恩義の門番
几帳を抜けると行き止まりであった。
あまりにも予想外の光景に、私はまじまじと眼前の椅子を見てしまった。
薄暗いとはいえ、室内だったのがせめてもの救いだろうか。
もしも川端康成の『雪国』のように銀世界が広がっていたら、いくらファンタジーな常世とはいえ、さすがの私も呆気にとられるだろう。
「椅子ですね……」
「椅子ですねぇ」
私たちは同時にそう言って、顔を見合せて、そして微笑んだ。
「神様の気配わかりますか?」
「ええ。この椅子の下から」
揺らぎない金の瞳が目の前の椅子に視線を注ぐ。
王座らしさ満載の、ワインレッドの肘掛イス。
常世のチグハグな世界観にはもう慣れたつもりでいたが、まだまだ甘かったようだ。
(いや、でも変ではないか。畳とベッドの組み合わせなんかも、最近はよく見かけるし。そういうインテリアだよね、きっと。うん)
そう考えて何度もうなずく私の横で、葉月さんが見慣れないものを見たときの犬のように、慎重に椅子の周りを歩き回った。
入念に確かめてから、彼は椅子の脚元に膝をついた。
(なにか見つけたのかな?)
気になって首を伸ばすと、葉月さんが椅子の近くに敷かれている畳の縁を指でなぞっているところが見えた。
(……うーん? ここから見てる分には、とくに変な感じはしないけどな)
尋ねようにも、葉月さんが術をかけてくれない限り、私は声が出せない。
仕方がないので、黙って彼の真剣な横顔を眺める。
ややあって、畳を探る指先が明確な意志を持ってなにかを描き始めた。
見慣れた畳に、微かに松葉色に光る梵字が浮き出る。
(あの結界のときみたいなやつかな……?)
該当する御札の持ち合わせがなかったのか、それとも御札をかく機会がないほど稀有な術を使うのか。
彼は北海道の孤島でやってみせたような手間のかかる方法で、なにやら術をかける準備をしているらしい。
梵字の読み方も術についても無知な私は、沈黙を守るくらいしかやることが無い。
ただ確信を持って言えることは、この術が結界を張る類のものではないということだ。
(たぶんだけど、さっきの調べるような手つきからして、やろうとしているのは術の解除かな。数学の問題の解法を思いついたときの勢いって、あんな感じだよね)
しかし、正解を導き出した訳ではないらしい。
ときおり動かす手を止め、首をかしげ、書き直している。
(神力で文字って書けるんだ。ていうか、書き直しってアリなんだ……)
そんな脊髄反射で出たような考えばかりが脳内に浮かんでは消える。
そうして長い針が5周したころ、葉月さんはようやく手を止めた。
少し離れたところで眺めていた私に手招きし、袖の下からお札を取り出す。
幻術のお札だ。
「ここ、術がかけられているんですか?」
葉月さんが術をかけたことを確認してから、私は聞いた。
「はい。認識阻害と封印の術がかけられていました。かなり複雑なものでしたが、もうすぐ解除できるので、一応念の為に幻術をかけます。結奈さんはこちらへ」
そう答えて、葉月さんが私の腕を引いた。
あまりにも自然に抱き寄せられたので、キュンと胸が高鳴るまでにラグが生じた。
術の解除で頭がいっぱいなのだろう。
直ぐに手は離れていき、また畳の縁に文字を書き連ねていく。
逆に、こんなときに意識してしまう自分が恥ずかしい。
(しっかりしないと。まだここから何が起こるか分からないんだから)
そう心を引き締めたとき、畳の縁から閃光が走った。
ロウソクよりも弱い光は、私がその存在を認識すると同時に消えて、何事も無かったように沈黙した。
「解除できました。行きましょう」
私はその言葉にうなずいて、差し伸べられた葉月さんの手をとった。
とりながら、困惑した。
たしかに術は解除されたようだが、どこにどうやって行くというのだろう。
そんな私の心中を察しているだろうに、サプライズ好きの葉月さんは何も言わず、ただ手を引いた。
そしてそのまま、椅子の乗った畳に足を踏み入れる。
瞬く間に畳が水面のように揺らぎ、彼の足首は床下に埋もれた。
しかし私は驚かない。
ギョッと目をひん剥くこともなければ、「ええっ!?」と大声を上げることもしなかった。
ファンタジー慣れした私からしたら、もはやこの程度、眉ひとつ動かすに至らない。
一切動じることなく、私も彼の後を追う。
……なんてことはなく。
「ええっ!?」
目を丸くして、大いに驚いた。
幸いなことに幻術がまだ解けていなかったので、驚嘆の声が几帳の向こうに届くことはなかったが、慌てて口を抑える。
恨めしさをたっぷり込めた目で葉月さんを見ると、そこには満足げに笑っている恋びとがいて、つられて私も頬が緩んだ。
「これって湖の幻術と似たようなものですか?」
「少し似ていますが、これはあの術よりもさらに繊細で、かつ難解な構造をしています。先程まで普通の椅子だったでしょう?」
私は畳と椅子に体を埋め、見えない階段を降りながら「たしかに」と首肯した。
もともと水の存在しなかった湖の幻術とは違って、先ほどはきちんと触ることの出来る椅子だった。
それが今や通り抜けられる幻だ。
「さすが神様って感じですね」
感心して言う私に、葉月さんが「それが」と口を開いた。
「この術、どうも別の方がかけたもののようです」
「別の? そうなんですか?」
意外な言葉に聞き返す。
ちょうど椅子の座面が鼻下まで迫っていたので、内心すこし緊張しつつ、私は首をかしげた。
さらに一歩、階段をおりる。
覚悟を決めて座面に顔をつけると、またも煙のように消えて、ようやく石造りの階段が目に入った。
「そうなんです。しかも神力じゃなくて妖力で」
「えっ、じゃあその術使いは高天原の妖ではなくて、黄泉の妖ってことですか?」
「はい。もっと言うと、アーロンさんの妖力です」
「……ほう」
我ながら渋い反応をしてしまった。
聞き馴染みのある名前に肩の力が抜けてしまう。
てっきりこの先に敵が潜んでいるという話かと思った。
「もしかして、アーロンさん、神様と一緒にいるんですかね」
「それはないと思います。神様の居場所が分かっていたら、真っ先に私たちに教えてくれるでしょうから。それよりも、かすかに別の妖の気配が……これは……」
眉をひそめながらも進む彼に従って、私も長い階段を降りる。
そうして階段の最後の段が見えてきたところで、葉月さんはようやく足を止めた。
「やはり。でもどうして……」
やはりと言う割に、葉月さんは戸惑っていた。
そして私もまた、驚いて息を呑んだ。
知っているというには刹那的な出会いで、けれど知らないというには私たちと込み入った関わりを持つ男の妖。
以前に比べて身なりが整っているが、この全てを見透かされるような感覚はよく覚えている。
天中の市場で偶然出会い、そして私が野妖という存在を知るきっかけになったひと。
「あのときの鬼の……?」
事の顛末は、葉月さんから聞いていた。
私が人間だと気づいて人魂生産者のセドリックに情報を売り渡した妖だ。
それでも最後にはその行為を悔いて、攫われた私を救出せんとする葉月さんに、とても貴重な情報を提供してくれたらしい。
「なぜ、あなたがここに」
葉月さんが問うた。
男は気まずそうに私たちから目をそらし、やはり気まずそうに顔を上げた。
「ずっと恩を返したいと思っていた」
地を這うような低い声が、静かに言葉を紡ぐ。
言葉を必死に探す姿に、私はどこか応援するような気持ちで続きを待つ。
葉月さんも穏やかな静寂の中で、彼を見守っている。
「お前……あなたは、俺が神様に直接お会いできるよう、特別な文を出してくれた。神様は俺に名前を付けてくださって、黄泉の王に取り次いでくれた」
私は思わず葉月さんを見上げた。
この話は初耳だった。
葉月さんは私の視線には気づかず、じっと男の声に耳を傾けている。
話しかけづらい雰囲気だったので、私は黙って前を向いた。
「黄泉の王は、俺の話をきちんと聞いてくれた。それで、組織に……特別な仕事の斡旋を、して下さった。俺は初めてひととして扱ってもらった。名前で呼ばれることの喜びを知った。ひとの役に立つ誇らしさを知った。あなたのおかげだ」
まっすぐ葉月さんを見つめるその瞳は、感謝と尊敬と、たしかな信頼の色が滲んでいた。
葉月さんは一度口を開いたが、言葉にする前に飲み込んだ。
なにを言おうとしたのかは分からないが、何となく、感謝されている自分を否定しようとしたように見えた。
けれど、ひとからの感謝の言葉を跳ね除けるのは無粋だと思ったのだろう。
結局、彼は別の言葉を口にした。
「あなたの名前を教えていただけますか?」
「卯槌だ」
言い慣れていない口調と、少し力の入った声音で、元野妖の男が名乗った。
「卯槌さん。素敵な名前ですね」
卯槌さんは、葉月さんの言葉に偽りのない笑顔で頷いた。
私はその晴れやかな表情を目にして、ほんの少しだけ、ひとの犠牲を踏み台にして生き残った自分を許せる気がした。
この80話が2023年最後の更新となります。
ここまでお読みくださった皆様、本当にありがとうございます!
いつも心の支えとなっております!
幾度となく終わる詐欺をしていますが、来年こそ必ず完結させるので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)




