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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第2章】脱走王女は恋をする

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第13話 銀髪の斥候


 目が覚めたとき、窓から差し込む光はいつもより高い位置にあった。


 私は寝台の上でしばらく天井を眺め、昨夜のことを思い返した。フリーダとクルシュ、それにタクマと四人で食事をして、随分と楽しい時間を過ごした。料理は美味しかったし、酒も進んだ。久しぶりにフリーダたちとゆっくり話せたことも嬉しかった。


 問題は、その話の内容だった。


「……うう」


 私は枕に顔を埋めた。


 昔の恋人の話をした。報酬をごまかされていたことも、他の女性と浮気されていたことも、フリーダに散々忠告されていたことも。そして、あろうことか、あんな男に純潔を捧げたのが人生最大の汚点だと、食堂中に聞こえそうな声で叫んでしまった。


 どうして、そこまで言ってしまったのだろう。


 酔っていたからという言い訳はできる。でも、あの程度の酒で記憶をなくすほど私は弱くない。つまり、あれは間違いなく自分の意思で口にした言葉だった。


 思い出すだけで顔が熱くなる。


 寝台の上でしばらく悶えたあと、私はようやく起き上がった。顔を洗い、髪を整えて居間へ向かうと、台所から食器の触れ合う音が聞こえてきた。


「おはよう、リカ」


 タクマが振り返った。


 すでに朝食の準備を終えたらしく、卓には焼いたパンと卵料理、それに温かいスープが並んでいる。私が寝坊している間に、食事の支度まで済ませてくれたようだった。


「……おはよう」


「今日はちょっと遅かったな。頭、大丈夫?」


「少し重いけど、平気」


「水、用意してあるから飲んで。朝飯もできてるよ」


「ありがとう……」


 私は椅子に腰を下ろし、水を一口飲んだ。


 タクマはいつもどおりだった。昨夜あれだけ恥ずかしい話を聞いたというのに、変に気を遣う様子もなければ、からかってくることもない。食器を並べながら今日の予定を確認し、私の返事を聞いて、何事もなかったように自分の席へ座る。


 その態度に安心する一方で、私はどうしても一つ確認したくなった。


「ねえ、タクマ」


「ん?」


「昨日、私……変なこと言ってなかった?」


 タクマは少し考えた。


「色々言ってたけど、どれのこと?」


「……忘れて」


「いや、あれは無理だろ」


「やっぱり覚えてるんだ……」


「そりゃ覚えてるよ。フリーダさんもすごい笑ってたし」


 私は両手で顔を覆った。


「もう嫌……」


「まあ、でも楽しそうだったからいいんじゃないか?」


「よくない……」


 タクマは声を立てて笑った。


 私も少し遅れて笑ってしまう。あれだけの話をした翌朝なのに、彼との間に気まずさはなかった。むしろ、昨日までより少しだけ気楽に話せるようになった気さえする。


 昨夜、タクマは私の過去を聞いても、態度を変えなかった。それどころか、私が自分の考えを話したことを、彼を信用しようとしている証拠なのだと受け取ってくれた。


 あの言葉を思い出すと、今でも胸の奥が温かくなる。


「……でも、ありがとう」


「何が?」


「色々」


 タクマは不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。


 私はスープを一口飲んだ。温かな味が、少し重かった頭をゆっくりと目覚めさせてくれる。


 今日もまた、いつもの一日が始まる。


 そう思えることが、何だか嬉しかった。



     *



 朝食を終えた私たちは、冒険者ギルドへ向かった。


 昨日の食事会では、フリーダたちと次の依頼について話し合っている。今日はその詳細を確認し、条件が合えば早速出発する予定だった。


 ギルドの中は朝から賑わっていた。依頼掲示板の前には冒険者たちが集まり、受付ではエリナが忙しそうに書類をさばいている。依頼の相談をする者、報酬を受け取る者、仲間と待ち合わせをする者。それぞれが今日の仕事へ向けて動き始めていた。


「おはよう、エリナ!」


「あ、リカ! おはよう!」


 エリナは顔を上げ、私たちを見ると笑顔になった。


「タクマさんもおはようございます。今日は二人で依頼ですか?」


「ううん。フリーダたちと一緒にね」


「そうなんだ! いいですねえ。リカがパーティで活動するなんて、何だか新鮮です」


「もう。エリナまでそんなこと言うの?」


「だって、本当のことですもん」


 エリナは楽しそうに笑った。


 昨日もフリーダに似たようなことを言われたばかりだ。そんなに私が誰かと組んで仕事をするのは珍しいのだろうか。確かに一人で依頼を受けることは多かったけれど、別に仲間が嫌いだったわけではない。


 そんなことを考えながら、私はフリーダたちの姿を探した。まだ到着していないようだったので、掲示板の方へ向かおうとした、そのときだった。


「リカ」


 背後から、聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、一人の女性が立っていた。


 褐色の肌に、肩のあたりまで流れる銀色の髪。頭には砂色のターバンを巻き、背中には細身の弓と矢筒を背負っている。軽い革鎧の下には動きやすそうな衣服を身につけ、腰には短剣を差していた。長く尖った耳が、銀髪の隙間から覗いている。


「シエラ!」


 私は思わず笑顔になった。


「久しぶり! いつ戻ってきたの?」


「昨日の夕方」


 シエラは小さく微笑んだ。


「リカも元気そう」


「うん! シエラも変わらないね」


「そう?」


「そうだよ。最近、全然見かけなかったから、遠くへ行ってるのかと思ってた」


「少し、東の方へ」


 彼女はそう答えて、軽く肩をすくめた。


 シエラはダークエルフの冒険者で、斥候として活動している。森や山での索敵、隠密行動、弓による遠距離攻撃を得意としていて、私も何度か一緒に依頼を受けたことがあった。


 彼女は普段から口数が少ない。必要なことを短い言葉で伝え、あまり自分から長々と話すことはないけれど、決して無愛想なわけではなかった。親しい相手には冗談も言うし、こうして柔らかな笑顔を見せることもある。


 ただ、何を考えているのか分かりにくいところは、昔から変わらない。


「ところで」


 シエラは私の隣へ視線を向けた。


「その人は?」


「あ、そうだった!」


 私はタクマを振り返った。


「紹介するね。こっちはタクマ。最近、一緒に仕事をしてるの」


「伊沢拓真です。よろしくお願いします」


 タクマが丁寧に頭を下げた。


 シエラも軽く会釈する。


「シエラ。よろしく」


「こちらこそ」


「タクマはね、東方のずっと遠いところから来たんだって。こっちのことはまだ分からないことも多いけど、すごく真面目で、色々助かってるの」


「東方の?」


 シエラはわずかに首を傾げた。


「ええ。かなり辺境の方です。こっちとは文化も随分違うので、まだ慣れないことばかりで」


 タクマは落ち着いて答えた。


 私たちは、彼の出身について誰かに尋ねられたときは、東方の最辺境から来たと説明することにしている。異世界から来たという話は、誰にでも気軽にできるものではない。信じてもらえるかどうかも分からないし、余計な騒ぎになっても困る。


 シエラは少しだけタクマを見つめ、それからうなずいた。


「そう。遠くから来たんだね」


「はい」


「大変だった?」


「まあ、最初は色々と。でも、リカに助けてもらったので」


 タクマが笑うと、シエラも口元を少し緩めた。


「リカに、迷惑かけられてない?」


「ちょっと、シエラ!」


 私は思わず声を上げた。


 タクマは少し驚いたあと、笑い出した。


「いえ、むしろ俺の方が迷惑かけっぱなしですよ」


「そう?」


 シエラは私を見た。


「なら、よかった」


「何がよかったのよ!」


「冗談」


 そう言って、彼女は小さく笑った。


 私は呆れたように肩をすくめた。


 まったく、シエラは昔からこういうところがある。



     *



 それからしばらく、私たちはギルドの片隅で立ち話をしていた。


 シエラは最近、街の東側に広がる森林地帯を歩いていたらしい。詳しい依頼内容は話さなかったけれど、周辺の魔獣の動きが少し変わっていると教えてくれた。


「ゴブリンが増えてる」


「ゴブリン?」


 私は少し眉をひそめた。


「この辺りでは、そんなに珍しくないけど……」


「群れが少し大きい。以前より、まとまって動いてる」


「そうなんだ」


「まだ街の近くまでは来てない。でも、注意した方がいい」


 シエラの言葉には無駄がない。


 彼女は斥候として優秀だ。特に、魔獣の痕跡を見つけたり、森の中で相手の気配を探ったりする能力は、私よりもずっと優れている。


 魔法で広範囲を探ることはできても、細かな足跡や折れた枝から相手の動きを読むのは、また別の技術なのだ。森の中で彼女と一緒に行動すると、自分が普段どれほど魔法に頼っているのか、改めて思い知らされることがある。


「ありがとう。気をつけるね」


「うん」


 シエラはうなずいた。


 それから、何かに気づいたように私とタクマを交互に見た。


「ところで、リカ」


「ん?」


「最近、その人とよくいるみたいだけど」


「うん?」


 シエラは少し首を傾げた。


「付き合ってるの?」


「……えっ!?」


 私は思わず声を上げた。


 タクマも少し驚いたように目を瞬かせた。


「な、何で急にそんな話になるの!?」


「一緒にいるから」


「一緒に仕事してるだけでしょ!」


「そう?」


 シエラは落ち着いた顔で私を見た。その視線が何だか妙に意味ありげで、私は余計に慌ててしまった。


「いや、まだそういう関係じゃないですよ」


 タクマが苦笑しながら答えた。


「まだ?」


 シエラがすかさず聞き返す。


 私はタクマを見た。


「ちょっと、タクマ!」


「えっ、俺?」


「その言い方だと、変に誤解されるでしょ!」


「いや、でも実際……」


「実際?」


 シエラが静かに続きを促した。


 タクマは少し考えてから、私を見た。


「リカ、どこまで話していい?」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 昨夜、私たちはお互いのことをもっと知っていこうと話した。まだ恋人ではないけれど、好意を持っている可能性はある。それを、どこまで人に話すべきなのだろう。


 もっとも、フリーダたちにはすでに色々と知られているし、エリナにも話してしまっている。今さらシエラにだけ隠す必要があるのかと考えると、それも少し違う気がした。


「今は、お互いのことを知ってる途中なの」


 私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら答えた。


「そう」


 シエラは小さくうなずいた。


 そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


「なら、楽しみ」


「何が!?」


「色々」


「シエラ!」


 タクマが隣で笑っている。


 私は思わず彼を睨んだ。


「タクマも笑わないでよ!」


「いや、ごめん。でも、シエラさんって面白い人だなと思って」


「ありがとう」


 シエラは真顔で答えた。


 褒められたことを喜んでいるのか、それとも私をからかっているのか。


 本当に、この人は分からない。



     *



「おう、リカ!」


 聞き慣れた声が響いた。


 振り返ると、フリーダとクルシュがこちらへ歩いてくるところだった。


「待たせたな!」


「おはよう、二人とも!」


「おはようございます」


 クルシュが穏やかに頭を下げる。


 フリーダは私たちの隣にいるシエラを見つけると、目を丸くした。


「おっ、シエラじゃねえか!」


「久しぶり」


「何だよ、帰ってきてたのか!」


「昨日ね」


「相変わらず静かな奴だなあ!」


「フリーダは、相変わらず賑やか」


「はははっ! 違いねえ!」


 フリーダは豪快に笑った。


 クルシュもシエラへ軽く会釈する。


「お久しぶりです。お元気そうですね」


「うん。クルシュも」


 シエラは二人とも顔見知りだった。


 冒険者として長く活動していれば、同じくらいの実力を持つ者同士で知り合う機会は多い。特に、危険な依頼では臨時のパーティを組むことも珍しくなかった。


「ところで、今日は何してんだ?」


 フリーダが尋ねた。


「依頼を探してた」


「ほう。なら、ちょうどいいじゃねえか」


「何が?」


「今からあたしら、四人で仕事に行くんだよ。お前も来ねえか?」


 私は思わずフリーダを見た。


「あ、それいいね!」


 シエラの斥候としての腕は確かだし、ちょうど周辺のゴブリンについても話を聞いたところだった。彼女が一緒にいてくれれば、森での行動はずっと安全になる。


「ねえ、シエラ。一緒に行かない?」


 シエラは少し考えた。


「いいの?」


「もちろん!」


「僕も構いませんよ」


 クルシュがうなずいた。


 タクマも笑った。


「俺も大丈夫です。人数が増えるなら、荷物の準備を少し調整しますね」


 シエラはタクマをちらりと見た。


「荷物?」


「あ、はい。俺は基本的にポーターなんです。戦闘はまだ訓練中なので」


「そうなんだ」


 シエラは小さくうなずいた。


「じゃあ、お願い」


「はい。任せてください」


 こうして、私たちは五人で依頼を受けることになった。


 選んだのは、街の東側にある森林地帯での薬草採取と、指定された魔獣素材の回収依頼だった。危険度はそれほど高くなく、タクマがポーターとして経験を積むにはちょうどいい。


 ただ、シエラから聞いたゴブリンの話もある。


 依頼を受ける前に、私たちは周辺の目撃情報を確認した。エリナによると、最近になって東側の森でゴブリンの目撃が増えているらしい。今のところ大きな被害は出ていないけれど、ギルドでも警戒を強めているという。


「無理に奥へ入らないこと。何かあったら、採取を中断して戻ってきてくださいね」


 エリナが念を押した。


「うん、分かってる」


 私はうなずいた。


 フリーダも胸を叩く。


「大丈夫だって! この面子なら、そうそう危ねえことにはならねえよ」


「そういう油断が一番危ないんですよ、フリーダさん」


「分かってるって!」


 エリナにまで注意され、フリーダは少し不満そうな顔をした。


 私たちは必要な道具を確認し、少し多めに水と携行食を用意してから街を出た。



     *



 街を出てしばらく歩くと、道の両側に木々が増え始めた。


 秋の気配が少しずつ近づいているのか、風は以前よりも涼しく感じられる。森の中には鳥の声が響き、木漏れ日が地面にまだらな模様を作っていた。


 先頭を歩くのはシエラだった。


 彼女は時折足を止め、地面に残った痕跡を確認したり、周囲の音に耳を澄ませたりしている。歩き方にも無駄がなく、柔らかい土を踏んでいるはずなのに、ほとんど足音が聞こえない。


 その後ろをフリーダが歩き、タクマとクルシュが続く。私は最後尾から周囲を警戒していた。


「シエラさんって、すごいですね」


 タクマが小声で言った。


「ん?」


「ほとんど音を立てずに歩いてるんで。あれ、どうやってるんですか?」


 私は少し笑った。


「シエラは斥候だからね。足音を消したり、気配を隠したりするのが得意なの」


「へえ……」


 タクマは感心したようにシエラの背中を見た。


 その視線に気づいたのか、シエラが振り返る。


「練習すれば、できるよ」


「本当ですか?」


「少しはね。でも、森では目だけじゃなくて、耳も使う」


「耳?」


「風。鳥。虫。いつもと違う音があれば、何かいる」


 タクマは真面目にうなずいた。


「なるほど……」


「足元も見て。折れた枝や踏まれた草で、通ったものが分かることもある」


「そういうのって、慣れですか?」


「慣れもある。でも、最初は意識して見ること」


 シエラは少しだけ微笑んだ。


「気づこうとしないと、何も見えないから」


 タクマはその言葉を何度か頭の中で繰り返すようにうなずいた。


 私は二人の会話を聞きながら、少し嬉しくなった。


 タクマは本当に、何でも吸収しようとする。知らないことがあれば素直に尋ねるし、教えられたことを軽く扱わない。こちらの世界へ来てから、彼はずっとそうだった。


 こういうところは、冒険者としても大切な素質なのだと思う。


 やがて、私たちは依頼の指定された場所へ到着した。


 薬草の採取は順調だった。


 クルシュが種類を確認し、タクマが丁寧に仕分けて袋へ収めていく。フリーダは周囲を警戒しながら、時々大きな葉を見つけてはクルシュに確認していた。


「おい、これも薬草か?」


「それは普通の草ですね」


「何だよ、紛らわしいな」


「似ていますけど、葉の形が違います」


「そんな細けえの、よく分かるなあ」


 フリーダは呆れたように首を振った。


 私は思わず笑った。


 そのときだった。


「止まって」


 シエラの声が、静かに響いた。


 私たちはすぐに動きを止めた。


 シエラは片膝をつき、地面を見つめている。指先で土の表面を軽くなぞり、それから周囲へ視線を走らせた。


「足跡」


 私は近づいて覗き込んだ。


 柔らかい土の上に、小さな足跡がいくつも残っていた。人間のものに似ているけれど、足の形が違う。しかも、同じ方向へ向かう痕跡が何本も重なっている。


「ゴブリン?」


「うん。新しい」


 シエラは周囲を見回した。


「近くにいる。少なくとも四体」


 フリーダが槍を構えた。


「よし。全員、警戒しろ」


 タクマも荷物を下ろし、ショートソードの柄に手をかけた。


 その動きは、思ったよりも落ち着いていた。


 私は少しだけ安心する。


 昨日、ハーケンに教わったことを、ちゃんと覚えているようだった。



     *



 最初に姿を現したのは、三体のゴブリンだった。


 木々の間から、緑がかった肌の小柄な魔物が現れる。手には粗末な棍棒や刃こぼれした短剣を持ち、こちらを見つけると甲高い声を上げた。


 フリーダが前へ出る。


「三体か。なら、あたしが……」


「まだいる」


 シエラが短く言った。


 次の瞬間、彼女の弓から矢が放たれた。


 木々の奥で小さな悲鳴が上がる。


 隠れていたゴブリンが、茂みの中へ倒れ込んだ。


「四体目」


「さすがだな!」


 フリーダが笑い、槍を構え直した。


 ゴブリンたちは一瞬ひるんだものの、すぐに奇声を上げて襲いかかってきた。


 フリーダが一体を迎え撃ち、クルシュが別の一体の足元に蔓を伸ばす。私は最後尾から全体を見ながら、必要ならすぐに魔法を使えるようにしていた。


 ところが、残った一体が私たちの横を抜け、タクマの方へ向かってきた。


「タクマ!」


 私は声を上げた。


 けれど、彼は慌てなかった。


 荷物から一歩離れ、ショートソードを抜く。


 ゴブリンが棍棒を振り上げた。


 その瞬間、タクマの体が動いた。


 相手の正面からわずかに外れ、棍棒が振り下ろされる軌道を避ける。同時に、タクマは短く踏み込み、相手の武器を持つ腕へ剣を振るった。


 刃が腕をかすめ、ゴブリンが甲高い声を上げる。


 棍棒が手から離れ、地面へ転がった。


 タクマはそのまま相手の側面へ回り込み、体勢を崩したゴブリンを押し倒すようにして距離を取った。


 ゴブリンは地面に転がり、慌てて起き上がろうとする。


 その動きを見て、タクマは剣を構え直した。


 けれど、追撃はしなかった。


「タクマ、下がれ!」


 フリーダが横から駆け込み、槍を突き出した。


 ゴブリンは短い悲鳴を上げ、そのまま動かなくなった。


 森に静けさが戻った。


 私はすぐに周囲を確認した。


「みんな、大丈夫?」


「おう! 問題ねえ!」


 フリーダが槍を引き抜いた。


 クルシュもうなずく。


「こちらも大丈夫です」


 シエラはすでに弓を下ろし、周囲の気配を探っていた。


「他にはいない」


 私はほっと息をついた。


 それから、タクマの方へ歩み寄った。


「タクマ、大丈夫?」


「うん。怪我はないよ」


 彼は剣の刃を確かめ、慎重に鞘へ収めた。


 その手つきにはまだ慣れないところがあったけれど、怯えている様子はなかった。


 私は少し驚いた。


 昨日、ハーケンから筋がいいと聞いてはいたけれど、実際に魔獣を相手に動くところを見ると、思っていた以上に落ち着いている。


 ゴブリンは人間より小柄とはいえ、武器を持った魔物だ。しかも、こちらへ向かってくる相手に、ためらわず剣を抜いて対応していた。


「お前、やるじゃねえか!」


 フリーダがタクマの肩を叩いた。


「今の動き、なかなかよかったぞ!」


「ありがとうございます。でも、最後はフリーダさんに助けてもらいましたね」


「気にすんな。あたしらは仲間だろ? 無理に一人で仕留める必要なんかねえよ」


 フリーダは笑った。


 その横で、シエラがタクマをじっと見つめていた。


「剣、習ってた?」


「あ、はい。故郷で長くやってました」


「どのくらい?」


「十年以上ですね。ただ、こっちの剣とはかなり違うので、まだ慣れてませんけど」


 シエラは少し目を細めた。


「十年以上……なるほど」


 それから、小さく微笑んだ。


「いい動きだった。間合いの取り方が上手い」


「ありがとうございます」


 タクマは少し照れくさそうに笑った。


 私はその様子を見ながら、ふと考えた。


 タクマは、魔獣と戦うことをそれほど怖がっていないのだろうか。


 もちろん、危険だということは理解しているはずだ。それでも、初めて自分に向かってくる魔物を相手にして、あそこまで落ち着いて動けるのは少し意外だった。


「ねえ、タクマ」


「ん?」


「怖くなかった?」


 タクマは少し考えた。


「いや、怖くないわけじゃないよ。でも、やれることは限られてるからさ」


「そうなの?」


「うん。相手の動きを見て、無理なら逃げる。できることだけやる。それだけだよ」


 私は少し感心した。


 タクマは続けた。


「それに、前の仕事でも色々大変なことがあったしね」


「仕事?」


「うん。現場の職人さんと納期に追われる生活だったから」


 私は首を傾げた。


「それと魔獣が、どう関係あるの?」


 タクマは少し笑った。


「いや、何というか……魔獣より現場の職人さんと納期の方が怖いときもあったなって」


「……え?」


 私は思わず聞き返した。


 フリーダが豪快に笑い出す。


「はははっ! お前の故郷の職人って、そんなに恐ろしいのかよ!」


「いや、普段はいい人たちなんですよ。ただ、納期が迫ってるときに無理なお願いすると……」


 タクマは遠い目をした。


「まあ、色々あります」


「何だよそれ! 気になるじゃねえか!」


 私たちは思わず笑ってしまった。


 魔獣より恐ろしい職人というのが、私にはどうにも想像できない。けれど、タクマがあまりにも真剣な顔をするものだから、きっと彼の故郷では色々と大変だったのだろう。


 そんなことを考えていると、シエラが小さく笑った。


「タクマの故郷、少し興味ある」


「いやあ、面白いところもありますけど、仕事は大変ですよ」


「そうなんだ」


 シエラは穏やかにうなずいた。


 私はそのやり取りを聞きながら、何だか少し嬉しくなった。


 タクマが、私の友人たちと自然に話している。


 少し前までは、知らない世界へ来たばかりで、何も分からなかった人なのに。


 今はこうして、冒険者として少しずつ経験を積み、仲間たちの中に自分の居場所を作り始めている。


 そのことが、私にはとても頼もしく感じられた。



     *



 その後、私たちは依頼を予定どおり終え、街へ戻ることにした。


 ゴブリンとの遭遇はあったものの、大きな問題は起きなかった。薬草も十分な量を採取できたし、指定された素材も無事に回収できた。


 帰り道、タクマは荷物の重さを確認しながら、歩く順番や休憩のタイミングを気にしていた。


「シエラさん、疲れてませんか?」


「平気」


「分かりました。じゃあ、次の分かれ道で一回休みましょうか」


「うん。ありがとう」


 シエラは短く答えた。


 けれど、その視線は時折タクマへ向けられていた。


 私は少し不思議に思った。


 シエラは普段、他人にあまり興味を示さない。もちろん、仕事の仲間として周囲を観察することはあるけれど、今日の彼女は何だか少し違うように感じる。


 初めて会う相手だからだろうか。それとも、タクマの剣の腕に興味を持ったのかもしれない。


 そんなことを考えていると、シエラが私の隣へ歩いてきた。


「リカ」


「ん?」


「いい人、見つけたね」


 私は思わず彼女を見た。


「だから、そういう関係じゃないってば」


「そう?」


「そうだよ!」


 シエラは小さく笑った。


「でも、楽しそう」


「え?」


「最近のリカ、楽しそう」


 私は少し黙った。


 確かに、そうかもしれない。


 タクマが来てから、毎日が随分と賑やかになった。朝は一緒に食事をして、昼は仕事へ出かけ、夜はその日の出来事を話す。


 以前は一人で過ごしていた家に、今は誰かがいる。


 それが当たり前になりつつあることを、私は少し不思議に感じていた。


「……うん」


 私は小さくうなずいた。


「楽しいよ」


 シエラはそれを聞いて、穏やかに微笑んだ。


「なら、よかった」


 私は彼女の顔を見た。


 何だか、少しだけ嬉しそうだった。


 シエラは昔から、こういうところが優しい。


 あまり多くを聞いてこないし、自分のことも積極的には話さない。けれど、私が何かを話すと、きちんと耳を傾けてくれる。


 だから、彼女と一緒にいるのは気楽だった。



     *



 街へ戻る頃には、空が少し赤く染まり始めていた。


 ギルドで依頼の完了を報告し、報酬を受け取ると、私たちは入口の前で解散することになった。


「いやあ、今日は楽しかったな!」


 フリーダが大きく伸びをした。


「五人もいると、やっぱり仕事が早えな!」


「そうですね。役割分担も上手くできていましたし」


 クルシュもうなずいた。


「特にシエラが先にゴブリンの痕跡を見つけてくれたのは助かりました。あれがなければ、不意を突かれていたかもしれません」


「大したことじゃないよ」


 シエラは小さく首を振った。


「でも、また機会があれば」


「おう! いつでも声かけろよ!」


 フリーダは笑いながら手を振った。


 私もシエラへ向き直る。


「今日はありがとう。久しぶりに一緒に仕事できて楽しかったよ」


「私も」


 シエラはうなずいた。


 それから、タクマを見た。


「タクマ」


「はい?」


「リカのこと、よろしく」


 タクマは少し驚いたように目を瞬かせた。


 けれど、すぐに笑った。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 私は思わず苦笑した。


「もう。シエラ、何だか保護者みたい」


「そう?」


「そうだよ。私、もう子供じゃないんだから」


 シエラは小さく笑った。


「知ってる」


 そう言って、彼女は軽く手を振った。


 私たちも手を振り返し、彼女が人混みの中へ消えていくのを見送った。


「面白い人だったな」


 タクマがぽつりと言った。


「でしょ?」


「うん。あんまり喋らないけど、何か優しい感じがする」


「そうなの。昔からあんな感じなんだよね」


 私は笑った。


 シエラとは何度も一緒に仕事をしているけれど、彼女のことを詳しく知っているわけではない。どこで生まれたのか、普段どんな生活をしているのか、そういうことはあまり話さない人だった。


 けれど、仕事では頼りになるし、私が困っているときにはさりげなく手を貸してくれる。


 だから、私は彼女を信用していた。


「それにしても」


 タクマが少し笑った。


「今日、何回付き合ってるのか聞かれたんだろうな」


「もう! 思い出させないでよ!」


「いや、悪い悪い」


 私は彼を軽く睨んだ。


 けれど、すぐに笑ってしまった。


 昨日、フリーダたちと食事をして、今日はシエラと再会した。


 タクマが来てから、私の周りの人たちとの関係も、少しずつ変わり始めている。


 以前は一人で仕事をすることが多かった私が、今は仲間と一緒に依頼を受けている。家へ帰れば、タクマがいる。彼もまた、私の友人たちと知り合い、自分の力で仕事を覚え、少しずつこの街での生活に馴染んでいる。


 それは、私が思っていた以上に心地よい変化だった。


 そして、今日の戦いを見て、もう一つ分かったことがある。


 タクマは、私が思っていたよりもずっと剣を扱えるらしい。


 もちろん、まだ経験は足りない。魔獣との戦いに慣れているわけでもないし、今の彼を一人で危険な場所へ送り出すつもりもなかった。


 それでも、あの落ち着いた動きには驚かされた。


 ハーケンが筋がいいと言っていたのも、少し分かる気がする。


「ねえ、タクマ」


「ん?」


「今日の戦い、結構よかったよ」


 タクマは少し驚いたように私を見た。


「本当?」


「うん。ちゃんと相手の動きを見てたし、無理に追いかけなかったのもよかったと思う」


「そっか。ありがとう」


 彼は少し嬉しそうに笑った。


「でも、まだまだだな。剣の重さも違うし、思ったとおりに動けないところもあったから」


「それは、これから慣れていけばいいんじゃない?」


「うん。そうするよ」


 タクマはうなずいた。


 私はそんな彼を見ながら、少しだけ笑った。


 この人は、きっとこれからも色々なことを覚えていくのだろう。できないことがあれば練習して、知らないことがあれば誰かに尋ねる。そうやって、一つずつ自分にできることを増やしていく。


 私は、その姿を隣で見ていたいと思った。


「明日も、頑張ろうね」


「もちろん」


 タクマは笑った。


 私たちは並んで歩き始めた。


 夕暮れの街には、仕事を終えた人々の声が響いている。店先では夕食の支度が始まり、通りを行き交う人々も、どこか家路を急いでいるようだった。


 私はその賑わいの中を歩きながら、今日の出来事を思い返していた。


 シエラとの再会。五人での依頼。そして、タクマが見せた意外な剣の腕。


 これから、彼はどんな冒険者になっていくのだろう。


 まだ分からないことは多いけれど、少なくとも、昨日までとは少し違う未来が見え始めている気がした。


 私は隣を歩くタクマをちらりと見た。


 彼はいつもどおりの顔で、前を向いている。


 その横顔を見ていると、何だか自然と笑みが浮かんできた。


 これからも、きっと楽しいことがたくさんある。


 そんな予感を抱きながら、私は彼と一緒に家路についた。


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