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死んだ覚えはない、だが

冬の乾いた夜空が、俺を見下ろしていた。


吐いた息が白く滲んで、すぐに夜へ消えていく。


俺は高橋悠一。三十六歳。


どこにでもいる、しがない会社員だ。


昔から勉強はそこそこできた。運動も人並み以上にはこなせた。

大学を出て、それなりの会社へ入り、それなりに仕事を覚え、それなりに評価もされた。


大きな失敗もなければ、大きな成功もない。


たぶん世間から見れば、悪くない人生なのだろう。


だからこそ、厄介だった。


俺は人生に絶望しているわけじゃない。


ただ――飽きていた。


毎朝ほとんど同じ時間に起き、同じ電車に乗る。


会社へ行けば、昨日とは名前だけ違う仕事が待っている。


上司の機嫌を読み、取引先に頭を下げ、同僚と当たり障りのない話をして、数字を追う。


それが終われば家へ帰る。


そして眠る。


次の日には、また同じことを繰り返す。


十年後も。


二十年後も。


なんとなく想像できてしまう。


このまま定年まで勤め上げて、老後はどこかの老人クラブにでも顔を出して。


身体のどこかが悪くなれば病院へ通い、最後はベッドの上で家族に看取られるのだろう。


悪い人生ではない。


むしろ、きっと幸福な人生だ。


――だから何なんだ。


そんなことを考えながら、いつものコンビニへ入った。


棚から缶ビールを一本取る。


買う銘柄まで、いつも同じだった。


家へ帰り、ネクタイを緩める。


冷蔵庫へ買ってきた惣菜を放り込み、ソファへ身体を沈めた。


プシュッ。


小気味のいい音とともに缶を開ける。


帰宅後のこの一本だけは、今でも嫌いじゃない。


誰にも話しかけられない。


誰にも気を遣わなくていい。


誰かの評価も、会社の売上も、明日の予定も関係ない。


ほんの一時間か二時間だけ、自分の人生から降りられる。


ビールを一口飲み、テレビをつけた。


動画配信サービスを開く。


最近、俺が見るものはほとんど決まっていた。


異世界ものだ。


剣。


魔法。


魔物。


冒険。


現実ではあり得ないほど強くなって、仲間に囲まれ、広大な世界を旅する主人公。


昔なら鼻で笑っていたかもしれない。


三十六になった今は、妙に魅力的に見えた。


「異世界か……いいよなぁ」


誰もいない部屋で呟く。


テレビの中では、主人公が巨大な魔物を魔法で吹き飛ばしていた。


俺はビールを傾けながら、自分の腹を見た。


少しだけ出てきた。


腰も最近痛い。


全力疾走なんて何年していないだろう。


「でも俺が行ったって、剣なんか振れないしな」


思わず笑った。


「魔法だって、才能ないかもしれん」


仮に本当に異世界へ行ったところで、主人公になれる保証なんてない。


兵士A。


村人B。


あるいは魔物に襲われて一話で死ぬ旅人。


たぶん、その程度だ。


「完全にモブだな、俺」


口に出すと妙に可笑しくて、少し笑った。


乾いた笑いだった。


それでも。


テレビの向こうに広がる、見たこともない大地を眺めながら思う。


「……まあ」


もう一口、ビールを飲む。


「それでも、今よりはマシか」


自分で言っておきながら、少しだけ胸に残った。


俺は別に死にたいわけではない。


今の人生が耐えられないほど苦しいわけでもない。


ただ。


もう一度くらい。


何が起きるのか分からない明日を迎えてみたかった。


テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。


母親からだった。


――この前話した人、一度会ってみない?


数日前から勧められている見合いの話だ。


三十六にもなれば、親が心配するのも分かる。


画面からテレビへ視線を戻す。


そこでは主人公を囲んで、何人もの美しい女性が楽しそうに笑っていた。


「一方、俺はお見合いか……」


しばらく見比べる。


「あー、やめやめ」


スマートフォンを伏せた。


考え始めると虚しくなる。


ビールを飲み終え、テレビを消す。


シャワーを浴びてベッドへ入った。


明日も仕事だ。


今日とほとんど変わらない一日が始まる。


目を閉じる。


意識がゆっくりと沈んでいった。


眠りへ落ちる、そのほんの一瞬だった。


――声がした。


男だったのか。


女だったのか。


老人だったのか。


子供だったのか。


今となっても思い出せない。


ただ、何かを問われた。


そんな気がした。


意味も内容も分からない。


夢の中の出来事のように曖昧だった。


俺は眠気に任せて、それに答えた。


――YES。


なぜ英語だったのかすら分からない。


その瞬間。


世界が途切れた。



朝だ。


そう思った。


また今日も一日が始まる。


いつものように身体を起こそうとして――


動かなかった。


『……ん?』


力が入らない。


腰が痛いとか、寝違えたとか、そういう話ではない。


手も足も、思った通りに動かせない。


そして妙に視界がぼやけている。


『なんだ……?』


知らない天井が見えた。


白いクロス張りではない。


木だ。


太い梁がむき出しになった、古めかしい天井。


『……どこだ、ここ』


身体を起こそうとする。


やはり動けない。


声を出そうとした。


「ぁ……ぅ」


出たのは、自分のものとは思えない小さな声だった。


『は?』


そのとき。


視界いっぱいに女の顔が現れた。


若い。


二十代くらいだろうか。


見たことのない女性だった。


長い髪が頬へ垂れている。


女性は俺を見て、嬉しそうに笑った。


「アドリスー。こっち見て」


『……誰だ?』


アドリス?


人の名前か?


俺が混乱していると、女性の表情が少し変わった。


「あら」


俺の身体を覗き込む。


そして何でもないことのように言った。


「おしっこした」


『…………は?』


奥から男の声がした。


「じゃあ、俺がおむつ替えようか?」


『おむつ?』


頭が追いつかない。


女が俺の身体を持ち上げる。


信じられないほど簡単に。


視界が動く。


そこで初めて見えた。


小さな腕。


小さな手。


指。


ぷっくりとした、赤ん坊の手だった。


『待て待て待て待て』


頭の中だけが猛烈な勢いで動き始める。


『さっきまで俺は家にいた』


会社から帰って。


ビールを飲んで。


テレビを見て。


ベッドへ入った。


『夢だ』


そうに決まっている。


夢以外に説明がつかない。


『疲れてるんだ。最近仕事も忙しかったし』


そう思った。


そう思うことにした。


だが。


その夢は、なかなか覚めなかった。



あの日から、おそらく二か月ほど経った。


赤ん坊の身体では時間の感覚が曖昧だ。


寝て。


起きて。


飲んで。


泣いて。


また寝る。


そんな生活をしているうちに、それくらいの時間が過ぎたのだと思う。


そして俺は、ようやく一つの結論に達しつつあった。


これは夢ではない。


いや。


もしかすると、とてつもなく長い夢なのかもしれない。


だが最近では、むしろこう思うようになっていた。


――頼むから、覚めないでくれ。


俺はどうやら、もう一度人生を始められるらしい。


この家の男はセルウィス。


女はステラ。


会話を聞いているうちに分かった。


二人は夫婦で。


俺はその息子。


そして俺の名前は――


アドリス。


高橋悠一ではない。


アドリスだ。


人種まで変わったらしい。


まだ首もまともに動かせないから、この世界がどんな場所なのかはほとんど分からない。


ただ、家を見る限り、少なくとも現代日本ではなさそうだった。


木造の壁。


見慣れない照明。


俺の知らない衣服。


父と母の会話には、時折意味の分からない単語も混ざる。


それでも不思議なことに、言葉そのものは少しずつ理解できるようになっていた。


異世界。


その言葉が何度も頭をよぎった。


まさかな。


そう思う。


でも同時に。


期待している自分もいた。


三十六年間生きた男が、赤ん坊として生き直す。


そんな馬鹿げた話が、本当に自分の身に起きている。


裸にされ。


おむつを替えられ。


母親の乳を飲む。


成人男性だった記憶があるぶん、恥ずかしさがないと言えば嘘になる。


だが、不思議と嫌ではなかった。


まだ何も始まっていない。


この世界で俺が何になるのかも分からない。


剣があるのか。


魔法があるのか。


本当にあのアニメのような世界なのか。


何も分からない。


だからこそ。


少しだけ胸が高鳴った。


三十六歳になってから、こんな感覚を覚えたことがあっただろうか。


明日、何が起こるのか分からない。


それが。


こんなにも楽しい。


ステラの腕の中で、俺は小さな手を握った。


第二の人生。


もし本当にそんなものがあるのなら。


今度は少しくらい、自分から面白い方へ歩いてみよう。


そう思った。


ただ。


一つだけ。


どうしても思い出せないことがあった。


俺はあの夜。


眠っただけだ。


事故に遭った記憶はない。


病気でもなかった。


少なくとも――


死んだ記憶がない。


では。


俺はどうして、ここにいる?


そして眠りに落ちる寸前。


あの声は。


俺に何を聞いた?


なぜ俺は――


YESと答えた?

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