知らない世界へ
あれから、八年が経った。
高橋悠一――いや。
今の俺は、アドリス・ライラス。
八歳になった。
赤ん坊の頃は、正直どうなることかと思った。
三十六歳の意識を持ったまま、おむつを替えられ、乳を飲み、寝返り一つ満足にできない。
人生をやり直せると分かったときは胸が躍ったものだが、最初の一年ばかりは、
――人生って、こんなところから始まるんだったな。
と妙な悟りを得たものだ。
だが、歩けるようになり。
言葉を話せるようになり。
文字を覚え。
自分の意思で外へ出られるようになると、この世界は急速に面白くなっていった。
何より――知らないことだらけだった。
前世では、それがなかった。
テレビをつければ世界の裏側まで映像で見られた。
分からない言葉があれば、端末一つで調べられた。
行ったことのない国の街並みですら、家にいながら見ることができた。
便利だった。
だが同時に、世界から「未知」というものが少しずつ失われていたのかもしれない。
ここでは違う。
家から見える山の向こうに何があるのかさえ、俺は知らない。
それだけで少し楽しかった。
「アドリス。これ、昨日の続きよ」
朝食を終えた俺の前に、どさり、と本が置かれた。
またか。
顔を上げる。
母――ステラは満足そうに笑っていた。
分厚い本が三冊。
歴史。
算術。
それから――この国の法律についての初歩書。
八歳児に読ませる本じゃないだろ。
「母さん」
「なあに?」
「今日は外で遊ぼうかと」
「読み終わってからね」
即答だった。
逃げ道がない。
ステラという女は、前世風に表現するなら教育ママだ。
俺が文字を覚え始めて以来、家には次から次へと教材が増えていった。
最初は童話だった。
次は地理。
その次は算術。
最近では歴史や政治まで混ざっている。
どうやら彼女は、俺を首都にあるアレス王立学院へ入れたいらしい。
王立学院。
名前からして、まあエリート校なのだろう。
前世でも私立高校の受験くらいは経験した。
勉強すること自体には抵抗はない。
ただ――。
『また同じ道か』
と思うことはあった。
良い学校へ行く。
良い職を得る。
安定した生活を送る。
それが悪いとは思わない。
前世の俺だって、それなりにその道を歩いた。
ただ。
二度目の人生まで、まったく同じように歩く必要があるのだろうか。
せっかく剣と魔術があるかもしれない世界に来たというのに。
……そう。
魔術。
この世界には、本当に魔術が存在していた。
初めて知ったのは五歳の頃だった。
父――セルウィスの仕事部屋で、一冊の本を勝手に開いたときだ。
紙面には円や線、俺には読めない記号が複雑に描かれていた。
最初は幾何学の本かと思った。
しかし、その横に書かれていた文字を追って、俺は固まった。
――火元素の励起。
何度読み返しても同じだった。
その日の夜、俺は父に聞いた。
「父さん」
「なんだい?」
「魔術ってあるの?」
セルウィスは目を丸くした。
それから笑った。
「あるよ」
あまりにも普通に返されたので、逆に俺が固まった。
「……本当に?」
「本当に」
「火とか出る?」
「出せる人はね」
その夜は、興奮してなかなか眠れなかった。
異世界。
そう思っていた。
だが、それまでは確証がなかった。
文化の違うどこか。
知らない時代。
そんな可能性だって、頭の片隅には残っていた。
でも――魔術。
さすがにこれで決まりだろう。
俺は本当に、異世界にいる。
しかし、そう都合よく人生はできていなかった。
翌日から俺が「魔術を見たい」とせがんでも、セルウィスは困ったように笑うだけだった。
理由は後で知った。
父は魔術師ではない。
魔術師を支える仕事をしている。
薬剤や触媒の調合。
文献の整理。
古い術式の照合。
実験の記録。
俺の理解では、研究助手のような仕事に近い。
ある晩、父の机で本を読んでいたときだった。
何気なく聞いた。
「父さんは魔術、使わないの?」
セルウィスの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「使わないんじゃないよ」
父は笑った。
「使えないんだ」
「……使えない?」
「父さんには、魔術師になるだけの適性がなかった」
意外だった。
魔術に関する本なら、家にいくらでもある。
俺よりよほど詳しい。
それなのに使えない。
「悔しくなかった?」
八歳の子供がするには少し妙な質問だったかもしれない。
だが、セルウィスは笑わなかった。
少し考えてから、俺の隣へ腰を下ろした。
「昔はね」
机の上に積まれた文献を一冊手に取る。
「子供の頃は、父さんも魔術師になりたかった」
「じゃあ――」
「でも、なれなかった」
淡々とした声だった。
「残念ながら、父さんには魔術の適性がなかった。それだけだ」
セルウィスはページを捲った。
そこにはびっしりと書き込みがされていた。
父の字だった。
「だけどね、アドリス」
セルウィスは笑った。
「父さんは今の仕事に誇りを持っているよ」
俺は黙って父を見た。
「魔術師が一人で魔術を作り上げるわけじゃない。薬を作る人もいる。資料を探す人もいる。失敗した術式が、なぜ失敗したのか調べる人もいる」
本を軽く叩く。
「父さんが調べた資料で、新しい術式が完成したこともある」
その表情には、負け惜しみのようなものはなかった。
本当に。
この人は自分の仕事が好きなのだ。
「アドリス」
「うん」
「お前もいつか、自分の子供に誇れるような仕事に出会えるといいな」
その言葉だけは、妙に胸に残った。
前世の俺は。
自分の仕事に誇りを持ったことがあっただろうか。
就職活動をした。
当時伸びていた業界を選んだ。
なんとなく人と話すのが得意だったから営業職になった。
そこそこ成果も出した。
給料も悪くなかった。
仕事が嫌いだったわけでもない。
だが――。
『俺はこの仕事が好きだ』
そう思ったことは、一度もなかった気がする。
生活するため。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
俺はその日。
生まれて初めて――いや。
二度目の人生で初めて、父親を尊敬した。
◇
数日後の休日。
朝食を食べていると、セルウィスが珍しく声を弾ませた。
「そうだ。二人とも」
ステラが顔を上げる。
「なに?」
「明日は首都で聖騎士団の凱旋式があるらしい」
「まあ」
ステラの表情が明るくなった。
俺はパンを口に入れたまま首を傾げた。
「聖騎士?」
セルウィスがこちらを見る。
「知らないのか?」
「本には出てきたけど、よく分からない」
「アレス王国を守る騎士たちだよ」
「衛兵とは違うの?」
「違うなあ」
父は腕を組んだ。
どう説明したものか考えているらしい。
「街の治安を守ったり、犯罪者を捕まえたりするのは主に衛兵の仕事だ。聖騎士は……そうだな」
少し考える。
「もっと危険な仕事をする」
「戦争?」
「それもある」
父の声が少し低くなった。
「大型の魔獣。国外から来る武装集団。普通の兵士では対処できない魔術犯罪……そういうものを相手にする」
魔獣。
また一つ、嬉しくない単語が増えた。
でも同時に。
胸のどこかが騒いだ。
「強いの?」
「そりゃあ強いさ」
セルウィスは笑った。
「誰でもなれるものじゃないからね」
「どうやったらなるの?」
今度はステラが答えた。
「十歳になったら適性試験を受けるのよ」
「適性試験?」
聞き返した俺に、ステラは当然のことを説明するように続けた。
「王国内の子供はみんな受けるの。学術、武術、魔術……いろいろね」
『……全国民?』
少し引っ掛かった。
「試験を一回受けたら、何が得意か分かるの?」
「そんな簡単じゃないわよ」
ステラが笑う。
「筆記もあるし、実技もあるし、試験官と話もするわ。何日かかけて、その子が何に向いているのかを見るの」
なるほど。
水晶に触れたら、
――剣士適性S!
みたいな世界ではないらしい。
その点は少し安心した。
「じゃあ、結果で仕事が決まるの?」
俺が聞くと、両親が一瞬顔を見合わせた。
「決まるというより……」
セルウィスが言葉を選ぶ。
「進む道を勧められる、かな」
「勧められる?」
「魔術適性が高ければ魔術教育を受けられる。武術に優れていれば騎士養成の道もある。学術が優れていれば王立学院から推薦を受けることもある」
なるほど。
合理的だ。
その人間が何に向いているかを早いうちに判断して、才能を伸ばす。
前世にも似た制度はあった。
だが。
『十歳で、か』
少しだけ違和感があった。
十歳。
前世なら、まだ将来の夢を聞かれて、
サッカー選手。
宇宙飛行士。
漫画家。
なんて答えていた年齢だ。
その頃に国家から「あなたにはこれが向いています」と言われる。
便利なのかもしれない。
効率的なのかもしれない。
でも。
『それで人生決められたら、たまったもんじゃないな』
そんなことを思った。
もっとも。
前世では三十六になっても、自分に何が向いていたのかよく分からなかったのだが。
そう考えると、案外ありがたい制度なのかもしれない。
「アドリスも、あと二年ね」
ステラが嬉しそうに言った。
「きっと学術適性は高いわ」
「まだ分からないよ」
「王立学院に入れるくらいはあるわ」
やっぱりそこか。
「まあまあ」
セルウィスが苦笑する。
「今から進路を決めなくてもいいだろう」
そして俺を見る。
「それよりどうだ? アドリス、見に行くか?」
「聖騎士?」
「ああ」
俺は少し考えた。
剣。
魔術。
魔獣と戦う騎士。
この世界へ来て八年。
本でしか知らなかったものを、初めてこの目で見られる。
断る理由なんてなかった。
「行く」
即答した。
セルウィスが笑う。
「決まりだな」
ステラも立ち上がった。
「だったら早く準備しましょう。首都まで時間がかかるわよ」
この村から首都アレスまでは、馬車で数時間。
俺にとっては初めての遠出だった。
窓の外を見る。
冬の終わりを迎えた空は高く、遠くに連なる山々の頂だけがまだ白い。
あの向こうに何があるのか。
俺はまだ知らない。
首都すら見たことがない。
聖騎士も。
魔術師も。
魔獣も。
この世界がどれほど広いのかさえ知らない。
それが。
どうしようもなく楽しみだった。
前世では、明日が今日とほとんど同じだと知っていた。
今は違う。
扉を一つ開けるたびに、知らないものが現れる。
俺は立ち上がった。
「父さん」
「ん?」
「早く行こう」
セルウィスは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ああ」
こうして俺は初めて。
生まれ育った町を離れ――
アレス王国の首都へ向かうことになった。




