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皇女の猫【抑制版】  作者: WAKA
衝突篇
50/170

凍てつく心

今日のスネチカの天気は雪だ。

 

重くて冷たい雪の粒が際限なく空から降り注いでいる。

 森も街も静かだ。雪の降る日は決まって音のない世界が生まれる。

 寒い無音の世界。それが余計に私の心配事を増幅させる。

 

私はベッドで眠るクリステル様を見ている。

紅茶を淹れてくれた時、彼女が座っていた椅子に腰かけて、ただじっと。


「こほ、こほ」


 クリステル様は小さな肩を震わせて咳をする。咳がやけに大きく聞こえる。

 昨晩からクリステル様の体調が優れず、ついには足元がふらつくようになった。慌てて彼女を支え、額に手を当てると驚くほど熱かった。


『風邪ですね』


 ピアはそう診断した。


『温度差のある国へ来たこと、日に数回の会合をしていたこと、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていたんでしょう』


 病弱なクリステル様はもともと体力がない。


わかっていたはずなのに。

色恋にばかり気を取られ、肝心のクリステル様の異変に気づけなかった自分がふがいない。

 

夜通しうなされ続けたクリステル様、私にはその苦しみを消し去る術がない。

おろおろと狼狽える私はピアに叱咤された。「アヤメさんがそのような様子ですと、クリステル様は余計に不安を覚えてしまいます。看病をする人は毅然としていなければなりません」と。


不甲斐なさに自分を責めるしかない。

ピアからは解熱剤を手渡された。「看病は病人が最も信頼を置いている人が適任ですので」だそうである。


吸い飲みを使って薬を飲ませたのが数時間前。それが効いたのかクリステル様はぐっしょりと汗をかいた。

衣を取り換えてあげたり、汗ばんだ体をタオルで拭いてあげたりしていたら空がぼんやりと明るくなった。


 苦しそうに息をしている。そして時折、体を強張らせる。

 辛いのだろう、苦しいのだろう。

 それなのに額に浮かんだ汗をタオルで拭ってあげることしかできない。

 歯がゆい。いっそのこと変わってあげられたらどんなに楽だろう。適度に休むようにとソニアから言われたが、眠る気になどとてもなれない。


「クリステル様」


・・・・・・・・・・


 クリステルは昏睡していた。

 国の政策を否定したゆえに反逆者の烙印を押され、命を狙われることになった。

エルフリーデの独裁によって狂国となったヴェルガを取り戻す。皇女であるとはいえ、十六歳の少女が背負うにはあまりにも重い決意である。それはクリステル自身も気づかぬうちに、彼女の肉体と精神を消耗させていた。


追い詰められた精神は過去の忌まわしい記憶を呼び起こした。アヤメと共に、穏やかな眠りについているときでさえ、悪夢を見ることがある。


 クリステルは夢を見ている。あの日。王立広場で祝辞を述べるはずだった日。彼女は戦争を続けるヴェルガを否定した。


 壇上から降ろされ、教育係の女性から酷く叱責を受けた。

 自室に戻ってからはしょんぼりと肩を落とすしかなかった。そんなに間違ったことを言ってしまったのだろうか。ただ、自分よりも長く生きられる人に、この国の未来を繋ぐ人々に後悔してほしくなかっただけなのに。


 その日から周囲の人間がどこか余所余所しくなった。理由はあの演説にあった。

 これまで人の言うことを黙って聞いてきたクリステルが、あのような場所で身勝手な意見を口にするなど誰も予想していなかった。そして、予想しえない行動をする皇女を皆が恐れるようになったのだ。


 病気の皇女は大人しく言うことを聞く、そうしていれば周囲の人間も優しい。いつからか成り立っていた均衡が崩れた。周囲の人間はクリステルがまた勝手なことをした時、誰が責任を取らなければならないのかを恐れたのだ。


 クリステルは悲しみに打ちひしがれた。

 訴えたかったのはこんなことではない。どうして誰もわかってくれないのか。


 皆が耳を傾けてくれないことに頭を抱える一方で、自分のしたことは他者の立場も考えずにした身勝手なことであるとも思った。


 その後に体調を崩し、再び自室で横になる日々が続いた。


 そんなある日、父が見舞いに来た。


 クリステルが体を起こそうとすると――


『まるで抜け殻だ、役に立たないなお前は』


 父は言った。

 あんなに優しかった父が、まるでガラクタを見るような目で。

 それだけ言って父は出て行った。


 役に立たない? 


 もう私なんていらないってこと? 


 私がいけないの? 


 私なんて生まれてこなければよかったの?

 

 この日のことは何度も夢に見る。

父がベッドにいる娘を見降ろして、とても悲しいことを言う。


 幼かった頃に見た父の記憶は、全てあの日の父に塗りつぶされた。


『役に立たないな前は』


 いや、やめて。


 そんなこと言わないで。


 私は――


「クリステル様」


・・・・・・・・・・


「クリステル様」


 うなされていたクリステル様の手を取り、努めて優しく囁いた。

 可愛らしい小さな紺碧の瞳が開かれる。


「アヤメさん」

「はい、クリステル様。おそばにおります」

「私、どうしていたの?」

「昨晩体調を崩されて、今まで眠っていたのです」

「・・・・・・ずっとそばに?」

「はい」

「・・・・・・アヤメさんは寝ていないの?」

「いえ、眠りました。ご心配なさらず」

「嘘が下手ね」


 クリステル様は弱弱しく微笑みながら私の髪をそっと撫でる。

 二の句が告げられない。


 私も必要とあれば嘘をつく。感情が顔に現れず、常に鋭い目をしている私が嘘をつけば大抵は見破られないのだが。クリステル様の前では無理だ。彼女に偽りを述べることは裏切りであると、そう思えてしまうから。


「私は必要とあらば三日三晩、寝ずに走り続けられます。一晩くらい寝なくても大丈夫です」

「またそんなことを言って」


 そう言うとクリステル様は小さく咳き込んだ。


「お腹はすいていますか? 可能であれば何か口にして体力をつけなければ」

「ありがとう。でも、ちょっと無理かな」

「いつでも言ってください。喉は渇いていませんか? 水を――あっ」


 そうだ。深夜に吸い飲みを使ってクリステル様に水を飲ませ、それから空にしたままだった。


「すみません、今水を注いで来ます」

「からっぽ・・・・・・抜け殻、か。私と同じ」

「はい?」


 ぼんやりとした瞳で天井を見つめ、ぽつりと呟いた言葉。無意識のうちに胸から剥がれ落ちた感情が言葉になった、そんな印象を受けた。

 浮かしかけた腰を再び椅子に戻す。今はこの方の傍を離れてはならないと思った。


「・・・・・・私、ごめんなさい、アヤメさんに看病させて。ごめんなさい」


 クリステル様は言った。今度ははっきりとした言葉で。

 それはとても悲しい響きの謝罪だった。


「謝ることなど何もありません」

「あるわ、だって――だってあなたは私のために一晩中起きてくれていて。疲れたでしょう? 私を守るためでも、あなたが傷つくのは嫌。そんなことしてはダメよ」


 咳き込みながら言うクリステル様。胸が苦しいのか、手を当てて体を竦めている。このままどんどん小さくなって、消えてしまいそうだった。


「心得ました、私もしっかりと休みます。ですからクリステル様も無茶をなさらず、もう少し休みましょう」


 彼女はかぶりを振って、弱弱しい笑みを浮かべる。


「いいえ、今日は元議員の方たちと大事な話があるの。倒れている場合じゃない――」

「あっ、だめですよ」


 体を起こそうとしたので慌てて肩を支えた。柔らかみのある肌は服の上から触れても熱かった。


「まだ熱が。無理をしてはいけません」

「やらなきゃいけないの――私にはできることがあるから」


 朦朧とした意識でベッドから降りようとした彼女は、俯いた頭に引きずられるようにして私の胸元に倒れ込んできた。体を支えようと彼女の脇腹に手を添えた時、浮き上がったあばらに触れた。竹細工のように細く儚い感触に驚いてしまう。


「寝ていなければ駄目です、丸一日熱でうなされていたんですよ? 体も弱っている、こんな状態では」

「・・・・・・ごめんね、着替えるから立たせてくれる?」


 私は少しだけ頬を膨らませる。


「いけません。聞き分けてください」

「駄目なの、私がやらないと」


 私がお願いすれば、ある程度のことは聞き入れてくれるはずと思っていたが。

つい数時間前まで、彼女は何かにとり憑かれたようにうなされ続けていた。ピアを呼びに行き、薬を飲ませ、止まらない汗を拭き続けた。


 その姿を見てどれほど心配になったか言葉では言い表せない。目が覚めたからと言ってもしばらくは安静が必要なのだ。


 それなのに。


「私は大丈夫よ、ね?」


 こんなに近くで触れ合っているのに感じる疎外感。それは水が大地に染み込むように心に広がって、私を不安で満たしていく。

 無茶をして苦しむ姿を見たくないのに、どうしてわかってくれないのか。なぜこの気持ちが伝わらないのだろう。愛する人に想いが伝わらないのはとても寂しい。


「汗を拭かせてください」


 ひとまずベッドへ座らせ、額の汗をお湯で浸したタオルで拭う。発熱の影響で体が重いのか、次第に前のめりになっていく。そうするとくしゃくしゃになってしまった髪が、顔を覆うようにして垂れてくる。

私は彼女の前髪を手櫛でそっと整える。


 ここまでしようとする理由など、考えるまでもない。傍で見てきたのだからわかる。必死になるのは、救うべき人々がいるためだ。

 この方は常に誰かのことを思って行動している。彼女が身を削ってでも事を成そうとする時、その原動には決まって他者が存在するのだ。そのためならば自分を顧みない。必要とあればガラスの上を裸足で歩くようなことまでするだろう。無私無欲と指摘すれば笑って否定するに違いない。「それが私のすべきことだもの」と答えると思う。


 本当にそうだろうか。

 皇女として自らに義務を課しているのは立派だ。けれど、こんな状態の時でさえ奮い立たなければならないというのは、そんなもの呪いでしかない。

 誰かのために行動するのなら、自分自身も幸せにならなければならない。人の幸福を望むのであれば、何より自身も幸せになるべきだ。血を絞り尽してまで貫く自己犠牲など、私は認めない。


「・・・・・・申し訳ありませんが、クリステル様を会合に向かわせるわけにはいきません」


 彼女の手を取り、指の合間に一本ずつ指を合わせていく。


「あなたが多くの民のため尽力しているのはよくわかっております。けれど、自身の幸せのことも考えてください」

「私の・・・・・・幸せ?」

「・・・・・・あなたは幸せになって良いのです、そうなるべきなのです。ですからどうか今はご自愛下さい」


 そっと握った手にじんわりとした温かみを込める。心をさらけ出し、一言の偽りも混ぜていないことをわかっていただくために。


「お願いです」


 優しいクリステル様。

 あなたは今までずっと私のことを考え、心配してくださっていた。私だって。


「アヤメさん」


 クリステル様は目を見開き、そのまま体を硬くしてしまった。

 どうしてそんなにも哀しい顔をするのか。


「ごめんね、私のことで悩ませちゃって」

「違います、そういうことを申したのではありません」

「――私、あなたに迷惑ばかりかけて」


 もわもわと心の中に不安が生まれる。

 どうも様子が変だ。会話がかみ合わない。そしてなにより――


「・・・・・・ずるいです、クリステル様」

「え?」

「ずるいと申し上げたのです。あなたは私のためならば、傷ついてでも行動を起こすでしょう。それなのに、私があなたのためを考えると咎めてしまう――私だって愛する人を想いたい」


 クリステル様の瞳から光る滴が零れ落ちたのを見てあッ、と我に返った。

 まるで友人に言うような口ぶりで無遠慮な言動をしてしまったと気づく。


「も、申し訳ありません、口が過ぎました。泣かないでください、どうか泣かないで」

「ううん、違うの、ごめんね・・・・・・私、役立たずなのに、あなたは私のことこんなに考えてくれていて」

「役立たず?」

「――ごめんなさい、今は一人に、一人にして」


 頬に触れようとすると、彼女は両手で顔を覆ってしまった。

 やはり様子がおかしい。

 熱からか意識が朦朧としており、焦点も定かではない。だがこれは、体の不調よりもっと別の形の苦しみを抱えているのかもしれない。

 一人にしてほしいというのは命令だろうか。


「それは命令ですか?」


 わからないので聞いてみたが、嗚咽を繰り返す彼女は何も言ってくれない。

たとえそうであったとしても今の彼女を一人にすることなどできはしない。

 私はクリステル様をゆっくりとベッドに寝かせると、力を込めれば壊れてしまいそうな小さな肩を抱く。


「あ、だめ。だめだよ」


 クリステル様は私を近寄らせまいと、肩に手を置いた。


「アヤメさんに風邪が移っちゃう」

「あなたの風邪は病原菌の類でなく、疲労による体力低下によるものだとピアが言っていました。心配いりません」

「だ、だからって」

「それに風邪は移せば治ると聞きます」

「そんなの嫌――一人にして、お願い」

「嫌です」


 私の口調が強かったためか、彼女は目を見張っていた。


「そんな、今まで言われたことは守ってくれたのに。どうして?」

「私は忠犬ではなく、勝手気ままな猫になってしまいましたから」

「ひどい、こんな時に誤魔化すなんて。ねえ、お願いだから一人にして・・・・・・今の私、きっと嫌なことを言ってしまう、あなたを傷つけるわ」

「誰かを傷つけたいのなら、私を御使いください」

「いや、いやなの、恐いの、大切な人にいやなことを言ってしまう自分が――」

「クリステル様」

「だっだめっ、んっ」


 少しだけ唇に触れる。


「今のあなたを一人にするなど、私にはできません。んっ」

「ふっ」

「私はずっとあなたと共におります、そうさせてください。一人で苦しまれているお姿を見ると、自分の無力さに悲しくなります」

「そ、そんな。アヤメさんを悲しませるつもりなんて」


 瞼を開けたクリステル様は私に迫った。


「ならどうかこのままで」

「うぅ」

「今日はまだ休みましょう。会議は体を治してからです」

「・・・・・・はい」


 鼻先と唇があと少しで触れるような距離で私たちは制止する。熱い息遣いと、愛する者を見る瞳の光が間を行き来するのみである。


「笑っているの?」


 クリステル様が頬を撫でながら言う。


「あ、笑っていましたか?」

「ええ」

「・・・・・・嬉しかったのだと思います、クリステル様が休んでくれると言ってくれてほっとしました」

「あ、また。可愛らしい笑顔」

「あはは」


 彼女は虚ろな目で、興味深そうに私を見る。


「笑顔だなんて。桜花にいた頃は笑顔を見せない女と言われていたのに・・・・・クリステル様と出会う前はどんな顔をしていたのか、もう思い出せません」

「今のような笑顔は誰にも見せていないのね?」

「はい」

「アヤメさん」

「はい?」

「好き」

「私もですよ」

 額をこすりつけて甘えると、彼女も同じようにしてくれた。

「私も、前はどんな顔をしていたのか覚えていないわ」

「今のような笑顔を他の人に向けられては困ります」

「・・・・・・この笑顔はアヤメさんに向けるものだもの。誰にも向けていないわ――でも、前は色んな人に作り笑いをして接していた気がする、お父様にさえ――」


 クリステル様の表情があっという間に崩れて、手のひらで顔を覆ってしまった。


「クリステル様?」

「アヤメさん、私――私ね、お父様に」


 何か言いかけた彼女だが、辛いことであったのか途中で言葉が途切れてしまった。

 何故か申し訳なさそうに萎んでいく彼女を見て、全身の血が勢いよく廻った。

この方を苦しめるものなど全て消し去ってやる。

 

 私が護るんだ。


「今は私が側にいる。それだけではいけませんか?」

「ううん、嬉しい・・・・・・でも、辛いことがあれば隠さずに話し合おうって言い出したのは私だし」

「無理に話す必要はありません。言いたいときに言ってくださればそれで」

「・・・・・・お願い、手を握っていて」

「もちろんです」


 クリステル様は静かに目を閉じて私の胸に顔を埋めた。


「アヤメさんの胸、すごくどきどきしてる」

「それはあなたが触れて下さるから」

「あったかい、さっきまであんなに寒かったのに今はとっても」


 私は優しく触れることに努め、ゆっくりと金糸のような髪を撫でた。

 クリステル様の美しい髪はサラサラとしていて指通りが良い。指を使って髪をすくようにして撫でる。


「傍におります、どんな時も」


 彼女はコクンと頷いた。荒かった呼吸がいつからか安定したリズムに変わり、そのまま力が抜けたようにして眠ってしまった。


「一人にはしませんよ」


 私の声は静かな部屋にこだますることもなく、そっと消えていった。



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