4 素直になりません? (6)
――嫌な沈黙が、訪れた。
しばらく硬直していたハーベスト嬢がハッとしたように、ぐったりと蹲った彼へと駆け寄る。
「ディートス! しっかりしてちょうだい、ディートス! 嘘よ、死なないで……! 貴方が居ない人生なんて私、耐えられない……」
今にも死にそうな声で、ハーベスト嬢はドレスが汚れるのにも構わずその身体に必死で縋りつく。身体を丸めたディートスの手からポタリポタリと血が落ちていった。
「お嬢様……」
それを気にする様子もなく、ゆらりとディートスは立ち上がる。そこに浮かぶ彼の表情は、普段に比べて随分と下手くそな笑顔だ。
「っ……!」
ディートスの表情に吞まれたように、ハーベスト嬢は続ける言葉を失う。ディートスはそんな彼女へゆっくりと手を伸ばし……。
「非常に言いにくいのですが、私……全然平気です」
あっさりと、言い放ったのであった。
「へ?」
「ほんの少し手を切っただけで、大怪我というわけでは全く……」
未だ彼の言葉の意味を理解できないハーベスト嬢を横目に、私はこっそり頷いた。
すぐに助けに飛び出さなかったのは申し訳なかったと思う。だが、私が傍観者に努めることにしたのは、これなら軽傷で済むだろうという見立てがあったからなのだ。
怪我をした手を押さえながら、ディートスは気まずそうに首を傾げる。
「その……、心配してくださってありがとうございます」
「~~~~~っ!」
一瞬で、ハーベスト嬢の頬に朱が上った。わなわなと唇が震える。
ああ、このまま彼女が感情に任せて言葉を発してしまったら、また心にもない罵倒が飛び出してしまう――。
「ハープ! 私の可愛いお姫様、ケガはないか!?」
しかし、彼女の口から出かかっていた言葉は、もう一人の乱入者によって妨げられたのだった。
「ぇ……お父様……?」
「ああ、良かった。ハープ、無事なんだね? 心配したよ……!」
おそらく「ハープ」というのはハーベスト嬢の愛称だろう。計画外の出来事に、侯爵は随分と動転しているらしい。先日は一度も聞くことのなかった娘の可愛らしい呼び名を何度も繰り返しながら、彼はハーベスト嬢を強く抱き締める。
愛娘を心配するその姿は真摯な愛情に満ちていて、見ているこちらまで感動が伝わってきた。もしかするとこれでハーベスト嬢も父とのわだかまりが解けるのではないか――そんな甘い見通しを私が持ちはじめたところで、ハーベスト嬢の冷たい言葉が放たれた。
「どうして、お父様がここに居るのですか」
「そ、それはだな……」
咄嗟の返答を迷った父親を見て、ハーベスト嬢の視線はますます厳しいものになる。
「本日のお父様のスケジュールに、この辺りの予定はなかったはず。アレクサンドリアの態度からして妙だと思っていましたが……まさかこの襲撃、お父様の計画したものではないですよね?」
――わぉ、流石は仕事のデキるハーベスト嬢。真相に気がつくのは早すぎはしませんか。
というかフローリア侯爵も、私のことを恨めしそうに見るのはやめてほしい。隠し事が多少顔に出てしまっていたのは申し訳ないと思うけれど、今のこの状況は間違いなくアンタがここに乱入してきたのが直接の原因だ。
「そうやって、いつもいつも周囲を駒のように使って……! 私、本当に怖かったのに……」
「いや、すまないと思っているがこれは……」
「何!? お父様は何がしたいの!? お父様のお望み通り、毎日毎日……私、頑張ったのに。よくやったって、お父様に一言褒めてもらえればそれだけで良かったのに。それがまさか、こうやって実の娘を襲わせようとまでするなんて……」
「違う、違うんだ。お前を傷つけるつもりなど……」
「じゃあ、一体何なのよ……!?」
ハーベスト嬢の感情的な非難に、フローリア侯爵の返事はしどろもどろだ。このまま放っておくと、二人の仲はさらに拗れかねない。
「侯爵閣下……」
見かねて、私はそっと口を挟んだ。
「もう覚悟して、素直になりません? このまま意地を張っても、娘さんとの関係は悪くなる一方ですよ。だったら最初から諦めていないで、ちゃんと自分の気持ちを言葉にしましょう?」
「ああ……」
呻くような声を洩らして、フローリア侯爵は力なく首を振った。覚悟を決めた、というよりは追い詰められて仕方なく、といった風情だが、そこは無理もあるまい。
「ハープ……今更こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、私はお前のことが心配で――」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「馬っ鹿じゃないの!?」
フローリア侯爵の弁明を一通り聞き終えた後で、ハーベスト嬢は容赦なくそんな言葉を投げつけたのであった。
「本当は私のことを想ってたとか! この婚約はちゃんと私のことを考えて設定したとか! 私たちの仲を心配したとか! 勝手なことばっかり……」
「す、すまない……」
項垂れるフローリア侯爵の身体は、この短時間で一回り以上小さくなってしまったようだ。そんな父親を前に、ハーベスト嬢はもどかしそうに激しく首を振った。
「違うのよ! 私が怒ってるのは、どうしてそれをもっと早く言ってくれなかったのかってこと! お父様が素直な気持ちを伝えてくれていれば、私だって……」
そこまで口にしてから、彼女はハッとしたように言葉を切った。しばしの間目を閉じ、自身の中で何か折り合いをつけるようにハーベスト嬢はじっと思考に身を委ねる。
やがてゆっくりと目を開けた彼女は、「ああ、もうっ」と淑女としては些か乱暴な動作で父親に抱きついた。
「なんかお父様を責めていると私まで居た堪れなくなってしまうから、もう良いわ。言いたいことは色々あるけれど……それでも……ええ。大好きよ、お父様。心配してくれてありがとう」
「ああ、ハープ……」
しばらく躊躇ってから、侯爵は意を決したように娘の髪を撫でる。それにしばらく身を委ねてから「……私も」と、ハーベスト嬢はポツリと呟いた。
「勇気を出してみせるから、お父様はこのまま見ていて」
そっと父親から離れると、ハーベスト嬢はつかつかとディートスに歩み寄った。まるで睨んでいるような、怒っているような――それでいて泣きそうな苦しそうな表情で、彼女はディートスを見上げる。
そんな彼女の手は、力強く握り締めるあまり血の色を失って真っ白になっていた。普段の彼女であれば、指の先まで優雅な動きが染みついているはずなのに。その青白さは、何よりも雄弁に彼女の緊張を物語っている。
「ディートス……」
震える声で、彼女はそっと婚約者の名前を呼んだ。
「さっきは私を庇ってくれて、ありがとう。本当に……怪我は大したことないのね?」
「ええ、お嬢様。ご心配おかけして申し訳ありません」
「良かった……ごめんなさい、ディートス。私なんかを庇ったがために、アナタに怪我をさせてしまって。でも……嬉しかった」
私ね、と声を震わせながらもハーベスト嬢はゆっくりと言葉を続ける。
「今のお父様の話を聞いて、気がついたの。もっと早く素直な言葉を言ってくれたらって……それは私にも当てはまることだなって。私、アナタにとってどう考えても理想的な婚約者じゃなかったし、理想的な主人でもなかったと思う。我が儘だし、八つ当たりするし、気分で振り回すし……」
段々に声は小さくなり、視線は俯きがちになっていく。だが、彼女は気を取り直したように「でも」と、もう一度顔を上げた。
「でも、本当はアナタのこと、大好きだった。小さな時からずっと、穏やかに私のことを見守ってくれるアナタに惹かれていた。優秀で、理知的で、周囲の人のためにそっと自分が犠牲になる……そんなところを、本当は尊敬していた。素直じゃない、可愛くない婚約者でごめんなさい。でも、もしもまだ間に合うのなら……私ともう一度関係を築きなおしてほしいの」
「お嬢様……」
ディートスはそっと彼女の前に跪き、彼女の手を取る。
「過分なお言葉、ありがとうございます。でも、心配しないでください。私は決してお嬢様を嫌うようなことはありませんから。私だって長い間、お嬢様の側にお仕えしてきたんです。貴女の魅力はよくわかっている」
ディートスはそう言いながら、そっと手に口づけを落とした。
穏やかな微笑みは普段と変わらぬもののようでありながら、その視線にこれまでにない熱と愛情が籠められているように見えるのは気の所為だろうか。
「お嬢様が素直になれない性格なのは、重々承知しています。その上でこうして言葉にしていただけたことが本当に……本当に、嬉しい。ええ、遅すぎるなんてことはありません。これからゆっくりと、二人で歩んでまいりましょう」
「ディートス……」
「えぇい、お前たち! 婚約者とはいえ距離が近すぎる!」
しっとりと見つめ合う二人の間を、焦れたようにフローリア侯爵が割って入った。
――まったく、この人は……二人の間を取り持ちたいのか引き離したいのか、どっちなんだ。
呆れた私の視線と目が合うと、侯爵はふいっと気まずそうに目を逸らした。一応、自分でも大人気ないという自覚はあるらしい。
「もうお父様の用は済んだのでしょう? お忙しい御身なのですから、そろそろ本来のお仕事に戻ったらいかが?」
「まあまあ、お嬢様。旦那様もお嬢様との交流に焦がれているんですよ」
「そう思うならディートス君、その場所を譲ってくれても良いんじゃないかね?」
ははははは、と目がまったく笑ってない三人の笑い声が響く。
……不思議なものだ。表面上のお上品な会話より、この殺伐としたやり取りの方が、この三人の空気はぐっと柔らかくなっていた――。




