第7話 冒険者の適性
翌朝、目を覚ましたときには、いつもより少しだけ日が高くなっていた。
窓から差し込む光を眺めながら、私はしばらく寝台の上でぼんやりしていた。頭が痛いわけでも、気分が悪いわけでもない。ただ、昨夜は久しぶりにエリナとゆっくり飲んだせいか、身体がいつもより少し重かった。寝返りを打つと、昨夜の酒場で交わした会話が断片的に思い出される。エリナの笑い声、タクマの困った顔、それから店主まで加わって私の飲み方を話題にしていたこと。
……やっぱり、最後の果実酒は余計だったかな。
そう思いながら寝台を抜け出し、顔を洗ってから居間へ向かった。すると、台所の方から何かを焼く音が聞こえてきた。普段ならこの時間、家の中は静かなものだから、少し不思議な気分になる。
覗いてみると、タクマが竈の前に立っていた。
「おはよう、リカ」
「……おはよう。早いね」
「そうか? もう結構いい時間だけど」
言われて窓の外を見ると、確かに普段ならとっくに朝食を終えている頃だった。タクマは私より先に起きていたらしく、すでに食卓の準備を進めている。
「何してるの?」
「朝飯の準備。昨日いろいろ世話になったし、これくらいはやろうと思って」
卓の上には切り分けたパンと、野菜を入れた皿が並んでいる。竈の上では卵を焼いているらしく、香ばしい匂いが漂っていた。使い慣れない調理器具に少し苦労しているようだったけれど、手つきそのものはそれほど悪くない。
「料理、できるんだ?」
「まあ、簡単なものなら。向こうでも一人暮らししてたからな」
「へえ。意外」
「意外って何だよ」
「いや、何となく。料理とか、あんまりしなさそうだったから」
「失礼だな。これでも自炊くらいはしてたんだぞ。毎日ってわけじゃなかったけど」
タクマは苦笑しながら、焼き上がった卵を皿へ移した。
私は椅子に腰を下ろし、並べられた朝食を眺めた。特別凝った料理ではないけれど、野菜もきちんと切り揃えられているし、パンも軽く温められている。何より、自分が起きる前に誰かが朝食を用意してくれているというのが、少し不思議な気分だった。
七年前に王宮を出てからというもの、私は基本的に一人で暮らしてきた。誰かと食事をすることはあっても、自分の家で朝からこうして食卓を囲む機会はほとんどない。昨日までは私がタクマの世話をしているつもりだったのに、今日は彼に朝食を作ってもらっているのだから、何だか立場が逆になったようでおかしかった。
「ありがとう。助かるよ」
「こっちこそ。いつも世話になってるからな」
タクマは向かいの椅子へ座り、私たちは朝食を食べ始めた。
卵は少し焼きすぎだったけれど、味付けは悪くない。私はそのことを伝えると、タクマは「火加減がまだ分からなくてさ」と笑った。こちらの竈は、彼の故郷で使っていた調理器具とはずいぶん違うらしい。それでも、何度か使っているうちに少しずつ慣れてきたようだった。
「そういえばさ」
食事の途中、タクマが何気なく口を開いた。
「昨日、エリナが言ってた絡み酒って、結局見られなかったな」
私はパンを持つ手を止めた。
「……見なくていいよ」
「いや、ちょっと気になるけど」
「気にしなくていいの。昨日だって普通に飲んでたでしょ?」
「まあ、普通だったな。少なくとも俺から見れば」
「でしょ?」
「ただ、エリナがあれだけ言うってことは、普段はもっとすごいんだろうなって」
「……エリナも余計なことを」
タクマは楽しそうに笑った。
私は少しだけむっとしながら、残りのパンを口に運んだ。まったく、昨夜の歓迎会はタクマのために開いたはずなのに、どうして私の飲み方ばかり印象に残っているのだろう。
とはいえ、こうして冗談を言い合えるようになったのは悪いことではない。タクマも、こちらの生活に少しずつ慣れてきたのだろう。
*
朝食を終え、二人で片づけを済ませてから、私たちはギルドへ向かった。
昨日は運搬の仕事だったけれど、今日は何をするか決めていない。タクマは引き続き仕事を探すつもりらしく、道中も昨日の報酬や依頼の条件についていろいろと質問してきた。
「昨日みたいな仕事って、結構あるのか?」
「うーん。運搬の依頼自体は珍しくないけど、毎日都合よくあるとは限らないかな」
「やっぱりそうか」
「それに、条件のいい依頼は早めに取られちゃうこともあるしね。運搬専門で仕事を受けてる人もいるから」
タクマは少し考え込んだ。
「となると、毎日同じくらい稼げるとは思わない方がいいな」
「そうだね。冒険者の仕事って、安定してるとは言いにくいから」
ギルドには常にさまざまな依頼が集まってくるけれど、その内容も報酬も一定ではない。魔物の討伐や護衛のように危険を伴う仕事は比較的報酬が高い一方で、採集や運搬などの仕事は、依頼主の都合や時期によって数が大きく変わる。実績を積んで指名依頼を受けるようになれば事情も違ってくるけれど、登録したばかりのタクマにはまだ難しい話だった。
ギルドへ到着すると、すでに何人もの冒険者が掲示板の前に集まっていた。依頼書を手に仲間と相談している者もいれば、目当ての仕事が見つからないのか、難しい顔で掲示板を眺めている者もいる。
私たちもその中へ入り、初心者向けの依頼を確認することにした。
昨日と同じような運搬の仕事もいくつかあったけれど、長期間の拘束が必要だったり、荷馬車の扱いに慣れている人が条件だったりと、タクマには少し難しいものが多かった。中には報酬のよさそうな依頼もあったけれど、よく読むと経験者限定だったり、複数人での受注が条件になっていたりする。
「これは?」
タクマが一枚の依頼書を指さした。
「ええと……倉庫の整理だね。でも、三日間の仕事みたい」
「三日か。報酬は?」
「全部で二万ディール」
「……昨日の仕事と比べると、だいぶ安いな」
「昨日は追加の仕事もあったからね。あれは結構運がよかったんだよ」
タクマは納得したようにうなずいたものの、少し残念そうだった。
ほかの依頼も確認してみたけれど、条件の合うものはなかなか見つからなかった。仕事そのものはあるのに、自分が受けられる仕事となると途端に選択肢が狭くなる。新人冒険者が最初に苦労するのは、案外こういうところなのかもしれない。
「昨日は運がよかったんだな」
「そうだね。でも、仕事がないわけじゃないから、もう少し探してみようか」
そのとき、受付から声がかかった。
「リカ、タクマ。おはよう!」
エリナだった。
昨日の夜とは違い、今日はいつもの受付嬢の服装で、髪もきちんとまとめている。仕事中の彼女は相変わらず愛想がよく、冒険者たちの質問に手際よく答えながら、こちらへ笑顔を向けてくれた。
「おはよう、エリナ」
「おはよう。昨日はありがとうな」
「こちらこそ。楽しかったよ」
エリナは笑顔で答えたあと、私へちらりと視線を向けた。
「リカ、今日はちゃんと起きられた?」
「……起きられたよ」
「ふうん?」
「何?」
「別に?」
私は軽くため息をついた。
この話題は、しばらく続きそうだ。
タクマが苦笑しながら、エリナへ尋ねた。
「ところで、今日は仕事を探してるんだけど、なかなか条件が合うのがなくてさ」
「ああ、なるほど。昨日みたいな運搬の仕事?」
「できれば。でも、ほかにも俺にできそうなものがあれば」
エリナは少し考えたあと、受付の奥から一枚の依頼書を持ってきた。
「それなら、これなんてどうかな」
私が受け取って内容を確認する。
「……薬草採集?」
「そう。街道沿いの草原で採れる薬草を集める依頼。採集量に応じて報酬が決まるから、初心者でも受けやすいよ」
依頼書には、採集する薬草の種類と特徴、採集可能な区域が記されていた。場所はノヴァグラードから歩いて一時間ほどの草原で、街道から大きく離れなければ危険な魔物が出ることも少ない。薬草自体も比較的一般的な種類だから、見分け方さえ覚えればタクマにも十分できる仕事だろう。
「これなら、タクマにもできそうだね」
「薬草か。見分け方が分からないけど、大丈夫かな」
「私が教えるよ。何度か採集したことあるし」
エリナもうなずいた。
「リカが一緒なら安心だと思う。ただし、街の外だから、絶対に安全ってわけじゃないよ」
「それは分かってる」
タクマは真面目な顔で答えた。
私は依頼書を見ながら、少し考えた。
確かに、初心者向けの採集依頼としては悪くない。街道から近いし、魔物が出ても私が対処できる程度のものがほとんどだろう。ただ、タクマはまだ実戦経験がない。昨日の研修で剣と魔法の実力を確認したばかりだし、いきなり危険な場所へ連れていくつもりはなかった。
それでも、冒険者として仕事を続けるなら、いつかは街の外へ出なければならない。今回の依頼は、その最初の経験としてはちょうどいいのかもしれない。
「タクマ、ちょっと待ってて」
「ん?」
「準備したいものがあるから」
私はそう言って、ギルドの売店へ向かった。
*
売店には、冒険者向けの道具がいろいろと並んでいる。
薬草を入れる袋や縄、火起こしの道具、簡単な治療用品。そして、護身用の武器も置かれていた。私は棚に並んだ品物を見比べながら、タクマに持たせるものを選んだ。
剣を渡すことも考えたけれど、今の彼には扱いきれないだろう。そもそも、今日の目的は魔物と戦うことではない。採集の仕事を経験し、街の外での行動に少しずつ慣れてもらうことだ。
そこで私は、刃渡りの短いナイフを一本選んだ。
柄は握りやすく、鞘もしっかりしている。高価なものではないけれど、道具としては十分な品質だ。採集の際に紐を切ったり、簡単な作業に使ったりすることもできるし、いざというときには最低限の護身にも役立つだろう。
会計を済ませて戻ると、タクマが不思議そうな顔をした。
「何買ってきたんだ?」
「これ。タクマに」
私はナイフを差し出した。
「……ナイフ?」
「うん。護身用だよ」
タクマは少し戸惑いながら受け取った。
「でも、俺、まだまともに剣も使えないぞ」
「だから、戦うためじゃないよ。あくまで護身用。何かあったときに、少しでも自分の身を守れるようにね」
私は鞘の留め具を示し、腰への取り付け方を教えた。タクマは真剣な表情で説明を聞きながら、実際に自分の腰へ装着してみる。
「ただし、魔物が出たからって、これで戦おうとしないでね。危ないと思ったら、まず逃げること。私が一緒にいるときは、私の指示に従って」
「……分かった」
「それから、刃物だから扱いには気をつけて。むやみに抜いたりしないこと。必要なとき以外は鞘に収めておいてね」
タクマはうなずき、ナイフの位置を確かめた。
「ありがとう、リカ」
「どういたしまして。今度、ちゃんと使い方も教わろうね」
私は笑って答えた。
ナイフ一本で、魔物に対抗できるようになるわけではない。けれど、野外へ出る以上、最低限の備えは必要だと思う。何より、危険なときにどう行動するかを、少しずつ覚えてもらわなければならない。
タクマがこの世界で生きていくためには、私がそばにいるときだけ安全であればいいというわけではないのだから。
*
準備を終えた私たちは、街門を抜けて街道へ出た。
ノヴァグラードの城壁が背後へ遠ざかるにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。道の両側には畑や牧草地が広がり、その向こうには緩やかな丘陵が続いている。遠くには森の輪郭が見え、風が吹くたびに草原が波のように揺れていた。
街道には荷馬車や旅人の姿もあり、完全な荒野というわけではない。それでも、城壁の内側とは空気が違う。建物に遮られることなく吹き抜ける風や、遠くまで見渡せる景色は、街の中では味わえないものだった。
「……広いな」
タクマが感心したように呟いた。
「街の外に出るの、初めてだっけ?」
「ちゃんと歩くのは初めてかな。昨日までは街の中ばっかりだったし」
彼は遠くの景色を眺めながら、ゆっくりと歩いていた。
「こうして見ると、本当に別の世界に来たんだなって感じるよ」
「そう?」
「ああ。街の中も十分違ったけど、外はもっと違うな。建物も道も、何もかも」
私はタクマの視線を追った。
見慣れた草原と、遠くに続く森。私にとっては何でもない景色だけれど、彼には新鮮に映るのだろう。そう思うと、普段は気にも留めない風景が、少しだけ違って見える気がした。
「綺麗でしょ?」
「ああ。すごく」
タクマは素直にうなずいた。
私たちは街道を進み、目的の草原へ向かった。
道中、私は野外での基本的な注意点を説明した。街道から離れるときは周囲を確認すること、見通しの悪い場所には不用意に入らないこと、そして魔物が現れたときには無理に戦おうとしないこと。どれも冒険者にとっては基本的なことだけれど、タクマには初めて聞く話も多いはずだ。
「魔物が出たときは、まず私の後ろに下がってね」
「……やっぱり、出ることもあるんだな」
「あるよ。頻繁ではないけどね。この辺りは比較的安全だけど、絶対に出ないわけじゃないから」
私は少し考え、付け加えた。
「大事なのは、魔物が出るかどうかより、出たときにどうするかを決めておくことなんだよ。逃げる方向とか、誰が前に出るかとか、そういうことを先に考えておくだけでも全然違うから」
タクマはうなずいた。
「なるほど。仕事の段取りと似てるな」
「そうかもしれないね」
私は少し笑った。
確かに、冒険者の仕事にも段取りは必要だ。危険な場所へ行くなら、装備や逃げ道を確認し、何かあったときの対応を考えておく。戦闘が得意な冒険者ほど、そういう準備を怠らないものだ。フリーダも以前、どれだけ腕が立っても準備を怠れば命を落とすことがあると話していた。
その言葉は、今でも私の中に残っている。
*
目的の草原へ到着すると、私はタクマに薬草の見分け方を教えた。
今回採集するのは、細長い葉と淡い緑色の茎が特徴の薬草だった。傷薬などに使われる一般的な種類で、比較的広い範囲に自生している。ただし、見た目の似た植物もあるため、慣れないうちは慎重に確認する必要があった。
「これが目的の薬草だよ」
私は足元に生えていた一本を示した。
「葉の形だけじゃなくて、茎の色とか、匂いも覚えてね。似た植物があるから」
「なるほど」
タクマはしゃがみ込み、じっくりと観察した。
「……こっちの草とは、葉の付け根が違うんだな」
「そうそう。あと、こっちは茎が少し赤いでしょ?」
「ああ、本当だ」
彼は二つの植物を見比べながら、何度もうなずいた。
それから、持ってきた小さな紙を取り出し、何かを描き始めた。
「何してるの?」
「忘れないように、特徴を描いてる」
覗き込むと、そこには薬草の葉や茎の形が簡単な絵で描かれていた。文字はほとんどなく、違いが分かる部分に印がつけられている。決して細密な絵ではないけれど、特徴を捉えていて、あとから見返しても十分に区別できそうだった。
「……意外と絵が上手なんだね」
「いや、これくらい普通だよ。向こうでも、説明するときに簡単な図を描くことがあったから」
「へえ」
私は少し感心した。
タクマはまだこちらの文字を読めない。だからこそ、自分なりの方法で情報を整理しようとしているのだろう。読めないことを嘆くより、今できる方法を探す。その姿勢は、昨日の運搬依頼でも見られたものだった。
私は彼が描いた絵を見ながら、もう一つ特徴を教えた。
「あと、この薬草は少し湿った場所に多いんだよ。乾いたところより、草が密集してる場所を探した方が見つかりやすいかな」
「分かった。じゃあ、その辺も探してみよう」
タクマは紙をしまい、採集を始めた。
最初は一本見つけるたびに私へ確認していたけれど、何本か採るうちに、だんだん見分けるのが早くなっていった。私は近くで採集しながら、ときどき彼の集めた薬草を確認する。
「うん。これは大丈夫」
「こっちは?」
「あ、それは違う種類だね。葉の形は似てるけど、茎の色が違うでしょ?」
「……本当だ。難しいな」
「最初はそんなものだよ。慣れてくると、ぱっと見ただけでも分かるようになるから」
タクマは苦笑しながら、間違えた草を脇へ分けた。
こういう仕事は、慣れるまでが大変なのだ。けれど、一度覚えてしまえば、あとは経験を積むほど効率がよくなる。採集そのものは地味な作業だけれど、冒険者として活動するうえでは役に立つ知識も多い。薬草の生える場所を覚えれば地形や植生にも詳しくなるし、周囲を観察する習慣は危険を察知することにもつながる。
私はタクマの様子を見ながら、少し安心していた。
少なくとも、採集の仕事は彼に向いていそうだった。
*
しばらく採集を続けていると、タクマがふと顔を上げた。
「リカ、ちょっといいか?」
「何?」
「この薬草って、同じような場所にまとまって生えてることが多くないか?」
「うん。群生してることが多いね」
「だったら、一つ見つけたら、その周りを重点的に探した方が早そうだな」
「そうだね。それは正解」
タクマはうなずき、周囲を見回した。
「あと、少し地面が湿ってるところに多い気がする」
「うん。よく気づいたね」
「いや、さっきリカが教えてくれたからさ。実際に探してみたら、確かにそうだなって」
彼はそう言って笑った。
私は少し嬉しくなった。
タクマは教えたことをそのまま覚えるだけでなく、実際の仕事に当てはめながら考えている。昨日の運搬依頼でもそうだったけれど、彼は何かを始めるとき、まず状況を観察し、やり方を整理しようとするらしい。
派手な才能ではないけれど、こういう力はきっと役に立つ。冒険者の仕事は魔物を倒すことばかりではないし、何より、知らないことを学ぼうとする姿勢は大切だ。
私たちは採集場所を少しずつ移動しながら、薬草を集めていった。
ところが、草むらの向こうから、突然がさりと音がした。
私はすぐに顔を上げた。
「……タクマ、動かないで」
「え?」
「私の後ろに下がって」
タクマは何かを言いかけたけれど、私の表情を見て、すぐに立ち上がった。
草むらがもう一度揺れた。
次の瞬間、低い唸り声とともに、小型の魔物が姿を現した。
四本足の獣に似た姿で、背中には硬そうな突起が並んでいる。大きさは中型の犬ほど。強い魔物ではないけれど、鋭い牙を持っているため、不用意に近づけば怪我をすることもある。
魔物は低く身を伏せ、こちらの様子をうかがっていた。私にとってはさほど脅威になる相手ではないけれど、タクマには初めて見る野生の魔物だ。下手に刺激して飛びかかられれば、避けきれない可能性もある。
「……あれが魔物か」
タクマの声が少し硬くなった。
「うん。大丈夫、私が対処するから」
私は一歩前へ出た。
魔物は低く唸りながら、こちらを警戒している。すぐに襲いかかってくる様子はなかったけれど、こちらが近づけばどうなるか分からない。必要以上に傷つける理由もないので、追い払うことにした。
私は右手を軽く上げ、風の魔法を使った。
短い突風が草原を走り、魔物の前方の草を大きく揺らした。風に押された草が一斉に倒れ、土埃が舞い上がる。
魔物は驚いたように身をすくめ、こちらを一度睨んだあと、草むらの奥へ逃げていった。
私はしばらく気配を確かめ、完全に遠ざかったことを確認してから、タクマへ振り返った。
「もう大丈夫だよ」
「……すごいな」
「大したことしてないよ。追い払っただけだから」
タクマは魔物が消えた方向を見つめていた。
その表情には、驚きと緊張が残っている。先ほどまで薬草を探していたときとは違い、腰に取り付けたナイフへ無意識に手を添えていた。
「……俺、何もできなかったな」
小さな声だった。
私は少し考えてから答えた。
「何もしなくてよかったんだよ」
「でも……」
「タクマ、私の言うとおりに下がってくれたでしょ? あれで正解。もし無理に前へ出ていたら、かえって危なかったかもしれないんだから」
私は彼の腰にあるナイフへ視線を向けた。
「今日渡したナイフも、ああいう魔物と戦うためのものじゃないからね。勝てない相手と無理に戦わないのも、冒険者には大事な判断なんだよ」
タクマは少し黙ったあと、うなずいた。
「……そうだな」
「それに、最初から魔物と戦える人なんて、そんなにいないよ。訓練を受けて、経験を積んで、少しずつ覚えていくものだから」
「リカは?」
「……私は、ちょっと例外かな」
タクマが苦笑した。
「だろうな」
私は少しだけ笑った。
自分が特別だという自覚はある。魔法に関しては、昔から周囲の人たちに驚かれることが多かった。だからこそ、普通の人が何を難しいと感じるのか、私には分からない部分もあるのだと思う。
けれど、タクマにも同じことを求めるつもりはない。彼には彼の得意なことがあるし、苦手なこともある。昨日の仕事では、私には思いつかなかった方法で商人の困りごとを解決してみせたのだから、戦闘が苦手だからといって、冒険者に向いていないと決めつけるのは早いだろう。
大切なのは、自分にできることと、できないことを知ることだ。
それを少しずつ覚えていけばいいのだと思う。
*
魔物が去ったあと、私たちは少し場所を移して採集を再開した。
タクマは最初こそ周囲を気にしていたけれど、しばらくすると再び薬草探しに集中し始めた。私もときどき周囲を警戒しながら、彼の作業を手伝った。先ほどの魔物が戻ってくる気配はなく、草原には再び穏やかな風が吹いている。
やがて、持ってきた袋がそれなりに膨らんできた。
「結構集まったな」
「うん。初めてにしては上出来だと思うよ」
私は袋の中を確認した。
間違った種類の草はほとんど混ざっていないし、薬草の傷みも少ない。タクマは採集するとき、根元から無理に引き抜かず、必要な部分だけを丁寧に摘んでいた。最初に教えたことをきちんと守っているらしい。
「最初はどうなるかと思ったけど、意外と何とかなるもんだな」
「そうだね。タクマ、こういう仕事は向いてると思う」
「そうかな」
「うん。ちゃんと観察して、覚えたことを使ってるし。採集って、ただ草を集めればいいわけじゃないからね」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
それから、腰のナイフへ目を落とした。
「でも、戦いの方はまだまだだな」
「それは、これから覚えていけばいいよ」
「……やっぱり、必要だよな」
「うん。少なくとも、自分の身を守れるくらいにはね」
私は少し考えた。
昨日の研修で、タクマの剣と魔法の実力はある程度分かった。剣はまったくの素人というわけではないけれど、実戦で使えるほどではない。魔法も、今のところ十分な威力を出せない。
だからこそ、焦って戦闘依頼を受けるより、まずは基礎を身につける方がいい。魔物と戦えるようになることだけが目的ではないけれど、危険な場面で自分の身を守る方法を知っているかどうかは、冒険者として生きていくうえで大きな違いになる。
「今度、もう一回ハーケンさんに相談してみようか」
「剣の訓練?」
「うん。強い魔物を倒せるようになれとは言わないけど、危ないときに逃げるための時間くらいは、自分で作れるようになった方がいいと思う」
タクマは真面目な顔でうなずいた。
「分かった。俺も、もう少し練習したい」
「じゃあ、帰ったら相談してみよう」
私はそう言って、薬草の袋を持ち上げた。
今日の依頼は、これで十分だろう。採集量もまずまずだし、タクマにとっては初めての野外活動だった。無理に長居するより、余裕のあるうちに街へ戻った方がいい。
私たちは周囲に忘れ物がないことを確認し、街道へ向かって歩き始めた。
*
街へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。
ノヴァグラードの城門をくぐると、タクマは小さく息を吐いた。街の外へ出たときとは違い、見慣れ始めた建物や人々の姿に、少し安心したようだった。
「やっぱり、街の中に戻るとほっとするな」
「初めての野外依頼だったからね」
「ああ。思ったより緊張してたみたいだ」
「今日は魔物も出たしね」
私はうなずいた。
街の外では、どんなに安全だと言われている場所でも、予想外のことが起こる可能性がある。今回の魔物は大した相手ではなかったけれど、タクマにとっては初めての経験だった。
それでも、彼は慌てて逃げ出したり、無理に戦おうとしたりしなかった。私の指示を聞き、危険な場面では素直に下がってくれた。冒険者としては当たり前のことかもしれないけれど、実際に危険を前にすると、冷静に行動できなくなる人も少なくない。
そう考えれば、今日の経験は決して無駄ではなかったと思う。
ギルドへ戻ると、エリナが受付にいた。
「おかえり! どうだった?」
「うん。結構集まったよ」
私は薬草の袋を差し出した。
エリナは中身を確認し、奥の検品担当へ渡した。
「初めてにしては、なかなかいい感じじゃない?」
「リカに教えてもらったからな」
「でも、ちゃんと覚えて採ってきたんでしょ? それなら十分だよ」
エリナは笑顔で答えた。
しばらくして、検品結果が戻ってきた。採集量はまずまずで、品質にも問題はないとのことだった。報酬は昨日の運搬依頼ほどではなかったけれど、タクマは満足そうに受け取っていた。
「これで二日連続か」
「そうだね」
「昨日とは全然違う仕事だったけど、どっちも勉強になったよ」
タクマはそう言って笑った。
エリナもうなずいた。
「こういう仕事を続けていけば、採集依頼も一人で受けられるようになると思うよ。慣れてきたら、ほかの種類の薬草も覚えていけばいいし」
「なるほど。少しずつできることを増やしていく感じか」
「そうそう。最初から何でもできる必要はないからね。冒険者って、戦うだけが仕事じゃないんだから」
エリナの言葉に、タクマは納得したようだった。
私はその様子を眺めながら、少し考えていた。
今日の依頼を通して、タクマの得意なことと苦手なことが、少しずつ見えてきた気がする。仕事の段取りを考えたり、知らないことを覚えたりするのは得意そうだ。人と話すことにも慣れているし、昨日の商人とのやり取りを見ても、交渉が苦手というわけではない。
一方で、戦闘となれば話は別だ。今の彼が一人で魔物に遭遇したら、危険なことになるだろう。だからといって、いつまでも私が付き添っているわけにもいかない。
……いや、付き添うこと自体は構わないのだけれど、それだけでは彼のためにならない気がする。
私がそばにいる間は安全でも、私がいなければ何もできないのでは、彼が自立したことにはならない。今日の薬草採集も、いずれは一人でできるようになってもらいたいし、そのためには最低限の危険に対処できる力が必要だ。
「エリナ、ハーケンさんって、明日もギルドにいるかな?」
「ハーケンさん? うん、いると思うけど。どうしたの?」
「タクマの訓練について、もう少し相談したくて」
「ああ、なるほど」
エリナは納得したようにうなずいた。
「それなら、明日の午前中に来るといいと思うよ。午後は新人の訓練が入ってるはずだから」
「ありがとう。そうするね」
私はタクマへ顔を向けた。
「というわけで、明日はまた訓練かな」
「……やっぱりそうなるか」
「嫌?」
「いや、必要なのは分かってるよ。ただ、昨日の筋肉痛がまだ少し残ってるんだ」
タクマは苦笑した。
私は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、今日は早めに休もうか。明日も無理をする必要はないし、ハーケンさんに相談するだけでもいいんだから」
「ああ。そうさせてもらうよ」
私たちはエリナに挨拶し、ギルドをあとにした。
*
帰り道、タクマは腰のナイフを軽く押さえながら歩いていた。
「……これ、早く使い方を覚えないとな」
「そうだね。でも、まずは安全に扱えるようになることからかな。ナイフって、慣れないうちは自分を傷つけることもあるから」
「分かった。気をつけるよ」
タクマはうなずいた。
私は隣を歩く彼を見ながら、今日一日のことを思い返した。
昨日は商店の仕事で、今日は薬草採集。どちらも派手な冒険ではなかったけれど、タクマは確実に新しいことを覚えている。初めての仕事では、自分の経験を活かして商人の困りごとを解決した。今日の採集では、知らない植物の特徴を覚え、自分なりに工夫しながら作業を進めていた。
そして、初めて魔物と遭遇した。
あのとき、タクマは自分が何もできなかったことを気にしていたけれど、私はそれほど悪いことだとは思っていない。自分の力が足りないと知ることも、冒険者としては大切な経験だからだ。むしろ、そこで無理をして怪我をするより、ずっといい。
この世界へ来たばかりの彼にとって、今は何もかもが初めての経験なのだ。仕事のこと、街のこと、魔物のこと。そして、自分の身を守る方法。覚えなければならないことは山ほどあるけれど、焦って一度に詰め込んでも身につくものではない。
少しずつ、できることを増やしていけばいい。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「今日の仕事、楽しかった?」
タクマは少し考えたあと、笑った。
「ああ。楽しかったよ。魔物が出たときはちょっと怖かったけどな」
「そうだね」
「でも、昨日とは違うことができたし、知らないこともいろいろ覚えられた。正直、最初は冒険者なんて俺に務まるのかと思ってたけど、こういう仕事もあるんだなって分かったよ」
私はうなずいた。
「冒険者って、意外といろんな仕事があるからね。戦うのが得意な人もいれば、採集や調査が得意な人もいるし、護衛や運搬を専門にしてる人もいる。全部できる必要はないんだよ」
「そっか。じゃあ、俺にもできることを探していけばいいんだな」
「うん。そういうこと」
タクマは少し安心したように笑った。
「……明日も頑張ろうと思う」
私はその言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
「うん。私も付き合うよ」
「頼りにしてる」
「任せて」
私は笑って答えた。
タクマがこの世界で生きていくためには、まだ覚えなければならないことがたくさんある。けれど、今日の彼を見ていると、きっと少しずつ身につけていける気がした。
私ができるのは、その手助けをすることくらいだ。
……もっとも、本人が思っている以上に、私も彼から学ぶことがあるのだけれど。
昨日の運搬依頼で見せた段取りのよさも、今日の採集での工夫も、私にはなかった考え方だった。魔法が得意だからといって、何でもできるわけではない。タクマと一緒に行動していると、そんな当たり前のことを改めて思い知らされる。
だからこそ、これからが少し楽しみでもあった。
タクマがどんな冒険者になっていくのか、今はまだ分からない。けれど、少なくとも今日より明日、明日よりその次の日と、少しずつ前へ進んでいければ、それで十分だと思う。
夕暮れの街を歩きながら、私は隣のタクマへ目を向けた。
彼は腰のナイフを少し気にしながらも、どこか満足そうな顔をしていた。
その姿を見て、私は小さく笑った。
明日もまた、新しい一日が始まる。




