09_夜の散歩
──月が中空に上った。
魔女は窓から円かな月を見上げた。そろそろ出かける準備をしなければならない。
薬を量る手を止めて、席を立つ。
カディスにかけられた呪いを解くためには、満月の夜に摘みとった、特別な釣鐘草が必要だ。でも、それさえ揃えば、解呪の魔法そのものはさほど難しくない。
依頼達成まで、もうすぐ。
そうしたら───
カディスの愛らしいウサギの耳は消えて、彼は王都に帰還するのだろう。そして二度と会う事はない。
たった五日間の同居。それが終わってしまう。その事がこんなにも寂しいのは、彼のひたむきな誠実さを知ってしまったからだ。
おそろしい外見さえ、今は気にならない。彼と過ごす時間はとても楽しかった。
でも。
ヨハンナは、寂しさをそっと胸にしまった。
この五日間がどれほどかけがえのないものだったとしても、王都に会いに行ったりだとか、積極的な行動を取れるとは思えなかった。
小心者のヨハンナは、彼に冷たくされたら……と想像しただけで体がすくんでしまう。ただその場に立ち尽くすだけで、足を踏み出す勇気なんか全然湧いてこなかった。
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カディスとの最後の晩餐はとうに終わった。夕食に出したのはチーズたっぷりのポテトグラタンで、これもカディスはしみじみと味わっていた。
食後のお茶も飲み、食器の片付けも済んでいる。
薬の調合で時間を潰していたけれど、そろそろ出掛ける頃合いだろう。
ヨハンナは身支度を整えた。といっても、ケープを羽織ってブーツを履き、籠とランタンを持つだけだが。
キィ、と小さく軋む扉を開けて外に出ると、辺りはすっかり夜の帳に覆われていた。
見上げた満天の星空に、ひときわ明るい月が輝いている。完璧な満月だ。
よし、と気合いを入れて数歩進む。すると、先に納屋で休んでいたはずのカディスが、古びた扉の向こうから姿を見せた。
「……夜の森は危険だ。ついて行こう」
「いえ、大丈夫ですよ。何かあったら魔法で逃げますし、問題ないです」
ヨハンナはこう見えても魔女だ。よほど不意をつかれない限り、大抵はどうにでもなる。
「夜遅いので、ヴェルダー様は、どうかお休みになってください」
「いや、俺も同行する」
重ねて遠慮したのに、カディスはキッパリと首を振った。ベリー摘みの時のように、ヨハンナから籠を取り上げ、もう片方の手で彼女の右手を軽く握った。
「一緒に行かせてくれ」
「……わかりました」
低い声には、断固たる意志が宿っていた。ヨハンナは降参して頷くほかない。
でも、手を繋ぐ必要ってあるのかな……
だが考えたところで、彼の大きくて頑丈な手を振りほどけないのは学習済みだ。
夜で良かった、と心から思う。みっともなくうろたえたのも、赤くなった頬も、彼には見えないだろうから。
深呼吸。なるべく平静に。胸の内で呟いて、長身の騎士を見上げる。
「……釣鐘草を採取する前に、少し寄り道してもよろしいですか?」
「ああ」
月夜に浮かぶ白いウサギの耳が、ピッとこちらを向いた。本体は前を見たまま、小さく頷く。
「ありがとうございます」
ヨハンナは微笑して礼を言った。
月光を浴びながら、二人は森の小道を歩く。
夜の森は静かだった。時折、フクロウの声や葉擦れがする以外は、静寂が辺りを包む。
ポツポツ会話しながら小道を進むと、木立が途切れ、目の前が開けた。一つ目の目的地だ。
カディスの鋭い目が見開かれた。
夜の闇にほんのりと輝く野原。ここはヨハンナが大切にしている、お気に入りの場所の一つだった。
「……これは」
「夜蛍草と言います。今の季節に、夜のあいだだけ咲く花なんです」
ヨハンナは足元の花を指さした。
「夜蛍草の花弁って、向こうが透けて見えるほど薄いのです。この真ん丸の蕾の中に、小さな発光体が入ってるんですよ。綺麗ですよね」
ヨハンナは隣の男を見上げて、ふふ、と悪戯っぽく笑った。夜蛍草という名前の通り、黄色に少し緑を混ぜたような色合いの、蛍に似た燐光が、野原を埋めつくすように揺れていた。
「ヴェルダー様にはお世話になったので、この野原を見ていただきたかったんです……お礼になるか、わかりませんけれど」
「いや、とても美しい。ありがとう」
騎士は目を細めて、魔女に視線を落とす。そんなカディスに、ヨハンナも自然な笑みで応じる。
最初の頃は、この視線にあれほど怯えてたのに、今はちっともこわくない。
「……そろそろ、花が咲くかと思います」
ヨハンナが言い終わるのと同時に、薄い花弁がいっせいに開いた。
蕾の中にあった燐光は、ふわりと空中に放たれ、音もなく風に舞う。無数の光は、まるで番を探して飛ぶ蛍火のようだ。その幻想的な光景を、ヨハンナは隣の騎士と手を繋いで眺めていた。
「この森はたしかに美しい。だが……一人で暮らすには、少し寂しいのではないだろうか」
隣の騎士がポツリと呟く。
見上げると、彼は深い眼差しで魔女を見つめていた。
「魔女殿はなぜ、森の奥で一人で暮らしておられるのか。差し支えがなければ、ご家族の事などお聞かせ願えるだろうか」
「ええと、構いませんが…………そんなに面白い話ではないですよ。実は私、人間だった頃はあなたと同じく城勤めでした。これでも王宮魔法師の末席にいたのです」
彼の問いに、囁くような声でヨハンナは答えて、小さく笑った。
「田舎の村の生まれでしたが、王都からいらした神官様が『君には適性があるから』と、私を魔法学院に推薦してくだったんです」
神官の力添えもあって、ヨハンナは魔法学院に入学出来た。
以来、必死に勉強した。ついていくのは大変だったが、知識を得る事も、魔法を覚える事も、何もかも新鮮で楽しかった。
神官の見立て通り、ヨハンナは才能があったのだろう。卒業時には、学年でも優秀な成績をおさめていた。
「学院を卒業して、私は晴れて王宮魔法師になりました。その数年後、故郷の村が魔獣に襲われて、幼馴染が呪いにかかってしまったのです」
初恋の男の子でした、とヨハンナは呟いた。
故郷の村が魔獣に襲われ、幼馴染が呪われたと知って、必死に解呪方法を調べた。
やっとその方法をつきとめ、急いで村に戻り、彼を治そうとした瞬間。
ヨハンナは、"魔女"の力に目覚めた。
────"魔女"という異質。それは、強大な魔力を宿した女たちのことをいう。
だが、一口に魔女といっても生き方ははそれぞれだ。魔獣から人々を救った魔女もいれば、悪逆非道の限りを尽くした魔女もいる。
しかし実際は、ヨハンナのようにひっそりと生きる者が大半だろう。
そんな魔女の性質は、生まれもったものではなく、後天的な"変質"によって生じる。
魔法の素養がある女たちの一部が"変質"し、強大な魔力を獲得して"魔女になる"のだ。
"変質"の引き金となる出来事は、魔女によってさまざまだが、法則性はいまだわかっていない。
一つ判明しているのは、"変質"の切っ掛けが魔女の特性を決める、という事だった。
ヨハンナの場合。
それが幼馴染の"解呪"だった。




