22 【ソランジュ】セリドの牢にて
どこかで水音が聞こえる。燭台の明かりはぼんやりと入り口を照らし、牢屋の端は薄暗く、湿っていた。
敷き詰められた石の上に、壮年の男はいた。身体を捻るようにして左右に動かしていた。
じゃら、と手の枷が鳴る。エルベルは檻の中で定期的に身体を動かし、筋肉が落ちるのを防ごうとしていた。食事の量からいって、逞しいその身体を完璧に維持するのは難しいが動かなければ細るばかりである。
無駄だ、とは誰も言わなかった。共に捕まったユインもアルゼも、三人別々の牢に入れられた。柵を挟んで反対側にユイン、その隣にアルゼがいる。
エルベルは定期的に身体を動かし、ユインは漆喰と金属で固められた牢の隅を削ろうと苦心し、アルゼは体力温存とばかりに座っていた。
王子を救わねばならない。彼ら三人に共通した意識はそれだけだった。
頑強な忠誠心は、絶望するのを良しとしない。彼らが諦めたら誰が彼を守るというのだ。
「無駄なことをするのですね」
澄んだ声が優しくかかってきた。驚いて一瞬目を見開いたエルベルは、牢の入り口を見た。
そこには金髪をまとめて綺麗に編み込んだ美しい女性が立っていた。
反対側の牢でユインが口の中で小さく「魔女が」と呟いた。
「そんなことをなさらずとも、一言アベルが魔女の集会を開いていたと証言するのならば、出して差し上げますわよ?」
美しい女性、王妃ソランジュは口の端に笑みのようなものを浮かべて、ゆっくりとエルベルの牢の前に来た。それが笑みと呼べないのは、親愛の情がひとかけらも入っていないからだろうか。
もう少し近づけば、手を伸ばして首をへし折ってやろうというのに、ぎりぎりの距離で彼女は立ち止まる。エルベルは残念な様子も見せずに答えた。
「お前の甘言に乗るような人間なら、そもそもここに押し込められもしないだろう」
淡々としたエルベルの言葉にソランジュは「それもそうですね」と首を傾げた。
「私に仕えるのも、アベルに仕えるのも変わりないでしょうに」
その言葉にまだ若い騎士であるユインが反応した。
「アベル殿下を侮辱するな、魔女が! お前とは天地ほどに違うわ!」
「ユイン」
エルベルが鋭い視線を向けると、彼は黙った。余計なことを言わない方がいい。ユインは魔女に対峙するには経験不足だ。しかしその言葉を聞いたソランジュは口元に手を当てて笑いを漏らす。
「ふふ、どこが違いますの? アベルと私、とてもよく似ていますのに」
ガチャンと大きな音がした。思わず両手で牢の柵を掴むユインだが、黙ったまま怒りに燃えた視線でソランジュを睨む。彼の主君と同じ金の髪と空色の目を持った女は、その苛烈な視線をさらりと流して気にする素振りもない。
彼女はエルベルの牢の前からゆっくりとユインの前を通り過ぎて、そして我関せずの無表情を貫いて座っているアルゼの前へ歩いて行った。
「アルゼ、あなたもまだ意志は変わりませんの? アベルが魔女だという真実を受け入れるつもりはないと?」
「……俺は面倒くさがりでね」
彼は表情を変えずに答える。
「主君を変えるのは面倒くさい。命令を二つ以上聞くのも面倒くさい。アベル殿下を守るという最初の命令以外は面倒くさくて聞きたくない」
やれやれと内心ソランジュはため息をついた。この三人は断固として彼女の術にはかからない。いっそ殺してしまおうかと思う時もある。
いや、と彼女は首を振った。素直に従ってくれるのならば彼らの力はそれぞれ突出している。騎士数十人と引き替えても惜しくない。何より騎士団長のエルベルだけでも懐柔しないと、近衛兵が上手く動かない。そのためには他の二人も殺すわけにはいかないのだ。
セリドの国力は出来るだけ下げたくなかった。アベルの死が彼らの心を折ることができたら、その時は。
エルベルの牢の前に戻ると、彼女は胸元を緩めた。豊満な胸元がちらりと見えるが、エルベルは何の感情も見せずに、また黙々と身体を動かしていた。
「アベルの」
その胸元には小さな、天秤型の痣があった。
「身体に天秤の痣があったでしょう?」
エルベルは眉を上げた。その反応にソランジュは納得したように頷いた。
「ああ、そこまでは知られてないのですね。魔女の証と呼ばれる痣を」
聞いたことがない。アベルの身体に痣があることも、そして魔女にそのような痣があるということも。よってエルベルは何も言わなかった。
「殿下にそんな痣なんかあるか!」
やはり耐えきれずにユインが叫ぶ。ソランジュはちらりと横目で彼を見て、ふふふと笑うと緩めた胸元をまた締め直した。
そこに小さな声がした。
「母様」
幼い少年の声である。薄暗い燭台の下、牢屋の入り口の階段に立っているのは第二王子キリクだった。ソランジュの姿が見えなかったから探したのだろうか。彼はいつも寄り添うように彼女の傍にいた。
「キリク、どうしたの?」
豪勢なドレスを翻すようにして、ソランジュが入り口へ向かった。地下の閉鎖された空間に、靴音が反響する。キリクは母親に寂しげに笑いかけた。
「どちらにいらっしゃるのかと思ったのです。戻りましょう、母様」
キリクは牢を見回して、目を伏せるとキリクは母の手を取った。抗うことなく頷くソランジュは、もう一度彼らを見回すと、艶やかな笑みを漏らす。
「よく考えておいてくださいね。一生ここにいるか、死ぬか、私に仕えるかですよ」
エルベルは何も言わずに見つめ返し、ユインは睨み殺しそうな瞳で、アルゼは返事すらも面倒くさいのか床に横になっていた。
そんな母の手を引くようにして、繋いだキリク王子の右腕がちらりと見えた。
蝋燭の揺らぐ明かりでは、その腕にある彼の天秤型の痣は誰にも見えなかったようだった。




