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第九話「一夜明けて」

 網走翔が目覚めると、知らない天井が見えた。

 白地に金色の飾り模様が入った天井は、いつも見るボロアパートのものとは明らかに違っていた。

 目をしばたかせながら、網走翔はふかふかのベッドから起き上がった。

 朝陽がカーテン越しに差し込んでいる。

 窓からはよく手入れされた広い緑の庭が見えた。知らない景色だ。


「確か……そうだ……いたたたた」


 頭が痛い。吐き気がしてくる。

 段々と思い出してきた。

 昨日は昼に湯浅朝城とタイピング対決をしたのだ。

 SKY配列で暗黒タイピング大会に出ることを決意した。

 そして夕方、白鳥つばさと暗黒タイピング大会の応募書類を投函してきたのだ。

 一式そろえて二人でポストに入れて、その足でそのまま壮行会という名の飲み会になったのだった。

 五人揃えないと大会では戦えないというのに、つばさは意気揚々と言ったものだ。


「なんとかなるわよ! 今日は飲みましょう! 宴よ!」


 夕方から都内の居酒屋に入ってビールを飲みながら語り合った。

 互いこと、配列のこと、タイピングのこと。

 楽しい飲み会だった。

 網走翔は元々飲み会の経験も多くないし、同年代の女子と差しで飲むのは初めてだった。リアルでは滅多にしないタイピングの話ができるのもうれしかった。話題は尽きない。

 つばさの飲み物はビールからハイボールに変わり、そのうち日本酒になった。

 網走翔は変わらずビールやチューハイやらを飲んでいた。

 楽しくて、ついつい五杯、六杯と気持ちよく飲みすすめる。

 二軒目三軒目と店を変えて飲んでいると、網走翔は強かに酔ってきた。

 顔が熱くなり、頭がぼーっとしてきて、足元はふらつく。

 一方の白鳥つばさは、元気に笑いながら、


「次行きましょ次!」


 キビキビと促した。翔は引っ張られるままに夜の街を歩いていた。

 網走翔は酒に弱い方ではない。白鳥つばさが底なしだったのだ。

 やばいと思ったときにはもう遅かった。


「次行きましょ次!」


 どこかのバーで、つばさの声がぼんやりとした頭に響く。

 つばさの笑顔が見えた。

 次いでバーのマスターと思われる紳士の心配そうな顔が見えて――。

 断片的な記憶は、そこで途切れていた。

 気づけばきれいな庭がある大きなベッドの部屋にいる。


「どこなんだよ……ここ……うっ……!」


 急激に吐き気がこみ上げてきた。

 丁度いいことに、ベッド脇にはタライが置いてあった。

 翔は胃の中を絞り出すようにして吐いた。

 完全に二日酔いだった。

 用意のいいことに水のペットボトルも置いてあったので、がぶがぶと飲む。

 飲んで、翔は倒れ込むようにベッドに崩れた。

 腕で顔を覆って転がっていると、部屋のドアが開いた。


「おはよう翔くん。調子はどうかな?」


 現れたのは、白鳥つばさだった。

 申し訳無さそうに頭を下げている。

 いつものパンクバンドような格好ではなく、ジャージを上下に着込んだ姿だった。中学時代のジャージなのか、胸のところに「白鳥」と刺繍が入っていた。

 手にもったお盆にはおしぼりが置かれている。


「……正直最悪だ……。昨日は……迷惑をかけたみたいで……」

「ううん。私こそ、ごめん。楽しくてつい飲みすぎちゃった」

「いや、俺が自分の酒量を分かってなかった」


 大人になるってことは、酒量をわきまえることだと、網走翔はどこかで聞いた。


「おしぼり。少し楽になると思う。酔い醒ましもあるから、飲んでね」

「悪い」


 翔は酔い醒ましの薬を水と一緒に流し込む。冷えたタオルを受け取ると、顔全体にをかけて寝転んだ。

 つばさがベッド脇に座る気配を感じた。

 気まずい。

 改めて、とんでもないことをしてしまったような気がしてくる。


「ここは……その……つばささんの家なの……?」

「私の家よ。遠慮しないでいいからね。私達はもう仲間なんだから」


 つばさは少年漫画のようなことを言う。


「そ、そう……」


 気まずい沈黙が流れる。

 翔は耐えられずつばさに話しかけた。


「すごい大きな家だな。つばささんって、お金持ちなの?」

「そんなことないよ。この家は父からもらったものだし。あとバッサーね」


 家ってもらえるものだったっけ?

 どうも常識が違うような気がする。

 二十万円をぽんと出せるわけだ。

 金髪ピンクのパンクバンドのような格好に惑わされ過ぎていると、翔は思った。

 白鳥つばさは頭がいいし、金持ちで、正社員だ。

 それにかわいい。

 派手な格好の女子は苦手なので気づかなかったが……というよりあまり顔を直視出来なかったのだが、つばさは整った顔立ちの美人だった。

 そんな可愛い女の子の家のベッドで翔は眠りこけていたわけだ

 翔は顔に広げたタオルをずらしてつばさを見た。

 つばさはニコニコと笑っている。


「ゆっくり休んでいいからね」


 優しい声でつばさは言った。

 キラキラと翔を見つめる瞳は、翔があまり向けられたことのない種類のものだった。

 まるで憬れのスポーツ選手を見つめる子供のような――希望に満ちた視線だった。

 奇妙ないたたまれなさを感じる。

 自分はタイパーだ。

 それはいいのだが、それ以外は単なる社会不適合者のニートである。

 ロクに就職も出来ない。スキルもないし、コミュ力も低い。

 つばさは自分のタイパーとしての能力を買ってくれているだけだ。

 タイピング仲間としての友情だ。

 結構なことである。

 翔はタオルを深く顔にかけて、目を閉じた。

 先程まで感じていた吐き気は和らぎ、体の力が抜けていくような心地よい眠気が翔をいざなう。

 顔をうずめた枕からは、甘い香りがした。

 タライを持って部屋を出ていくつばさの姿がぼんやり見えた。

 気づけばまた眠りに落ちていた。


   ---


 再び翔が目を覚ましたとき、日は落ちかけていた。

 何度か目覚めては吐いて、また眠るのを繰り返し、ようやく吐き気も落ち着いてきた。翔はベッドルームから出て、リビングでつばさが出してくれた白湯を飲んでいた。


「よく眠れた?」


 つばさは言った。


「ああ。ぐっすりだ。もう大丈夫」

「良かった。私って割と固いベッドが好きだから。翔くんの好みに合っていたみたい」


 翔が寝ていた部屋は、つばさのベッドルームようだった。

 広い家である。ゲストルームで寝ていたのだと、翔は思っていた。

 まさかつばさのベッドで眠っていたとは。


「わ、悪い。汚しちゃって」


 控えめに言っても、きれいに使っていたとは言えない。


「平気平気。仲間なんだから。気にしないで」


 また少年漫画のようなことを言う。好きなのだろうか。

 リビングでのんびりしていると、会話は自然と暗黒タイピング大会に向けての仲間集めの話になった。

 SKY配列で暗黒タイピング大会に出場するには、五人で一チームを作らないと出場できない。それもQWERTY配列に勝てるような、最精鋭のメンバーだ。


「何人か候補はいるわ。今日から虱潰しにあたっていく予定よ」


 つばさは言った。心強いことである。


「どんな人達なの?」

「うふふふ。知りたい? そうだよね。ともに戦う仲間だもんね!」


 つばさは仲間という言葉に力を込めていた。


「まずはこの人!」


 そう言って、つばさは自分のスマホの画面を翔に見せた。

 翔も使っているSNSのメッセージ画面だった。


「タイピング速いんだって! 私がSKY配列の話をしたら、ぜひ会って話したいって」


 翔も一緒になってスマホのメッセージ画面を見る。

 つばさはSNSを本名でやっていて、顔も載せていた。

 翔にしてみれば信じられないことだが、つばさにとっては普通のことのようだった。


「SKY配列! 楽しそうだねぇ。ぜひ教えてよ!」


 タイパー候補がつばさに送ったメッセージを見る。

 どうにも軽い。

 配列を変えるなんて、タイパーにとっては一大事のはずだ。

 これまでQWERTYで培ったスピードを一時的に失うことを意味するのである。

 こんなに簡単に――見た感じ数回やり取りしているだけだ――配列変更を受け入れるとは思えなかった。暗黒タイピング大会のことは話していないようだった。直接話すのだろう。それにしても、だ。


「つばさちゃんかわいいね! 俺にもSKY配列を教えてよ!」


 別のタイパー候補はこんなメッセージも送っていた。


「あのぉ、これって……」


 翔は遠慮がちに言葉を飲み込んだ。あまり考えたくはないが、出会いを求めているだけなんじゃ……。SKY配列は口実で、男女の出会いを求めているだけのような。いやいや、きっかけは何でもいいのだ。真剣にSKY配列を使って戦うようになってくれれば! ちゃんと練習して、SKY配列を極めてくれればそれでいい。つばさはちゃんと考えているはずだ。


「どうかな。今度会って話してみようと思うの」

「い、いいんじゃないかな」


 多分、大丈夫。

 賢いつばさのことだから、おかしなことにはならないだろう。

 SKY配列で戦うタイパーなんて特殊な人材は、今やネットじゃないと探せない。


「あとはタイピング大会ね。来週に大きな大会があるから、見に行って優勝者をヘッドハンティングするってのはどうかな」


 タイピング大会は大きいものから小さいものまで結構開かれている。

 大会規模にもよるが、優勝者の実力はある程度保証される。

 その人がSKY配列としてQWERTY配列と戦うタイパーになってくれるかは説得次第だろう。ネットで探すよりも実力は担保されている。

 しかし半年である。

 タイパーとしての力があればあるほど、半年の準備期間で戦う無謀さもよく分かっているはずだ。ちゃんとした仕事だったり学校だったりがある人間が暗黒タイピング大会に出てくれる確率は限りなく低い。


「いいと思う」


 翔は言った。不安はあるが、文句を言っても仕方ない。

 今は打てるべき手を打っていくしかない。

 もとより無謀な戦いなのは百も承知なのだ。

 翔も自分自身の力をもっと付けて、誰が相手でもどんなルールでもQWERTYに勝てるよう鍛え上げないといけない。

 五人揃えればいいわけじゃない。

 それでもスタートラインに立ったに過ぎないのだ。

 考えれば考えるほど、今すぐタイピングがしたいという衝動に駆られていた。

 もっと速く正確なタイピングが必要だ。

 昨夜、SKY配列のキーボードはつばさから貰った。

 帰ってタイピングをしないといけない。


「翔くんも、気になる人がいたら教えてね」


 つばさに言われて、翔は一人の人間が思い浮かんだ。

 本名も顔も知らないが、翔のタイピング仲間は今の所一人だけだ。

 生意気なやつではある。しかしタイピングの腕は折り紙付き。

 毎晩のように翔とチャットをしているから、きっと暇だろう。

 エリート大学生と、本人は言っている。

 暗黒タイピング大会にも興味がありそうだったし、誘えば出てくれるはずだ。


「一人、いる」

「ほんと!? その人のタイピングの実力は!?」

「腕利き中の超腕利きだよ。俺が保証する」


 つばさはぱんと手を叩いて喜んだ。


「その人と会うことはできる?」

「できると思う。帰ったら連絡をとってみるよ。ただ……」


 翔は請け合った。


「ただ……?」

「ちょっと変なやつだと思うぞ」


   ---


 その夜、翔はユノをチャットで呼び出した。

 翔が連絡を入れると、ユノは数秒で返信してきた。


「……というわけなんだよ」


 翔は説明した。

 昨日の出来事と、事の顛末を。

 SKY配列で暗黒タイピング大会に出ること。

 暗黒タイピング大会には五人のタイパーが必要なこと。

 昨夜は飲みすぎて家に帰れなかったこと。

 ユノはしばらく翔のチャットを眺めているようで、返信はない。

 翔の書くテキストに、既読だけが付いていた。

 一通り話し終えると、翔は最後に付け加えた。


「ユノ。お前も一緒に暗黒タイピング大会にSKY配列で出ないか? おもしろそうだし、結構時間あるだろう」


 翔がメッセージを送ると、ユノがようやく返信してきた。


「昨日は連絡が取れないから心配してみれば……」


 ユノのメッセージには、文末に怒りの顔文字がくっついている。


「ふふふ。SHOWがまさか女の家に泊まってくるとはね!」

「いや、そこじゃなくて。暗黒タイピング大会に出てくれないかなってさ。お前興味あるみたいだったし」

「ないね! 全然ないよ! 暗黒タイピング大会? なにそれ! ばっかみたい!」

「えぇ……この前と言ってることが違うじゃないか」

「この前っていつ? 何時何分? 地球が何回回ったとき!?」

「そんなガキみたいな」

「どうせ僕はガキだよ! 文句ある!? SHOWは大人なんだね! 偉いね!」

「どうしたんだ急に。一昨日はSKY配列は良い配列だって言ってたじゃないか」

「そんな昔のこと覚えてないよ! とにかく僕は出ないからね! SHOWの浮気者!」

「ちょっ……待っ……」

 

 チャットが切られた。

 ユノとはチャット上で何度か言い合いをしたことはあったが、こんなに怒ったユノを見るのは初めてだった。

 翔はパソコンの前で途方にくれた。

 翔はユノが絶対出てくれるだろうと思っていたのだ。

 暗黒タイピング大会出場が怪しくなった。

 それだけは確かだった。



次回更新は8月24日を予定しています。

よろしくお願いします。

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