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第十二章 まだだ、の終わり

佐伯修一、六十歳。


定年退職の日が近づいていた。


会社では、長年の勤務をねぎらう言葉をかけられるようになった。


「佐伯さん、もうすぐ定年ですね」


「そうだな」


「第二の人生ですね」


「そうだな」


「これからは趣味を楽しめますね」


佐伯は、少しだけ姿勢を正した。


「実は、長年待っているものがある」


「はい?」


「東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワーだ」


同僚は笑った。


「まだ待ってるんですか!」


「まだだ」


佐伯は真顔で答えた。


同僚は、もう何も言わなかった。


この六年間で、佐伯は一つのことを学んだ。


人間には、説明しても理解されない情熱がある。


そして、その情熱は、理解されなくても消えない。


少なくとも、佐伯の情熱はそうだった。


1 六十歳の誕生日


誕生日の朝、佐伯はいつもより早く目を覚ました。


枕元のスマートフォンを手に取る。


東京マルイ公式サイト。


新製品情報。


更新なし。


「……まだだ」


六十歳になっても、第一声は変わらなかった。


台所から妻の声がした。


「あなた、今日は誕生日なんだから、朝ごはんを食べてからにしなさい!」


「分かってる!」


佐伯はスマートフォンを置いた。


朝食の席には、妻が用意した好物が並んでいた。


「還暦、おめでとう」


「ありがとう」


「もう六十歳ねえ」


「そうだな」


「若い頃から、ずいぶん変わったわね」


佐伯はうなずいた。


会社での立場も変わった。


体力も変わった。


健康診断の数値を見て、医師から注意される回数も増えた。


しかし、変わらないものもあった。


「……ハイパワーは、まだだ」


妻は箸を止めた。


「誕生日の朝から、それ?」


「大事なことだからな」


「はいはい」


妻は笑った。


その日は、息子の健太も帰ってくる予定だった。


独立してから、以前ほど頻繁には顔を合わせていない。


佐伯は少し楽しみにしていた。


もちろん、息子に会うのが楽しみなのだ。


ハイパワーの話を聞いてもらえるから、という理由だけではない。


……たぶん。


2 息子の仕事


午後、健太が実家にやってきた。


「父さん、誕生日おめでとう」


「おう。ありがとう」


「還暦だね」


「そうだな」


「これ、プレゼント」


健太は小さな包みを渡した。


佐伯は受け取った。


「ありがとう。開けていいか?」


「うん。でも、それはあとで」


「あとで?」


「先に、話したいことがあるんだ」


佐伯は包みをテーブルに置いた。


健太は少し緊張した様子だった。


「実は、就職してからずっと言ってなかったことがある」


「何だ?」


「俺、東京マルイで働いてるんだ」


佐伯は瞬きをした。


「……東京マルイ?」


「うん」


「……あの東京マルイ?」


「ほかにある?」


佐伯は口を開いた。


閉じた。


もう一度、開いた。


「いつからだ?」


「何年か前から」


「何年か前から?」


「うん」


佐伯は椅子の背もたれに手を置いた。


頭の中で、いくつもの疑問が一斉に走り始めた。


なぜ言わなかった。


どんな仕事をしている。


会社の人はどんな人たちなのか。


新製品の情報を知る機会はあるのか。


いや、待て。


最後の質問は、父親として聞くべき質問なのか。


健太は、父親の表情を見ていた。


「父さんがずっとハイパワーを待ってるの、知ってたから」


「……そうか」


「でも、俺が入社したからって、何でも自由に作れるわけじゃないよ」


「それは、そうだろうな」


「企画も開発も、いろんな人が関わる。会社として検討しなきゃいけないこともたくさんある」


佐伯は真剣にうなずいた。


それは当然のことだった。


好きだから作れる。


好きだから売れる。


そんな簡単な話ではない。


健太は続けた。


「でも、いつか自分が関われるなら、父さんがずっと待ってるものを形にしたいと思ってた」


佐伯は黙っていた。


健太は照れくさそうに笑った。


「だから、俺、父ちゃんの夢を叶えたいんだ」


佐伯は息子を見つめた。


それから、ゆっくりうなずいた。


「……そうか」


もっと気の利いた言葉を言いたかった。


しかし、うまく出てこなかった。


代わりに、彼は言った。


「仕事、頑張れよ」


「うん」


「でも、無理はするな」


「分かってる」


「それと、会社の決まりは守れよ」


「分かってるって」


「あと、企画書を出すなら市場調査をきちんと――」


「父さん」


「何だ?」


「今日は誕生日だよ」


「ああ。そうだったな」


二人は笑った。


3 黒い箱


健太が、テーブルの上の包みを指さした。


「じゃあ、これ。開けてみて」


佐伯は包みを手に取った。


小さな箱だった。


黒い箱。


その上には、見慣れたメーカーのロゴがあった。


東京マルイ。


佐伯の手が止まった。


「……おい」


「うん」


「これは……」


「開けてみて」


佐伯は、慎重に箱を開いた。


中には、ブローニング・ハイパワーのガスブローバックモデルが収まっていた。


佐伯は動かなかった。


息子も何も言わなかった。


妻が、少し離れたところから二人を見ていた。


佐伯は箱の中を見た。


もう一度、見た。


そして、箱の側面を確認した。


メーカー名。


製品名。


説明書。


付属品。


夢ではない。


少なくとも、夢の中で予約終了を食らったときとは違う。


佐伯は、震える指で箱の縁に触れた。


「……これ、本当に?」


「うん」


「東京マルイの?」


「うん」


「ガスブロ?」


「うん」


「……ハイパワー?」


健太は笑った。


「そうだよ、父さん」


佐伯は、ゆっくりと椅子に座り直した。


六十歳。


何年も、何年も待った。


公式サイトを開いては閉じた。


新製品情報を確認しては、ため息をついた。


掲示板の同志たちと語り合った。


価格を予想し、予備マガジンの本数を考え、予約開始日の夢まで見た。


そして今日。


目の前に、それがあった。


佐伯は、ようやく息を吐いた。


「……まだ、夢じゃないよな?」


健太は笑顔で答えた。


「夢じゃないよ」


佐伯はうつむいた。


しばらく、何も言わなかった。


妻も、息子も、急かさなかった。


やがて佐伯は顔を上げた。


目元が少し赤かった。


「……ありがとう」


それだけ言うのが、精いっぱいだった。


健太は照れくさそうに頭をかいた。


「どういたしまして」


4 その後


その夜、佐伯は自分の部屋で箱を眺めていた。


まだ開封したばかりだ。


説明書も読まなければならない。


付属品も確認しなければならない。


そして、いつか実際に手に取って楽しむ。


焦る必要はない。


これまで、十分に待ったのだから。


佐伯はスマートフォンを手に取った。


掲示板を開く。


長年の同志たちが、いつものように書き込んでいた。


名無しさん:今日も更新なしか。


名無しさん:まあ、いつものことだ。


名無しさん:明日も待とうぜ。


佐伯は画面を見つめた。


そして、ゆっくりと文字を打ち込んだ。


佐伯:皆さん。俺は今日、ついに夢が叶いました。


すぐに返信がついた。


名無しさん:おめでとう!


名無しさん:本当に出たのか!?


名無しさん:よかったなあ。


佐伯は笑った。


佐伯:ありがとう。長かったです。


少し考えてから、もう一行付け加えた。


佐伯:皆さんの夢も、いつか叶いますように。


送信。


スマートフォンを置く。


部屋は静かだった。


佐伯は、黒い箱をもう一度見た。


それから、小さくつぶやいた。


「……待っててよかった」


5 翌朝


翌朝。


佐伯は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


長年の習慣というものは、そう簡単には変わらない。


彼は枕元のスマートフォンを手に取った。


東京マルイ公式サイト。


新製品情報。


新しい発表が掲載されていた。


佐伯は画面を見つめた。


それから、ゆっくりと更新ボタンを押した。


もう一度。


さらに、もう一度。


妻が寝室の扉から顔を出した。


「あなた、何してるの?」


佐伯は、真剣な顔で答えた。


「……確認だ」


「何を?」


「次の新製品」


妻は、しばらく夫を見つめた。


そして、深いため息をついた。


「……本当に、あなたって人は」


佐伯は笑った。


六十歳。


長年の夢は、ついに叶った。


だが、趣味は終わらない。


好きなものを好きでいる限り、次の楽しみは生まれてくる。


佐伯はスマートフォンを置き、朝食の席へ向かった。


そして、いつものように言った。


「今日もいい一日になりそうだ」


妻が答えた。


「その前に、健康診断の予約を入れなさい」


「……はい」


佐伯修一、六十歳。


東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワー。


彼は長い年月をかけて、その夢を待ち続けた。


そして、ようやく手にした。


もう、彼は「まだだ」と言わなくていい。


……少なくとも、ハイパワーについては。


その朝、佐伯は公式サイトをもう一度だけ開いた。


新製品情報。


彼は画面を見つめた。


そして、静かに笑った。


「……次は何かな」


完。

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