第二十三話:妖怪高速道 怒れる追走者(1)
夕暮れ時、薄暗がりを走る一台の軽乗用車。
その後ろには、赤い車がじれったそうにぴったりとくっついている。やがてウィンカーを点滅させた軽自動車がゆっくりと車線を変更した瞬間、赤い車は急加速するとその真横すれすれを追い越していった。
「うわっ」
軽乗用車を運転していた会社員の男は、驚きに小さな声を漏らす。危うくハンドルを切りそうになってしまった。あまりにぴったり付いてくるものだから道を譲ったが、あの様子では譲っていなければどうなっていただろう。信号で停まった車に、刃物片手に怒鳴り込んでくる若い男。そんな煽り運転のニュース映像を思い出し、男はため息をついた。赤い車は、その後も車を追い越しながら突き進んでいくのが見える。
「……危ない運転するなぁ」
誰に聞かれるでもなく、ぽつりと呟く。
当然、その呟きは、赤い車を運転する男には聞こえない。
赤い車を運転していた男は、来年にはもう三十になる、どこにでもいる普通の成人男性だった。
この十数年、自分が特別な人間だと思った事などはない。全力で白球を追いかけていた高校の頃なんかは自分の所属する野球部が間違いなく甲子園に進むだろうと思っていたし、そのまま自分がプロの野球選手になると信じていた時期もあった。学校では割と交友関係が広かった経験から、芸能界に入る日が来るのではないかと思った事もある。
だが、現実はそんな事はなかった。特別な人生を歩む特別な人間は、ほんのひと握り。それを何度も思い知らされ、彼はいつしか普通の人生を歩んできたのだ。
しかし、高校を卒業して普通に働き始めたある日、彼の人生は転機を迎えた。普通の男の人生にも、転機の一つや二つは存在するのである。
運転。それが彼の出会った存在だった。
車のハンドルを握っている時。少し開いた窓から流れ込む風が頬を撫でる時。そんな些細な瞬間、彼の心は満たされていく。自分が自分ではなくなるような感覚と、日常とは切り離されたかのような時間、それを彼は楽しむのだ。
スピードが遅い車を前にした時、束の間彼は不機嫌になる。だがそれも、その車を追い越すまで。大抵の遅い車は、自分がその後ろにくっつくと道を譲る。合間を縫ってその横を抜き去り、前を走っていたはずの車がサイドミラー越しに小さくなるのを見る時など、仕事の疲れまで置き去りにしていくかのようだ。ハンドルを握ると人が変わるという話はよく聞くが、彼もその気持ちは理解できる。車を運転している時、まるで普通な自分が特別な力を得たかのような気分になるのだから。
すっかり夢中になった車の世界に、男はみるみるのめり込んでいった。
それは、彼が結婚し、一児の父となってからも変わらない。
彼の人生はどこまでも普通だった。普通に交際していた高校の同級生と普通に結婚し、普通に一人娘を授かった。病気も難産もなく、娘は一歳になろうとしている。だからこそ、自分が何らかの事件や事故を起こすような事もあるはずがない、そう思っていたのである。
そしてこれからも、彼の人生に特別な事は何も起きない。
少なくとも、彼自身はそう思っていた。この日までは──。
*
「あーあ、あんなにスピード出しちゃって。こんなに分かるもんなんだね、悪意って。目立つねー」
「今日はあの車、ですか……?」
そんな、制限速度を軽く超えるスピードで走っていく車を見送る人影が二つ。激しく蛇行するように先行車を追い抜いていく車からは、明らかに無自覚の悪意が溢れていた。
ひとつの影は、まだ小学生くらいの少女。青い案内標識の上に腰掛け、眼下の車の流れを見下ろしている。もう一人は高校生だろうか。不安定なはずの案内標識の上に、セーラー服姿の少女が堂々と二本の足で立っていた。二人とも、眼鏡をかけている。
一見すると、二人は普通の少女にしか見えない。しかし、恐らくは人外の者だろう。その証拠に、飛ばしているとは言え一台の車も彼女らの存在には気付いていないようだ。
「そうだね、あの車にしようか。車が相手ならー……うん、この妖怪が良さそう、かな?」
セーラー服を着た少女が一枚の御札を取り出す。御札の中に封じられた存在は、外界の悪意を嗅ぎ取ったらしくめらめらと感情の炎を燃え上がらせた。
「それじゃごめん、今回は代わりにこの中に入って、見てて?」
「え、でも……」
「どうもね、あの車の中に視えたのが気になっちゃって。私も一緒に行って、やらなきゃならない事があるみたいだから」
「そうですか。それなら、気をつけて下さいね」
軽い会話を交わすと、御札の中から待ちくたびれたとばかりに炎が吹き荒れる。空中を舞うその炎は、徐々に人の姿を象りながら高速で回転を開始した。代わりに、案内標識に座っていた少女の姿が御札の中へと吸い込まれていく。セーラー服の少女はというと、御札を懐に仕舞うと火傷する事もなくその炎の背中へと跳躍する。
「よし、行こう! 妖怪の時間だ!」
少女が声を張り上げる。夜道に木霊する声の上をなぞるように、車道へ降り立った炎の塊は大型バイクが如く走行を開始した。




