第二十四話:狂愛の言の葉 侵害は突然に(1)
世間は、弱者に厳しい。
それが、岸矢が三十六年生きてきて学んだ真実だった。
彼が大手の出版社に勤めて、もう十数年になる。その中で、彼は多くの事件や事故の現場を奔走し、数多の声に耳を傾けてきた。その最前線で見てきた景色は、決して優しい世界とは言い難い現実だったのである。
だが、弱者の言葉には力がある。それもまた、彼が学んだ真実だ。
弱者の言葉は心を打つ。企業の幹部が新入社員に長時間労働を説いたとしても、心が動く事はない。金持ちがお金より大切なモノがあると言ったところで、心に響く事はない。弱者の言葉こそが、歪んだ現代社会の問題に波紋を広げる一投の小石と成り得るのだ。
しかしながら、彼は必ずしも弱い者の味方、という訳ではなかった。
いつだって、涙を流すのは弱い者だ。そんな彼らの怒りや悲しみは一体どこから来るのか。それを、ふんぞり返った者たちに、ひいては日本中に知らしめていく事。それが彼の仕事である。だからこそ、全てを平等に見なければならない。同情や正義感を否定する訳ではないが、そうした感情は、時として心に必要以上の歯止めを掛けることにもなりかねない。
全てを明らかにする。彼が雑誌記者として走り回る目的は、ただそれだけなのだから。真実を文字で語るには、必要のない感情は切り捨てていかねばならないのだ。
「こんにちは。ちょっと、いいかな?」
そしてこの日もまた、岸矢はメモ帳を片手に奔走していた。
「はい?」
「ちょっと、聞きたい事があって。あ、雑誌の取材、なんだけど」
声をかけたのは、一人の女子児童。
短髪に眼鏡、オーソドックスな赤いランドセル。派手さは感じさせない、どちらかと言えば地味で大人しそうな女の子だ。
だが、まぁ、それぐらいが丁度いい。それぐらいの方が、こういった仕事はやり易い。
振り返った少女の警戒を解きほぐすように、柔和な笑みを浮かべて名刺とペンを指し示す。最近は過剰な不審者対策が枷になる場面も増えたが、それでもこうして「雑誌の取材である」アピールをすれば、大抵の子供は警戒を解いてくれる。ただし、後々面倒な事にならないよう、名刺そのものを渡しはしないのだが。
「この間、向こうで事故があったでしょ。その時、君と同じくらいの女の子も巻き込まれたの、知ってるかな?」
「え? あ、はい」
「そっか。君、この近くの子かい? その子も、君の友達だったりするのかな?」
仕事環境の話は平社員に。貧富の話は貧しい者に。
そして、事件や事故の話は、その被害者や周辺に。
岸矢は、今、とある事故を追っていた。
一ヶ月ほど前に、ここのすぐ近くで発生した大惨事。トラックの横転事故で巻き込まれた六人が死亡、ただ一人の女児だけが意識不明で残されていた。ここ数年でも、かなり大規模な事故と言っていいだろう。
だが、そんなニュースも世間はすぐに忘れてしまう。あれからいくつかの事件や事故が発生し、今では世間の注目は、つい先日高速道路で大破した乗用車から親子が奇跡的に救出された事故へと集中していた。
だからこそ、岸矢はこのタイミングであの事故を追うのである。
記憶から抜け落ちかけた出来事の続報。それは、人々にとっては必要な情報なのだ。特に、あの事故は色々と不明な点が多かった。犠牲者の名前は判明している。だが徹底した情報規制が敷かれているらしく、生存したらしい女児に関する情報は、どれだけ調べても繋がる糸口が見つからなかったのだ。原因究明やトラックを運転していた人物など多くの情報は、とうに時間の流れに飲み込まれかけている。
となれば、頼みの綱となるのは自分自身の二本の足だ。それはいつだって同じである。何とかして少女の身元に辿り着き、あの事故の真相について聞きたい。その一心でこの数日、彼は根気強く事故現場周辺での聞き込みを続けていた。
「あ……いえ。知り合い、では、ないです」
しかし、この少女も空振りだったらしい。
「そう。残念だな」
「残念?」
「ああ、ううん。何でもないさ。ありがとう、もう良いよ。気を付けてね」
少女と別れた後、落胆を隠しもせずに岸矢は小さくため息をつく。
仕方がない。まだ時間は早い、学校へ向かう小学生ももう少し来るだろう。
曲がり角に消えていった少女の事はすっかり忘れ、岸矢は顔を上げると次の情報源を値踏みし始めた。自分自身の信じる正しさ、それに付き従って。
*
「リーコー、ちゃん!」
典子の背後から、ぽん、とランドセルが叩かれる。
振り返ると、そこには彼女と同じく登校途中の運音の姿があった。向かう学校こそ違えど、それらの建物は偶然同じ方角にある。この一ヶ月、二人がこうして共に登校する事は珍しくなかった。
「あ、唐崎さん。おはようございます」
「うん、おはよ。それで、どうだった?」
「……さっきの人、ですか?」
つい先ほど会話した雑誌記者。その馴れ馴れしい声を思い出し、典子は思わず眉をひそめる。
「……正直言って、不快でした」
その言葉に苦笑すると、百々目鬼の力を用いて一瞬でスり盗った名刺を眺める運音。
雑誌記者が聞いて呆れる。どんな神経をしていれば、まだ小学生の少女にあんな自重しない物言いで聞き込みができるのだろう。
あの記者が追っていた事故の生存者というのは、まず典子の事で間違いない。一ヶ月前の戦いで神虫が起こした虐殺は、世間ではトラック事故として処理されていた。恐らくは妖怪と人間の共存を掲げる彩夏か、あるいは妖怪の存在を知らしめるにはタイミングが早いと判断した百姫が誤魔化したのだろう。
目の前に当事者がいるのに、気付かず無神経に言葉を投げかけ、その偶然すら無下にする。人間としては下の下だ。だがそれは、同時に彼が上等の餌である事も示している。
「素敵……」
二人の背後で、小さな呟きが漏らされる。
声の主は、長身のすらりとした女性だ。艶のある長い黒髪が腰ほどまで伸びており、全身はゆったりとしたストールのようなものを幾重にも纏っている。一見すると、静かな大人の女性といった印象だ。しかし、目を隠すほどの前髪の下では、狂気じみた笑顔が恍惚と浮かんでいた。
「ねぇ、百々目鬼さん。あの方、私が憑いても良い?」
女の言葉に、運音はさも当然と頷く。
「もちろん。そんなに気に入った?」
「ええ、ええ。とても、とっても素敵。凛々しいお顔。獲物を探す獣のような眼。あの声の響きなんて、まるで夕闇を舞うカラスのよう……」
「……それ、褒めてるの?」
「最上級の褒め言葉でしょう。それに、あの魂! どす黒くて、自己中心的で……ふふ、しかもあの方、文章をお書きになるのでしょう? 私に相応しい、最高の殿方じゃあありませんか。百々目鬼さん……あの人を盗ったら、許しませんよ?」
「冗談」
妖怪になった身ではあるが、その辺の感覚は運音には理解できない。悪意を感じ取り妖怪の価値観で動く事が出来るようになっても、それが心地好いモノだという感覚はないのだ。やれやれとため息を吐きながら先刻の名刺を手渡すと、笑みを交わして頷き合う。
それでも、あの男には、彼女こそが相応しい。それだけは確かだ。
「それじゃ、学校遅れちゃうから。あとはよろしくね。行こっか、リコちゃん」
「あ、は、はい!」
女からの返事はない。彼女の心は、今、愛しい人へ向けるための言の葉で埋め尽くされているのだから。
学校へと向かった少女たちの事はすっかり忘れ、女は指で唇をなぞると男の方へと歩き出した。彼女を構成する愛の感情、それに突き動かされて──。




