闇の姉妹
ヴェルガを去り、スネチカにたどり着いた一人の軍人がいた。
その女、名をローラと言う。ローラは誠実で優しい心の持ち主だが、その内面と細見の外見に似合わず筋骨猛々しかった。軍人家計の四人兄弟の末っ子である彼女は、一族が代々有する怪力を我が物としていたのである。
ローラは女の身でずば抜けた膂力を持つ己を恐れた。僅かに力を込めただけで物を壊してしまうのだ。食器を砕き、鉄製のドアノブをひしゃげさせる。この手で人に触れてはいけない、傷つけてはならないと戒める日々であった。
幼少の頃から周囲の人を怯えさせまいと口を重くし、極力他者と関わらないように努めた。黒髪を背に負い、影のように動く彼女は濡れ雑巾のような女だと陰口を叩かれた。そんなであるから友もいない。異性になどモテるはずがなかった。
ローラが戦争に行ったのは十代の頃。女の身なれど武功を上げよと父に命じられ戦場へ送られた。
この頃はまだ戦車などの鉄の塊は走っておらず、戦場での移動手段は馬が主流であった。馬は指揮系統の要として重宝され、食事も待遇も人間の歩兵より厚いもてなしを受けていた。戦場において歩兵は減っても変えはきくが、馬の変えは難しかった。
まず人に馴らせ、人を乗せて悪路を走る勘を覚え込ませ、次いで戦場で響く爆音に驚かないよう耐性もつけなければならない。馬は数いるが、戦場で走れる馬となると少ないのである。
そのため歩兵たちはまず馬を守れと上官から命令される。一匹の馬を守るため、何人もの兵士たちが犠牲になった。
指揮官は馬にまたがり、隊に指示を与えるのが務めであるが、地上から頭五つ近く抜き出ている分標的になりやすかった。
ローラが任されたのは数少ない馬に跨る女性指揮官の護衛と夜伽の相手。多くの男が彼女を避けたが、傲慢な気質の女指揮官はローラを存分に愛した。ローラもまた女指揮官を愛し、彼女の言うことは何でも聞いた。女指揮官の命令で、投薬も受け入れていた。
戦時中、投薬は決して珍しいことではない。常に命を狙われる戦場で極限状態に陥った戦士はやがて自我を崩壊させてしまうのだ。そうならないため、神経を高揚させる必要があった。各国の軍人は、抗うつ剤としての薬を携帯している。
だが、ローラが投薬されたのはそれらとは一線を画す。ヴェルガが極秘裏に進めていた人体強化の薬品であった。
このような経緯でローラの細胞は活性化し、あらゆる傷を数秒で治癒する体を手に入れたのである。
彼女はこれまで上官と馬を守るため、身を挺して計十二発の弾丸を受けた。
彼女の細身に宿る分厚い筋肉は弾丸が骨や臓器まで届くのを止めるに至る。皮が裂け、肉は切られ、血が流れた瞬間、ローラは笑みを浮かべた。
愛する指揮官を守れた事実が誉れとなると同時に、力はこの時のためにあったのだと理解した。今こそこれまで抑えるしかなかった力を解放すべき時。命を狙う敵に遠慮は無用。
既に弾倉が空の銃を投げ捨て、ナイフを握りしめて敵めがけて突進した。一撃一殺、再撃二殺。瞬く間に人間がぼろきれのように散っていく。全ての敵兵を殺したとき、返り血が全身にこびりついていることに気づく。温かく、心地よかった。彼女は獣のように咆哮し、勝鬨を上げた。生まれて初めて裂帛の響きをほとばしらす快感を知った。
剛腕を振るうことにより沸き起こる悦楽は、指揮官を愛する気持ちを容易に凌駕する。ローラは戦を愛する獣と化した。
細胞の活性化により年を取らなくなった彼女は、女指揮官が戦死した後もずっと戦場に身を置いた。
しかしここ数年、ヴェルガ軍が強大になりすぎてからは物足りなさを覚えた。敵兵もヴェルガの名を聞いただけで投降する者が多い。加えて弱い者いじめをするような現軍隊のやり方が気に入らなかった。
求めていたのは力を遺憾なく発揮できる戦場。私は生涯、戦場に身を置きたい。その思いが打ち砕かれた。彼女は荷をまとめ、国を後にした。
ローラはスネチカの厳しい環境の中、樵として生計を立てていた。そんな生活の中、彼女にも友達ができた。
ローラの姿を見つけるなり、「ローラ!」と笑顔で飛びついてくる少女。ローラの冷たい目つきも筋骨も恐れず、無邪気に振舞うその姿は天使にも思えた。
年で言えば十くらいの、笑顔が眩しいオリヴィアと言う名の少女である。森で狼に襲われていたオリヴィアを助けてからというもの、鬱陶しいくらいによくなついていた。
人付き合いの苦手なローラはこの少女を疎ましく思っていたが、次第に、雪が淡く溶けるかのように、人の温みを覚え、獣の本性は鎮まっていった。
もう戦のことは忘れよう、この国でオリヴィアと共に生きよう。そう思っていた。
しかし。
数週間前、同じようにヴェルガを後にした議員達に連れられ、ローラはクリステルとの会合に同席する。
エルフリーデの独裁を阻止するため、力を振るってはくれまいかと頼まれた。
久しぶりに心が躍った。
エルフリーデが指揮する人外部隊と戦うことができるかもしれない、と。普通の人間が束になろうともはや敵ではない。特別な力を持つものと命を懸けたやり取りをしてみたいと何年も望んでいた。
庭に埋めていた銃器と剣を取り出し、反乱軍に加わることを決意。
「許せオリヴィア、私はどこまでいこうと獣なのだ」
ヴェルガの未来は眼中にない。ただ、強者たちと相まみえることが楽しみで仕方なかった。
しかし、ふとした表紙に浮かぶのはオリヴィアの笑顔だった。本当にこのままで良いのだろうかと自問しつつ、今宵も剣の手入れをしていた時である。
突然、外からオリヴィアの悲鳴が聞こえた。その声から少女の危機を悟ったローラは剣を手に飛び出した。宙を駆けるようにして暗い木々が聳える森の中心へ躍り出た。
弱弱しい月光が僅かに刺す黒天の下、服を乱したまま雪の上に横たわるオリヴィアを見た。周囲にはヴェルガの暗殺部隊が数名、横たわる少女を囲むように立っていた。
オリヴィアの周りにはバスケットから飛び出したパンや野菜が転がっている。少女は不摂生な食生活を送るローラを気遣い、夜になると栄養の着く食事を持ってきてくれることが度々あった。
「ローラ・・・・・・逃げて」
オリヴィアが息も絶え絶えに言う。
オリヴィアの腹部から流れた血が、積雪を赤黒く染めているのを見たローラは憤怒の化身と化す。
「貴様らッ! 生きて帰れると思うな!!」
鬼神の如く馳せる。剣を持ってきたことも忘れ、己の四肢のみを使い、無我夢中で暴れまわった。
剛腕の割に恐ろしく速い彼女は、瞬く間に周囲を血で染め上げた。素手で馬の四肢を引きちぎり、鋼鉄にすら手形を残せるほどの膂力を有しているローラの拳は、顎を軽くかすめただけで頸椎を引きちぎるに至る。
六人目の断末魔を聞いた暗殺部隊は、とても敵わぬと発砲しつつ逃走するそぶりを見せた。
「逃げられると思っているのか」
ここでローラは捨て置いた剣を拾い上げた。散り散りになられては面倒である。一振りで6人まとめて斬り裂いてやると思った時。
「こんばんは、元ヴェルガ軍遊撃戦部隊長さん。今日はいい夜ね、そう思わないジェニー?」
「そうねジェミー、月の光も星の光もすっかり雲に覆われた。いい夜だわ」
そう言った双子の少女が立ちはだかる。
ウェーブのかかったくせのある長い亜麻色の髪を二つに結び、前髪は真っすぐに切り揃えられている。まるで月の光を束ねたような髪は異色を放っていたが、その下の青と緑のオッドアイは更に美しく、妖艶に煌いていた。肌はどの陶器よりも白く、血が通っていないように思えるほどである。
「誤解があったのよ、その子にちょっと尋ねたら急に騒いでしまって」
「隊の一人がナイフで脅したの、そしたらもっと暴れちゃって叫ぶものだから」
「ローラぁ、ローラぁ、ってね」
「だから駄目よー、って。ちょっとお腹を刺したの」
「私たちもやりすぎてしまったわ。でも、とてもいい夜だから体がうずうずしてしまうの」
「今夜は光がないの。私たち光は嫌いよ、くらいくらーい夜が好き。だから、はしゃいでしまったの。許してね」
双子の少女は揃って優しく微笑んだ。
幻想的なまでに可愛らしい双子は赤子のように純粋な目をしていた。笑みや柔らかい口調だけで他者の嫌悪や憎悪までも剥ぎ取ってしまいそうなのだ。
「ジェミー、ご挨拶をしないと」
「あら、ごめんなさいね」
双子は口元に手を当てて再び微笑む。
彼女たちが身に纏うエルメリアドレスは赤と白を基調とし、袖口やスカート、頭に着けたヘッドドレスには上品なレース編みが施されていた。皺ひとつないドレスからは甘い匂いが漂っている。彼女たちがスカートの裾を持ち上げると、森にいながらバラの庭園にいるかの如く、うっとりと心の奥まで染みわたる香りが立ち込めた。
「私はジェミー」
「私はジェニー」
姿勢を正し、片足をそっと後ろへ。小さなお辞儀をした双子たち。
「「どうぞよろしく」」
先刻から二人を見ていたローラは恐怖と怒りの狭間にあった。
この双子、只の人にあらず。妖精のようないで立ちであるが、本性は血を求める魔鬼。人の皮を被った鬼にすぎない。
言葉も薔薇の香りもまやかしだ。毒を隠した甘いそれの裏には血の匂いがする。戦場で嗅いだことのあるあの匂いだ。腸が飛び出し、そこに溜まっていた汚物がまき散らされた時の汚臭。人が焼かれた際、頭髪が燃えた時の何倍にも相当する悪臭。戦の匂いだ。
恐らくはヴェルガがクリステル暗殺のために放った刺客。先にこちらを討ちに来たというわけだ。
ローラは息を呑んだ。
この場で双子をやらねば、オリヴィアと私は死ぬ。
双子を黙殺し、数多の戦場を共に駆けた剣を構える。
手にした大剣は偉丈夫のため特別に誂えた特注品であり、刃渡りだけで5フィート(1.5メートル)もある。常人では持ち上げることすら不可能な大剣。かつてローラはこの大剣を手に、斬鉄の気合で戦車の上部を削ぎ飛ばしたこともある。
「まぁ、見て見てジェミー。とっても大きな剣ね。私あんなのはじめて見たわ」
「本当ねジェニー。私たちが乗っても大丈夫そう」
クスクスと微笑む少女たち。
「そう易々と私を倒せると思うなよ?」
ローラは熱い吐息を吐く。
「あなたは力自慢なのね。でも私たち、あなたを殺しに来たのではないの」
「そうよ、私とジェミーはクリステル様の居場所が知りたいだけ。ねえ知らないかしら?」
ローラは有無を言わさず、双子めがけて突っ込んだ。
どうするジェニー?
喧嘩はダメってお母さまがいっていたわ
偉いわ、あなたはいい子ね。なら悪い子はどうしようかしら?
仕方がないわ、悪い子はお仕置きよ
そうね、悪い子はお仕置きだわ
「がっ!」
まるで磨き上げられた剣が折れたかのような声であった。
首から血しぶきを引いたローラの顔は、そのまま数メートル上空へ舞った。地上に落ちた頭はゴロゴロと暗闇の中に吸い込まれていき、ぐったりとした体からはしばし血が吹き上がっていたが、やがて最後の一滴が飛び出すとそれきりしんとなった。




