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第十話「上野川優乃」


「つまりこのように、コンピュータ内にあるICのピン一本一本は、0ボルトかプラス5ボルトか、2つの状態しか表せないんですね。コンピュータは0ボルトを0、5ボルトを1と判断しています。これほど複雑な動きをするコンピュータは、驚くべきことに本質的には0と1しか理解出来ないのです。それゆえに機械語と呼ばれる低水準言語は、2進数で表記されているわけです。機械語でコンピュータに命令することは可能ですが、とても大変ですよね。考えてみてください。すべて2進数なんですよ。そこでわたし達……と言っても英語圏の人にとって……理解しやすい構文で記述されたものが、これから学ぶ高水準言語によるプログラミングなのです。この中でプログラミングをやったことのある方はいますか?」


 昼下がりの午後の授業だった。教師は吊るされた大型ディスプレイをレーザーポインタで指し示しながら、生徒たちに問いかけた。

 三十人ほど居るコンピュータ教室で、二、三人ぽつりぽつりと手を上げる生徒がいた。教師はうなずいて、続けた。


「よろしい。あなた方は他の生徒たちが分からないときアドバイスをしてあげてくださいな。これから最も簡単なプログラミングを行いますよ」


 手を上げた生徒たちは嫌そうに「ええぇ」と文句を言った。


「文句を言わないの。誰かに教えることは、自分自身を高めるいうことですよ」


 教師は、はっきりした口調で不満を抑え込んだ。


「それでは添付の資料に従って、プログラミングをスタートします。一番最初は『Hallo World』です。これをコンピュータに命令して、表示させてみてください。楽しくスリリングなコンピュータの世界へ挨拶です。一文字一文字、心を込めて書いてください。これから一人一人机を回りますから、分からないことは私か、すでにコンピュータの世界に入門しているお友達から聴いてくださいね。それでは、スタート」


 教師の合図とともに、生徒たちは一斉にキーボートを打ち始めた。

 コンピュータ教室にタイプ音が響く。

 真面目な生徒たちだと教師は思う。

 公立中学校でプログラミングを教えることに不安はあったが、生徒たちを見ていると、この仕事を選んで良かったと思える。

 しかしそこでふと、ある女生徒が目についた。

 彼女だけはキーボードを叩くこともせず、ぼんやりとディスプレイを眺めていた。


   ---


「it’a true world」

 

 上野川優乃はネットの海を眺めて呟いた。

 ネットの世界では、今日も誰かが誰かを騙していた。

 不幸な目に遭った人を笑い、幸せな誰かを憎む。

 自分とは本質的に何ら関係のないものを叩き、意味もなく煽り合う。

 結局の所――と優乃は思う。

 ネットには真実が書いてあるのだ。

 匿名の世界だからこそ、虚飾を剥ぎ取った本当の人間の姿がある。

 顔と素性が見えた状態の言葉など、嘘ばかりだ。

 偉そうな教師も、テレビに出てくる訳知り顔のコメンテーターも、腹の底ではネットのカスどもと同じである。

 どれほど清廉潔白な顔をしていても、人間は所詮、欲求に従って生きているだけの動物である。

 バカな同級生、間抜けな親も、そう考えれば納得だ。

 優乃は掲示板をめぐり、ニュースをたどり、そんな人間たちの本当の反応を見る。

 大人気俳優と女優が結婚したというニュースがあった。

 表では祝福し合う反応が流れている。

 しかしちょっと裏を覗けば男女の醜聞を暴き立てるような下世話な話題しかない。

 誰もがどうせすぐに別れると笑っていた。

 そんなものだ。

 虚飾と偽善、嘘と裏切りに溢れた世界だ。

 コンピュータが暴いた人間の世界は、正義なんて一欠片もない、ろくでもない――。


「なにみてるの?」


 ふいに、隣に座っている同級生が話しかけてきた。

 優乃はあわてて画面を戻した。


「例の結婚のニュース? 素敵なカップルだよねぇ」


 その同級生はすでにニュースを知っていたようだ。

 画面をちらりとしか見てないのに、感想を言ってきた。

 優乃はクラスメイトに向き直った。


「僕は……」


 優乃は口に出そうとした。

 そうは思わない、と。


「僕……?」


 特別授業でたまたま隣になった同級生は、怪訝な顔で優乃を覗き込んだ。

 顔を覗き込まれて、優乃は言葉に窮してしまう。

 同級生は不思議そうな顔で首をかしげて、自分のディスプレイに戻った。優乃は何も言えないまま自分のディスプレイに戻ると、再びネットの海を漂うことにした。次は海外の残虐事件でも追ってみようか。そんなことを考えていた。


「――さん!」


 また誰かが呼んでいた。


「上野川さん!」


 優乃がディスプレイから目を上げると、教師が睨んでいた。


「今は課題の時間ですよ」


 言われて、優乃は無言でディスプレイを示した。

 最小化していたウィンドウを開くと、『Hallo World』と書かれていた。

 更に見ると、資料として配っていた課題をすべて終えているようだった。


「もう終わってます」


 それを見ても、教師の険しい顔は少しも変わらなかった。

 優乃はわずかに怯んだ。


「上野川さん。あなたはプログラミング経験がありますね」

「……少し」

「だったらなぜ先程手を挙げなかったのですか。経験者は手を挙げるようにと言ったはずです」

「……だって」


 優乃は言いよどんでる。

 それを近くの生徒たちが横目に見てくすくすと笑っていた。

 表情には嘲笑が浮かんでいる。

 教師はそんな生徒たちを見てピシャリと言った。


「あなた方は自分の課題に集中しなさい」


 教師に言われて、生徒たちはわざとらしいほど背筋を伸ばしてパソコンに向かった。


「上野川さん。放課後、私のところに来なさい」

「……はい」


 優乃はうなだれてうなずいた。


   ---


「いい気味だよね。上野川ってば調子に乗りすぎなんだよ」


 机に突っ伏していても、クラスメイトの声は聞くともなく聞こえてくる。


「ちょっと頭がいいからって、いい気になってるよ」


 優乃は休み時間をいつもこうして過ごしていた。


「さっきのパソコンの授業見た?」


 下らない奴らの戯言を聞くともなく聴いている。


「見た見た。めっちゃパチパチやってた」


 匿名でもないのに大した奴らである。


「ね。なにあれ。ちょー速かった」


 自分が本気になればこんな奴ら――。

 机の上の闇で優乃は考える。

 彼女たちが後生大事にいつも抱えているスマートフォン。

 あれにいたずらをすることだって、できる。

 キーロガーを送り込んで、口座番号を取得することだって、セッション管理をハイジャックして、SNSの個人認証を突破することだって、できる。


「ほんと。キモいんだけど」


 聞こえよがしに、クラスメイトは言っていた。

 優乃は指に力を込めて、闇の中に意識を落とした。


   ---


 放課後、教師に呼び出された優乃は職員室に来ていた。


「上野川さんは、プログラミングが得意みたいね」


 教師は優乃のプロフィールをパソコンに表示させていた。

 何が書いてあるのか少し気になるが、あまり見ようとは思わなかった。どうせいいことは書いてない。

 放課後の職員室の教師はまばらだ。部活の顧問だったりで、外出している人間が多い。職員室に残っている他の教師も、自分の仕事があるのか忙しく立ち働いている。


「少し」


 優乃は答えた。


「中学生で応用情報技術者試験に受かってるんだから、少しじゃないでしょう」


 それはなんとなく受けただけだ。

 資格自体に興味はなかった。自分の力を知っておきたいと思ったのだ。

 肩透かしだった。


「これだけ書けるんだから、確かに学校の授業は退屈でしょうね」


 当たり前だと、優乃は思う。

 なんで馬鹿に合わせないといけないんだ。


「やってられないって顔してるわね」


 表情に出ていたようだ。

 教師は苦笑している。


「とはいえ、プログラミングは多くの生徒にとって初めての経験だから、そこに合わせて教えないといけないの。それが教育だからね。君のような生徒は、本来もっと高度な授業を受けるべきなのだけど、今の制度だとなかなか難しいわね」


 愚痴のように、教師は漏らした。

 この教師は確かプログラミング教育のために呼ばれた非常勤講師だった。

 元は誰もが名前を知っているような大手IT企業に務めていたと聞いている。

 教育の現場に憬れていたとかで、会社を辞めて教職を目指しているとか、なんとか。興味がなかったので、あまり聞いてなかったが。

 名前は確か、角倉宮子。三十代前半で、年齢よりも若々しい気力に満ちているように見える。細身の美人であり、指導は厳しいながらも的確で、男女問わず生徒たちにも人気があった。

 それにしても。


「あの……なんで呼ばれたんでしょうか」


 態度が悪いと言うなら、授業中くらいは改めようと思っていた。しかしどうしろとも言われてない。

 宮子は困ったような顔で頭をかいた。


「理由はまあ、愚痴よ愚痴。教育の現場は難しいなっていう愚痴」


 宮子はからからと笑った。

 優乃も少し笑った。


「態度を改めろとか、他の生徒に教えろって言われるのかと思ってました」

「先生も本当はそのつもりだったけどね。中学生のプログラミングカリキュラムに関して、あなたに言うことは何もないみたいだって、身上調書を見てわかったのよ」

「……じゃあもう帰っていいですか?」


 言うと、宮子がうなずいたので、優乃は席を立った。


「そうね。一つだけ」


 背中に言葉がかかる。


「クラスの人と、もっと仲良くできる?」


 優乃は少し振り返ると、笑った。


「……絶対に無理です」


 それだけ言って、優乃は職員室を出た。


   ---


 夕日の差し込む廊下を、優乃は一人歩いた。

 グランドを見れば、部活に勤しむ生徒たちが動き回っていた。

 すぐに視線を外して、優乃は階段を降りて、自分の下駄箱に向かった。

 下駄箱を開けると、自分のローファー。そして大きなカマキリが入っていた。

 箱の中のカマキリは羽を広げて、優乃を威嚇していた。

 びくりと肩が震えた。

 背後からクラスメイトの笑い声が聞こえる。

 優乃が振り返ると、三人のクラスメイトが、楽しそうにこちらを眺めていた。


「上野川さ~ん。どうしたの?」


 優乃はキッと三人を睨んだが、三人の笑顔は変わらなかった。


「なんのつもり……?」


 詰問しても、無駄だろうとは、優乃にも分かっていた。


「なんのこと~?」


 一人が笑って答えた。

 優乃は三人から視線を切って、下駄箱に向き直る。

 カマキリの首を掴んで外に放り投げると、ローファーを履いた。

 さっさと家に帰ろう。

 背後から笑い声が聴こえる。

 今日も下らない時間だった。


   ---


 家に帰った優乃は、夕食を食べると自分の部屋に引きこもる。

 これはいつも習慣だった。家族は学校の成績さえ問題なければ何も言わない。

 パソコンを起動して、チャットソフトを立ち上げる。

 目当ての相手はオンラインだった。

 彼はいつもいるのだ。

 頬が緩むのを感じる。


「やあ、今日もやってるね。暇で結構なことだ」


 優乃はさっそく話しかけた。


「うるせーよ。お前だって暇だろ」


 相手はすぐに返事をしてきた。


「僕はさっき研究論文を教授と議論していたところさ」


 もちろん嘘だが、チャット相手にはエリート大学生ということで通している。エリート大学生なら、これくらいやっているはずだ。


「そうかよ。ご苦労だな。そういえばニュース見たか? あの女優、結婚したらしいぞ。お前ファンだっただろ」


 昼間見たニュースのことだった。


「別にファンってほどじゃないよ。好きな映画に出ていただけ」

「しかも共演映画の俳優とだぜ」

「らしいね」


 彼はどう言うだろうかと、優乃は思った。

 祝福の言葉でも述べるだろうか。

 いや、絶対に言わない。それだけは確信があった。


「まあどうせすぐに別れるだろ」


 彼は言った。

 優乃はにやりと笑った。彼は、嘘をつかない。


「僕もそう思うね。どうせビッチだよ」

「そうだな。ビッチに違いない」


 彼はろくでもない、ネットのカス野郎だ。

 自分と、同じ。

 だから妙に気が合うのである。


「それより聞いてくれよ。新しい運指を試しているんだが、前より平均KPMが1だけ上がっているんだ」

「僕が教えた運指からまた変えたのかい? 誤差でしょそれくらい」

「違うね。試してみるか?」

「いいね。すぐに僕の運指に戻りたくなると思うよ」

「吠え面かくなよ、ユノ」

「そっちこそだよ、SHOW」


 上野川優乃――ハンドルネーム「ユノ」は、タイピングクエストを起動した。

 彼の名前はSHOWだ。

 少し前にタイピングクエストで出会った。

 自分と互角のタイピングスキルを持っている人間は、滅多に出会えない。

 直接連絡を取ったら、すぐに意気投合した。

 リアルだとしゃべるのが苦手なのに、不思議とチャットでは饒舌になれた。

 特に彼の前だと、優乃は思ったことを偽り無く書けた。

 それで言い争いになることもあったけど、それも楽しかった。

 いつしかSHOWとのチャットとタイピングバトルは、一日の楽しみになっていた。

 一度、優乃は言ったことがある。


「ずっと君と、こうしてタイピングバトルをして暮らしていけたら楽しいだろうね」


 言って気づいたが、夜のテンションで少し言いすぎてしまった。

 これではほとんど愛の告白ではないだろうか。

 反応が怖い。いつも一瞬で表示される返信が永遠のように長く感じた。

 数秒のラグのあと、簡単な返信がきた。


「そうだな」


 優乃はほっと息をはいた。

 数秒の思考で、彼は何を考えていたのだろう。

 優乃は思ったが、深くは聞かなかった。

 会話はそのまま流れていった。

 ちゃんと返事がきた。

 肯定的な返事だ。

 それがとても嬉しかった。


次回更新は8月25日予定です。

よろしくお願いします!

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