要以上に言葉を重ねることがないので、初めて会った人には少し大人しい印象を与えるかもしれない。


「買い物?」


「うん。タクマは剣術の訓練中だから、今日は一人なの」


「……そう」


シエラは私の持っている買い物袋を見て、小さく微笑んだ。


「仲がいいね」


「……まあね」


私は少し照れくさくなって笑った。


シエラはそんな私を見て、楽しそうに目を細めた。


「……そういえば」


「ん?」


「この前、お客さんが来たんだって?」


私は足を止めた。


「……お客さん?」


「うん。久しぶりの人」


シエラは、何でもないことのように言った。


私は彼女の顔を見つめた。


「……シエラ」


「なに?」


「どうして、ボーマンが来たことを知ってるの?」


シエラは少しだけ首を傾げた。


そして、あっさりと答えた。


「……知ってるから」


「いや、そうじゃなくて!」


思わず突っ込んでしまった。


シエラは少し考え、それから小さく頷いた。


「……そうね。話しておこうかな」


「何を?」


「私の仕事」


……仕事?


私は眉をひそめた。


シエラがどんな仕事をしているのか、詳しく聞いたことはなかった。街で顔を合わせることは多いけれど、彼女は自分のことをあまり話さないし、私も無理に聞こうとは思わなかったからだ。


「……仕事って?」


「リカを見てること」


……はい?


私は数秒間、何も言えなかった。


「……ちょっと待って」


「うん」


「見てるって、どういう意味?」


「そのまま。ずっと見てた」


シエラは穏やかに答えた。


私は周囲を見回した。通りには人が行き交い、買い物客や商人たちが、いつもどおりの生活を送っている。


そんな場所で、こんな話をしていいのだろうか。


「……シエラ。ちょっと、場所を変えましょう」


「……うん」


シエラは素直に頷いた。


……この人、本当に何なの?


*


私たちは、人通りの少ない小さな喫茶店に入った。


奥の席に腰を下ろし、注文を済ませてから、私は改めてシエラを見た。


「……それで?」


「……うん」


「説明してくれる?」


シエラは小さく頷いた。


「私、リカを監視してるの」


あまりにもあっさりした告白だった。


私はしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。


「……監視?」


「うん。王宮からの依頼」


シエラは淡々と話し始めた。


彼女自身は王宮の人間ではない。所属しているのは、表立って名前を出すことのない、裏の仕事を請け負う組織なのだという。王宮からその組織へ依頼が入り、組織の中で担当者が決められる。シエラは、その仕事を任された一人だった。


「……つまり、父上があなたを雇ったってこと?」


「直接じゃない。王宮から、私たちの組織に依頼が来たの」


「……王宮の人間なら、誰でも知ってる話なの?」


「ううん」


シエラは首を横に振った。


「知ってる人は、ほんの少し」


私は腕を組んだ。


なるほど。確かに、そういう仕組みなら、私の居場所が王宮に知られていても不思議ではない。


でも、それ以上に気になることがあった。


「……それで、あなたの仕事は何なの?」


「監視と護衛」


「……護衛?」


「うん」


私はしばらく黙った。


それから、思わず聞き返した。


「……私を?」


「そう」


「……護衛?」


「うん」


私は深いため息をついた。


「……必要だった?」


シエラは少し考えた。


「……ほとんど、なかった」


「でしょうね……」


私は額を押さえた。


確かに、冒険者として危険な仕事をすることはある。でも、私はA級冒険者だ。魔法の腕前には自信があるし、これまで自分の身を守れなかったことはほとんどない。


それなのに、護衛がついていたなんて。


「……ちなみに、どこまで見てたの?」


「色々」


「具体的に」


シエラは少し考えた。


「住んでる場所。仕事。付き合ってる人。危険がないか、とか」


私は顔をしかめた。


「……それ、ほとんど全部じゃない」


「全部じゃないよ」


「……何が違うの?」


「家の中までは見られないから」


「そういう問題じゃない!」


思わず声が大きくなり、私は慌てて周囲を見回した。


幸い、他の客はこちらを気にしていない。


私は声を落とした。


「……シエラ。あなた、私が王女だってことも、最初から知ってたの?」


「うん」


「……じゃあ、今まで普通に話してたのは?」


「普通に話してたよ」


「……仕事として?」


シエラは、そこで初めて少しだけ表情を変えた。


「……最初は、そう」


私は黙った。


胸の奥に、少しだけ嫌な感覚が広がった。


シエラとは、何度も話をしてきた。街で会えば挨拶を交わし、時には一緒にお茶を飲むこともあった。彼女はいつも自然に接してくれたし、私も友人の一人だと思っていた。


でも、そのすべてが仕事だったのだとしたら。


「……私、あなたのこと、友達だと思ってたんだけど」


口にしてから、少し後悔した。


責めるつもりはなかった。でも、言わずにはいられなかった。


シエラはしばらく私を見つめていた。


それから、静かに口を開いた。


「……うん。私も」


私は顔を上げた。


「……最初は仕事だった。でも、今は違う」


シエラは少しだけ視線を落とした。


「長いこと、リカを見てきたから」


彼女はそこで一度言葉を切った。


「頑張ってるところも、落ち込んでるところも。友達と笑ってるところも、全部じゃないけど、色々見てきた」


私は何も言わなかった。


「……だから、好きになったの。リカのこと」


シエラは静かに微笑んだ。


「仕事じゃなくて、私が」


胸の奥が、少しだけ温かくなった。


でも、同時に、簡単には割り切れない気持ちも残っていた。


「……それでも、あなたは今も私を監視してるんでしょう?」


「うん」


シエラは迷わず頷いた。


「仕事だから、やめられない」


「……正直ね」


「嘘は、嫌だから」


彼女は真っ直ぐに私を見た。


「でも、信じてほしい」


その声は、いつもより少しだけ真剣だった。


「私は、リカの味方。間違いなく」


シエラは静かに続けた。


「王家の人間じゃないし、忠誠を誓ってるわけでもない。私は、リカが好きだから」


私は、しばらくシエラを見つめていた。


彼女の言葉を、すべて信じていいのかどうかは分からない。


でも、今までのことを思い返してみれば、シエラが私に害を与えたことは一度もなかった。困っている時にはさりげなく手を貸してくれたし、私が何かに悩んでいる時には、無理に聞き出そうとせず、ただ話を聞いてくれた。


それが仕事だったとしても、私が助けられたことまで嘘になるわけではない。


私は小さく息を吐いた。


「……分かったわ」


シエラが少し驚いたように目を見開いた。


「……いいの?」


「よくはないわよ」


私は即答した。


「正直、勝手に監視されてたなんて、気分のいい話じゃないもの」


「……うん」


「でも、あなたが私に嘘をついてまで隠し続けようとしなかったことは、分かったから」


私は少し考えた。


父上は、私を連れ戻そうとはしなかった。


それでも、遠く離れた娘が無事に暮らしているかどうか、知りたかったのだろう。そのために、誰かを雇った。


監視されていたことには不満がある。でも、父上の気持ちが理解できないわけでもなかった。


「……父上が安心してたなら、まあ、いいけど」


私は小さく呟いた。


シエラは柔らかく微笑んだ。


「……きっと、安心してたと思う」


「……でも、条件があるからね」


「条件?」


「変なことまで報告しないで」


シエラは首を傾げた。


「変なこと?」


「だから、その……私生活のこととか!」


「……私生活?」


「特に、タクマとのこと!」


シエラは一瞬きょとんとした。


それから、口元に小さな笑みを浮かべた。


「……ああ」


「何よ、その反応!」


「……仲がいいから」


「そういうことじゃない!」


私は顔が熱くなるのを感じた。


王宮に、私とタクマの細かな生活まで知られていたらと思うと、落ち着かない。父上がどんな反応をするのかも、想像したくない。


「……とにかく、私が元気に暮らしてるとか、危険な目に遭ってないとか、そういうことだけにして」


「……分かった」


「本当に?」


「うん。できるだけ」


「……できるだけ?」


シエラは少し真剣な顔になった。


「危険なことは、報告しないといけないから」


私は少し考えた。


確かに、それは仕方がないのかもしれない。


「……分かった。そういうことならいいわ」


「……ありがとう」


シエラは微笑んだ。


私はお茶を一口飲み、ようやく少し落ち着いた。


それにしても、まさかシエラがこんな仕事をしていたなんて。


王宮を出てから七年間、私はずっと自由に暮らしているつもりだった。もちろん、誰にも見つからないとは思っていなかったけれど、こんなに近くで見守られていたとは想像もしなかった。


少し悔しい。でも、それ以上に、不思議な気持ちだった。


「……ねえ、シエラ」


「なに?」


「どうして今になって話してくれたの?」


シエラは少し考えた。


「……ボーマン様が来たから」


「うん」


「王宮がリカの居場所を知ってるって、もう分かったでしょう?」


「……まあ、そうね」


「だから、もう隠さなくてもいいかなって」


シエラは小さく笑った。


「……それに、いつかは話したかった」


「……どうして?」


「友達だから」


私は思わず苦笑した。


……それは、私も同じだった。


タクマに王女であることを隠していた私が、シエラにだけ秘密を責めるのも、少し違う気がする。


もちろん、事情はまったく同じではない。でも、言い出せない秘密を抱えたまま誰かと親しくなることの難しさなら、私にも分かる。


「……そうね」


私は小さく頷いた。


「じゃあ、これからは普通に話してよね」


「……うん」


「仕事の話じゃなくて、友達として」


シエラは嬉しそうに微笑んだ。


「……もちろん」


*


店を出る頃には、日が少し傾き始めていた。


私は買い物袋を持ち直し、シエラと並んで通りを歩いた。


さっきまでの重い話が嘘のように、彼女はいつもどおりの調子で話している。もっとも、シエラは元々あまり口数が多い方ではないので、話すのは自然と私の方が多くなる。市場で見かけた珍しい品物のことや、最近できた店のこと。私が話しかけると、シエラは短い言葉で答え、時折小さく笑った。


その様子を見ていると、少し前まで抱いていた不安が、ゆっくりと薄れていく気がした。


でも、一つだけ確認しておかなければならないことがある。


「……あ、そうだ。シエラ」


「なに?」


「私が王女だってこと、フリーダとクルシュには内緒だからね」


「……うん」


「本当に?」


「もちろん。二人は知らないよ」


私は少し安心した。


フリーダとクルシュは、大切な友人だ。私が冒険者として暮らし始めてから、何度も助けてもらったし、辛い時にも支えてくれた。


きっと、王女だったことを話しても、二人は受け入れてくれるだろう。


でも、今はまだ話すつもりはなかった。


王女という身分を知れば、余計な心配をかけてしまうかもしれないし、二人を面倒なことに巻き込みたくもない。


何より、私は今までどおり、ただのリカとして付き合っていたかった。


「……いつかは話すかもしれないけどね」


「……うん」


シエラは小さく頷いた。


「リカが決めればいいよ」


私は微笑んだ。


「ありがとう」


それから、私たちは通りの分かれ道で別れた。


「……またね、リカ」


「うん。またね、シエラ」


私は手を振り、家へ向かって歩き始めた。


しばらくしてから、ふと振り返った。


シエラの姿は、もう人混みの中に消えていた。


……本当に、忍びみたいな人だったんだ。


今さらそんなことを考えて、私は小さく笑ってしまった。


*


家に戻ると、タクマがちょうど訓練から帰ってきたところだった。


「おかえり、リカ」


「ただいま。タクマも今帰ったの?」


「うん。今日はハーケンさんに、足運びを重点的に教わってきたよ」


「そうなんだ。どうだった?」


「難しいけど、面白いよ。剣って、腕だけで振るものじゃないんだな」


タクマは楽しそうに話し始めた。


私は買い物袋を置き、彼の話を聞きながら夕食の準備を始めた。今日、シエラから聞いたことを、タクマにどう話そうか。少し迷ったけれど、隠す理由はないと思った。


王女だったことを隠していた時のように、また大切なことを一人で抱え込むのは嫌だったから。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「今日、シエラに会ったんだけどね」


私は、彼女から聞いた話を少しずつ伝え始めた。


王宮からの依頼で、私を見守っていたこと。監視だけでなく、護衛も任されていたこと。そして、今では仕事とは別に、私の友人でいてくれていること。


タクマは驚いたように聞いていたけれど、最後には少し考え込んだ。


「……そっか。リカのお父さん、本当に心配してたんだな」


「……そうね」


「でも、シエラさんが味方だって言ってくれたなら、よかったんじゃないかな」


「うん。私も、そう思う」


私は小さく笑った。


もちろん、監視されていたことに何の不満もないわけではない。でも、シエラが私のことを大切に思ってくれているなら、それを信じたい。


タクマは少し考え、それから笑った。


「何だか、リカの周りってすごい人ばっかりだな」


「……そう?」


「元近衛兵団長の先生がいて、忍びみたいな友達がいて。しかも、本人は王女様だろ?」


私は思わず吹き出した。


「……言われてみれば、そうかもしれないわね」


「俺、普通の会社員だったんだけどなあ」


「今は冒険者でしょ?」


「そうだけどさ」


タクマは笑った。


私も笑った。


王女だったことが知られて、父上がずっと私を見守ってくれていたことを知り、友人だと思っていたシエラの正体まで明らかになった。


たった数日の間に、随分と色々なことが変わった気がする。


でも、こうしてタクマと話している時間は、何も変わらなかった。


私は鍋をかき混ぜながら、ふと考えた。


自由に生きるというのは、誰とも関わらず、一人で何もかも決めることではないのかもしれない。


家族がいて、友人がいて、大切な人がいる。その人たちが何を思い、どうしてくれていたのかを知ったうえで、それでも自分の道を選ぶこと。


それが、私の望んでいた自由なのだと思う。


「リカ、何か手伝おうか?」


タクマが隣に立った。


「じゃあ、お皿を出してくれる?」


「了解」


彼は食器棚へ向かった。


私はその背中を見つめ、少しだけ微笑んだ。


王女だった頃の私が、今の暮らしを見たら、何と思うだろう。


王宮を飛び出した十五歳の私が、七年後に異世界から来た青年と一緒に暮らし、毎日の夕食を作っているなんて、きっと想像もできなかったはずだ。


でも、私は今の生活が好きだ。


タクマと一緒に過ごす、この何でもない時間が。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「今日の夕飯、少し多めに作ろうか」


「え、何で?」


「だって、二週間後から大変なことになるんだもの。今のうちに、しっかり食べておかないと」


タクマは一瞬きょとんとした後、笑った。


「そんなに厳しいの? ボーマンさんの訓練って」


「……想像以上よ」


「ますます楽しみだな」


私は深いため息をついた。


……この人、本当に分かってない。


でも、そんなタクマの顔を見ていると、不思議と私まで楽しみになってくる。


二週間後、ボーマンが戻ってきたら、きっとまた騒がしくなるだろう。タクマはあの老人の厳しさを知らないし、ボーマンの方も、教え甲斐のありそうな生徒を見つけて随分と嬉しそうだった。


今から少しだけ気が重いけれど、それでも、タクマが自分の意志で前へ進もうとしていることは、素直に嬉しい。


だから、今はこの穏やかな時間を大切にしたいと思った。


私は鍋の火を少し弱め、タクマに笑いかけた。


「じゃあ、今日はたくさん食べてね」


「うん!」


その返事を聞いて、私は満足そうに頷いた。


私たちの暮らしは、今日もいつもどおりだった。


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