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6/70

俺はまだ、死んでない

首都アレスの城壁が、少しずつ小さくなっていく。


俺は馬車の窓からしばらくその景色を眺めていた。


初めての首都。


初めて見る獣人。


冒険者。


聖騎士。


そして――本物の魔術。


どれも前世では画面の向こうにしか存在しなかったものだ。


異世界へ来て八年。


俺はようやく、この世界のほんの一端を見た気がした。


膝の上には、セルウィスに買ってもらった木剣がある。


何の変哲もない子供用の木剣。


柄に革紐が巻かれているだけで、装飾らしい装飾もない。


それでも。


俺は何度も手に取って眺めてしまった。


『聖騎士、か』


口に出してしまったときは、自分でも驚いた。


でも。


今でもなってみたいと思っている。


問題は――。


俺にその才能があるのか、ということだ。


『もしかして、とんでもない剣術の才能があったりしてな』


木剣を握る。


そして妄想する。


剣を握れば天才。


さらに魔術にも類い稀な適性。


十歳の適性試験では試験官たちが騒然。


王立学院から即推薦。


そのまま史上最年少の聖騎士へ。


『……いやいや』


さすがに都合がよすぎる。


でも。


異世界転生だぞ?


前世で見ていた作品なら、これくらいあってもおかしくない。


『剣と魔術、両方に才能があったらどうするかな』


どっちを選ぶ。


いや。


両方やればいいんじゃないか。


剣も振れて、魔術も使える。


『それ、かなり格好よくないか?』


少し気分が良くなった。


そこで。


ふと、現実を思い出す。


近所の子供たちとのかけっこ。


一位になった記憶は――ない。


木登り。


普通。


腕相撲。


普通。


身体能力で周囲を驚かせたことも、一度としてない。


『……あれ?』


もしかして。


俺。


普通なのでは?


いや。


むしろ少し鈍い方なのでは?


「どうした?」


向かいに座るセルウィスが聞いた。


「いや……」


「木剣を見ながら、ものすごく難しい顔してたぞ」


「ちょっと自分の才能について考えてた」


「八歳で?」


セルウィスが吹き出した。


ステラまで笑う。


「まだ何も始めてないでしょう」


「そうだけどさ」


「十歳になれば分かるわよ」


ステラが言う。


「あなたならきっと――」


「王立学院に入れる?」


俺が先回りすると、ステラは満足そうに頷いた。


「もちろん」


「やっぱりそこなんだ」


三人で笑った。


俺もつられて笑う。


まあ。


才能がなかったら、そのとき考えればいい。


セルウィスが言った通りだ。


最初に選んだ道が、最後まで正解である必要なんてない。


『そのときは、そのときだな』


木剣を膝へ戻す。


不思議だった。


前世の俺なら、始める前から失敗する可能性を計算していただろう。


成功率。


費用対効果。


将来性。


そんなことばかり考えて。


でも今は。


とりあえず剣を振ってみたい。


魔術だって使ってみたい。


それでいい気がした。


俺は窓の外へ目を向けた。


山道へ入った頃には、日が大きく傾いていた。



夜。


街道を照らすものは、ほとんどなかった。


月。


星。


そして馬車の前方に吊るされた、小さなランタン。


首都では魔導灯が当たり前のように光っていたが、モニスへ続く山間の街道にそんなものはない。


窓の外は、ほとんど闇だ。


時折、木々の輪郭が黒い塊となって流れていく。


「到着は?」


ステラが御者へ聞いた。


「日付が変わる頃には着けると思いますよ」


遠くから返事が来る。


まだ随分ある。


俺は壁へ身体を預けた。


今日は朝から歩き回った。


しかも興奮しっぱなしだった。


眠くならない方がおかしい。


木剣を抱える。


『帰ったら……素振りか』


剣術の先生も探してくれるらしい。


魔術については――。


十歳になるまで待つのだろうか。


それともセルウィスの本を借りて、少しくらい勉強してもいいかもしれない。


考えているうちに。


まぶたが重くなった。


馬車の規則的な揺れ。


車輪の音。


セルウィスとステラの小さな会話。


それらが徐々に遠ざかっていく。


そして。


意識が落ちかけた――そのときだった。


馬車が激しく揺れた。


「うわっ!」


身体が前へ投げ出される。


俺は反射的に木剣を抱え込んだ。


馬車が急停止した。


馬が激しく嘶いている。


「何!?」


ステラが身体を起こす。


セルウィスもすぐに窓を見る。


俺の頭に最初に浮かんだのは、ひどく間の抜けたものだった。


『御者が居眠りでもしたか?』


崖。


落石。


車輪の故障。


そんな可能性を考えた。


外から男の声がした。


「お、お前ら! 何を――」


御者だった。


次の瞬間。


その声が途切れた。


何かが窓を叩いた。


ぴちゃ。


手の甲に、温かいものが付いた。


「……ん?」


暗い。


よく見えない。


指で触れる。


粘り気がある。


鼻をつく、生臭い匂い。


『これ……』


血?


ゆっくりと御者席の方を見る。


ランタンの光が揺れていた。


人影がある。


御者が座っていた場所。


いや。


身体はある。


でも。


その上にあるはずのものがなかった。


首から上が。


ない。


切断された首元から、まだ血が噴き出している。


「――え」


声が漏れた。


思考が一瞬。


完全に止まった。


そして。


次の瞬間。


頭だけが異常な速度で動き始めた。


『何人いる?』


窓。


左右。


前。


後ろ。


暗くて見えない。


『事故じゃない。襲撃だ』


武器は?


木剣。


駄目だ。


『馬車に残る?』


囲まれたら終わる。


『金を渡せば?』


交渉できる相手か?


御者を最初に殺している。


金だけが目的なら、普通はまず脅す。


つまり――。


『最初から生かして帰す気がない可能性が高い』


ここまで。


目が覚めてから、たぶん三秒も経っていない。


前世で営業をしていた頃。


顧客先で大きなトラブルが起きたことがある。


そのとき以来かもしれない。


これだけ短時間で頭を回したのは。


でも。


そんな経験は。


何の役にも立たなかった。


「アドリス! ステラ!」


セルウィスが叫んだ。


「馬車を降りろ!」


ほぼ同時に。


父の腕が俺の身体を抱え上げた。


「えっ」


俺を抱いたまま、セルウィスが馬車から飛び降りる。


着地と同時に身体が揺れた。


『父さん、こんな力あったんだ』


どうでもいいことが頭をよぎる。


ステラも後ろから飛び降りた。


外へ出て。


ようやく状況が見えた。


男たちがいる。


一人。


二人。


三人。


いや。


もっと。


暗闇から次々と姿が現れる。


まともな装備ではない。


汚れた服。


革鎧。


金属鎧。


それぞれが違う。


まるで色々な人間から奪った装備を寄せ集めたようだった。


手には剣。


鉈。


短槍。


『山賊……?』


アニメの中なら。


名前すら与えられないような連中。


でも。


現実に目の前へ立たれると。


怖い。


刃物を持った大人が何人もいる。


それだけで。


どうしようもなく怖い。


「ステラ」


セルウィスが低い声で言った。


いつもの穏やかな声ではなかった。


「アドリスを連れて逃げろ」


「あなたは?」


「いいから行け!」


「でも!」


「行け!!」


怒鳴った。


俺は初めて。


父があんな声を出すところを見た。


セルウィスは俺を地面へ下ろし、ステラへ押しやった。


ステラが俺の腕を掴む。


『逃げる』


頭では分かっていた。


走れ。


今すぐ。


山へ。


木の多いところへ。


大人では入りにくい場所へ。


隠れる。


朝まで待つ。


生き延びる。


全部分かっている。


でも。


俺の足は。


動かなかった。


セルウィスを見る。


剣を持っていない。


魔術も使えない。


戦った経験なんてない。


虫すら殺さない男。


そんな父が。


山賊たちの前へ立っている。


「金ならやる」


セルウィスが言った。


「全部だ」


革袋を投げる。


山賊の一人が拾った。


中を見る。


「おい。結構入ってるぞ」


「なら、それで――」


「駄目だ」


奥から声がした。


男が一人、歩いてくる。


他の連中より少しだけ装備がまともだった。


おそらく。


こいつが頭だ。


「ここで騒ぎになったら面倒なんだよ」


セルウィスの表情が変わる。


「誰にも話さない」


「そう言う奴ほど話すんだ」


男は仲間たちを見る。


ひどく慣れた口調だった。


「おーい。ちゃんと殺せよ」


軽い。


あまりにも。


軽い。


「この辺じゃ死体が一つ二つ増えたところで、朝まで誰も見ねえ」


「はいよ」


誰かが笑った。


セルウィスが。


飛びかかった。


「うああああっ!」


俺は目を見開いた。


父だった。


あの父が。


山賊の一人へ殴りかかっていた。


拳なんてまともに握れていない。


殴り方も知らない。


当然。


避けられた。


腹を蹴られる。


「ぐっ!」


セルウィスの身体が地面へ転がる。


それでも。


立った。


今度は地面から石を拾う。


投げる。


石は山賊の肩へ当たった。


「この野郎!」


男がセルウィスを殴る。


父が倒れる。


それでも。


足にしがみついた。


「逃げろ!」


こっちを見る。


「アドリス!」


その瞬間。


俺の手が腰へ伸びた。


木剣。


父からもらった。


俺の最初の剣。


これで。


『――何をする?』


止まった。


木だ。


ただの木。


刃物を持った大人相手に。


こんなもの。


何の役にも立たない。


昨日。


あんなに嬉しかったのに。


今は。


ただの玩具だった。


「父さん!」


叫んだ。


次の瞬間。


刃が走った。


セルウィスの身体が大きく揺れた。


胸から。


赤いものが噴き出した。


「――あ」


父が自分の胸を見る。


何が起きたのか。


自分でも分からないような顔だった。


膝をつく。


そして。


俺を見る。


「に……げろ」


それが。


最後だった。


身体が地面へ倒れる。


目から。


力が消えていく。


「父さん……?」


ステラが俺の手を引いた。


「アドリス!」


走る。


今度こそ。


走った。


でも。


八歳の身体だ。


速くない。


前世で何十年生きていようが。


頭の中で最適な逃走経路を考えようが。


身体は。


ただの八歳児。


すぐ後ろから足音が聞こえた。


『追いつかれる』


分かる。


『駄目だ』


ステラが振り返った。


俺を抱きしめる。


そのまま。


覆い被さった。


「お願いします!」


母が叫んだ。


「この子だけは!」


山賊の男が立ち止まる。


「知らねえよ」


息を切らせている。


「こっちだって、生きるのに必死なんだ」


剣が振り上げられる。


「待っ――」


刃が落ちた。


ステラの身体が震えた。


俺の頬に。


何か温かいものが落ちてくる。


「母……さん?」


ステラが俺を見る。


片目から涙が流れていた。


「アドリス……」


声が震える。


「逃げて……」


力が抜ける。


俺の上へ。


母の身体が倒れた。


「母さん」


返事がない。


「母さん?」


押す。


動かない。


さっきまで。


笑っていた。


王立学院へ行けと言って。


聖騎士になりたいと言った俺を喜んで。


木剣を買ってもらった俺を見て笑っていた。


『死んだ?』


父さんも。


母さんも?


ここで?


こんな奴らに?


二人の死を理解する時間すらなかった。


男が俺の前へ立つ。


剣を持っている。


俺を見る。


ただ、それだけ。


憎しみなんてない。


楽しそうですらない。


仕事を片づけるような顔だった。


『俺も死ぬ』


理解した。


逃げられない。


八歳の足では無理だ。


木剣では戦えない。


叫んでも誰も来ない。


『死ぬのか』


前世でも。


俺は。


死んだ覚えがない。


ベッドで眠った。


声を聞いた。


YESと答えた。


そして気づけば、この世界にいた。


だから。


これが。


初めてなのかもしれない。


自分が死ぬと確信したのは。


『こんなところで?』


涙が出た。


いつ以来だろう。


前世でも。


泣いた記憶なんて、ほとんどない。


せっかく。


人生が面白くなったのに。


父さんと母さんがいて。


知らない世界があって。


聖騎士になりたいなんて。


生まれて初めて。


自分からなりたいものまで見つけたのに。


『これからだったのに』


男が剣を振り上げる。


俺は目を閉じた。


『死んだ』


そう思った。


――キィンッ!


甲高い金属音。


身体が震える。


でも。


痛くない。


一秒。


二秒。


まだ。


意識がある。


どうやら俺はまだ、死んでない


恐る恐る目を開ける。


大きな背中があった。


俺と山賊の間に。


巨大な剣が一本。


山賊の刃を受け止めている。


「……は?」


山賊が声を漏らした。


大男が低く言った。


「ガキ相手に随分楽しそうじゃねえか」


聞き覚えのある声だった。


男が山賊の剣を弾き飛ばす。


「ジル!」


後方へ叫ぶ。


「一応、防御魔術を張っとけ!」


「了解!」


女の声。


「《プロテクト》!」


淡い青色の光が広がった。


大男。


そして少し離れた場所にいる二人の仲間。


三人の身体を薄い膜のような光が包む。


「ダイス!」


「分かってます!」


杖を持った男が前へ出た。


山賊たちが振り返る。


「誰だてめ――」


「雷よ、戒めろ――《ボルテック》!」


青白い閃光。


夜が一瞬。


昼間のように明るくなった。


雷が地面を走る。


一本。


二本。


三本。


山賊たちへ絡みつく。


「ぐああああっ!」


「か、身体が……!」


男たちの動きが止まった。


「ガイルさん!」


「言われなくても分かってる」


大男――ガイルが。


動いた。


速い。


あれだけ巨大な身体なのに。


俺の目では追えなかった。


大剣が一度振られる。


一人。


二人。


三人。


山賊が倒れていく。


戦闘。


そんな言葉すら似合わなかった。


一方的だった。


さっきまで。


父さんを簡単に殺した連中。


母さんを殺した連中。


俺にはどうすることもできなかった大人たち。


それが。


ガイルの前では。


ただ倒れていく。


山賊の頭だけが残った。


「ちっ……!」


男が短剣を抜く。


二本。


左右の手で構えた。


「ヘタ打ったか」


ガイルを睨む。


「だが――!」


地面を蹴った。


速い。


少なくとも。


俺にはそう見えた。


短剣がガイルへ迫る。


でも。


そこに。


ガイルはいなかった。


「……ん?」


山賊が足を止めた。


その直後。


何かが。


俺の近くへ転がってきた。


ごろ。


ごろ。


止まる。


人間の顔。


目を開いたまま。


口だけが。


何かを言いたそうに開いている。


さっきの。


山賊の頭だった。


俺は。


声すら出なかった。


胃の奥から何かが込み上げる。


でも。


吐けない。


視線を逸らす。


その先には。


セルウィスがいる。


ステラがいる。


動かない。


すると。


さっきまで恐ろしかった山賊の首なんて。


どうでもよくなった。


『……父さん』


『母さん』


剣と魔術。


冒険者。


聖騎士。


チート能力。


昨日まで。


俺はこの世界を。


前世で見た物語の延長として見ていたのかもしれない。


でも。


違う。


ここは。


ゲームじゃない。


アニメでもない。


人が斬られれば。


血が出る。


死ぬ。


そして。


死んだ人間は。


もう動かない。


「坊主」


大きな影が俺の前へ立った。


顔を上げる。


返り血のついた大剣。


無精髭。


右の眉から頬へ伸びる古い傷。


「……あ」


知っている。


昨日。


宿の酒場で。


俺が肩をぶつけた男。


ガイルが俺へ手を差し伸べた。


「大丈夫か?」


大丈夫。


そんなわけがなかった。


俺は。


伸ばされた手を見る。


何か言おうとした。


でも。


声が出なかった。


そのとき。


背後で小さな金属音がした。


チャリン。


ジルが山賊の死体から落ちた財布を拾い上げる。


中から数枚の硬貨が地面へ散らばった。


その中に。


一枚だけ。


黒い硬貨が混じっていた。


ジルの手が止まる。


「……黒貨?」


ガイルが振り返る。


ほんの一瞬。


表情が変わった。


「こんな三流が?」


だが。


それ以上は続かなかった。


俺は。


その言葉を聞いていなかった。


ただ。


父と母のところへ行きたかった。


木剣を握りしめたまま。


俺は。


動かない二人のもとへ。


歩いた。

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