16 【アベル】 魔女は今
アベルが目を覚ますと、目の前が真っ暗だった。何か柔らかい布で目隠しされている。一瞬何事が起こったのかと思い返してトビアスに縛られたことを思い出した。
「……まったく、あいつは」
あの後、閉じた扉に向かって散々罵倒したが、さっさと別室に行ったトビアスは戻ってこなかった。疲れもありそのままベッドの上で寝てしまったようだ。体力は大分回復しているが変な姿勢で眠ったため身体が痛い。首を回して、少し身体を動かしてみる。
その時、ふと後ろに縛られた手に何かが触れた。ベッドのシーツと上掛けの間に挟まっているものがある。
手探りで形を探ってみると、形状からして鞘に入った短剣のようなものである。眠る前には確実に無かったはずだ。
これを使えば縛っているロープは切れるだろう。アベルは自由になるはずだ。
奇妙な服、水、果物――。様々な物が、アベルの知らないうちに周囲に出現する。アベルは女神に祝福されているのだと亡き母は言った。
もしも、これらの色々な物が女神から送られているのだとしたら。
「……女神も全知万能という訳ではないのか」
アベルは呟くと、手にした短剣らしきものをそのまま元に戻す。明らかにこの剣を使って逃げろという啓示なのだろう。だが。
――魔女、か。
トビアスの言葉を思い出して、アベルはもう一度目を閉じた。そして魔女という存在のことを脳裏に思い浮かべた。
魔女。
失われた存在であり、今では文献に残るばかりで存在しないと言われている。
この中央大陸は現在、ユアール国やセリド国を中心としたいくつかの国から成り立っている。かつてユアール国は大陸全土を支配した大国であったが、数世紀ほど前に一度滅びかけた。
その原因といわれたのが魔女である。
魔女と呼ばれる一族の起源は知られていない。一部では彼らが人に魔法を教えたとも言われているが定かではない。
一人一人が巨大な魔力を持ち、悪魔の集会では人を殺し祭壇に捧げるという魔女の集団を人々は恐れた。ユアール国はその魔女達と国の総力を挙げて戦ったらしい。
そして魔女の存在は消え去った。ユアール国を半壊させるほどの被害と引き替えに。
今となっては魔女の詳細を知るものはおらず、ユアールの国立図書館の一部立ち入り禁止区域に魔女の話が古書として残っているという話を聞いたことがあるくらいだ。
だからユアール国は他のどの国よりも、魔女を恐れる気持ちが根底にあるのかも知れない。トビアスがアベルを判断するために、こんな対応をするくらいには。
アベルがもう一度眠りに落ちる寸前に。触れた短剣らしきものがいつのまにかどこにも無くなっていた。
* * * * * * * * * *
キィ、と木の軋む音でアベルは目を覚ました。少しの間、眠っていたようである。多分まだ朝にはなっていない。
「……逃げなかったんだ。アベル」
気の抜けるような声で言うと、トビアスはすたすたと近寄ってきた。横になったままアベルは返事をする。
「……逃げて欲しかったのか?」
「うーん」
トビアスは悩むように首を傾げると、腰の短剣を抜く。
金属音にアベルは眉を上げたが、そのまま身動きをしなかった。
トビアスはそんなアベルの上に短剣を振り下ろした。
「逃げたら逃げたで仕方ないかなぁって思ったよ」
振り下ろした短剣は、ぶつりとアベルの両手を戒めていた縄を切り裂いた。
へらりとトビアスは笑う。
「でもアベル、身の潔白を示すためにわざと逃げないのはやめたほうがいいよ」
「時と場合によりけり、だろう。少なくともセリドでは逃げ出したからな」
あっちだったら殺されるからねぇ、と頷くトビアスに、両手が自由になったアベルは目を覆っている布を外した。視界には久しぶりに見る隣国の王子が短剣を鞘に戻しているのが蝋燭の炎で浮かび上がっている。
アベルより年上だが少し背の低いトビアスは、身軽そうな平服に身を包んでいた。彼は前に会った時より短めの赤い髪の毛をしていて、そばかすのある顔は飄々とした笑顔を浮かべている。少しイラっとした。
アベルは両手にまとわりつく縄を取り足下の縄に手をかけると、トビアスが取り上げたアベルの剣を渡してきた。縄を切断し、足も自由になるとアベルはベッド脇に立ち上がる。
「とりあえずアベル、ご飯食べる?」
アベルはそれには答えずに、両手首をぐるぐると回している。
「それともお風呂?」
首と手足も回し、強ばった筋肉がほぐれるのを待つ。
返事の無いアベルに、トビアスは感じる物があったのか、数歩後退した。
「そ、それともわ・た・し?」
張り詰めた空気を崩そうと軽口を叩くトビアスに、アベルは険呑な笑みを見せた。
「……そうだな、お前だな」
「ちょ、いや僕そんな趣味は」
ぐいと襟首を引き寄せられて、引きつった顔のトビアス。拳を握りしめたアベルの笑顔に怒りを感じ取って既に逃げ腰である。
「遠慮するな。久しぶりの再会だし、話すことは沢山あるだろう」
「いやその声音から言って、絶対話し合いする気じゃないよね! アベル! 暴力反対!」
初っ端殴って縛り付けた友人の言葉は、当然の如くアベルには届かなかったようで。
「お前とはじっくり話をしなくてはいけないと、縛られている間ずっと思ってたからな」
「わー、ちょっと待ってアベル! 僕は腕力ないから反撃封じに縛ったわけでね! ちょ、待って!」
男の話し合いという名の殴り合いが終わったのは、ほぼ逃げ回っていたトビアスが「全部白状するから、やめてアベル!」と涙目で叫んだあとだった。




