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1-1女難の相

 どんがらがっしゃんと、2階から盛大に物が落ちる音がした。

 店内にいたお客さんたちが、何事かと天井を見上げている。


「すみません! ちょっと様子を見てきます」


 接客もそこそこに、私は奥の階段へ向かった。

 古い家屋によくある急こう配の階段である。手すりがあるとはいえ怖い。おばあちゃんはこの斜面を難なく上っていくのだから、何事も慣れというやつか。

 私は手すりを命綱みたいに握りしめて1歩ずつ慎重に上った。


「稲田さん! 大丈夫ですか」


 2階の物置から雪崩のように崩れた荷物。その手前に、当店の主人である稲田さんがうつぶせになって倒れこんでいた。


「すみれちゃん……ごめんねえ、大きな音出して」


 幸い、荷物の下敷きにはなっていないようだった。曲がった腰が痛むのか、しきりに腰のあたりをなでている。


「起き上がれそうですか。そうだ、119番……」

「そんな大事にせんでええよ。えらい騒ぎになるじゃろ」

「でも」


 足首の辺りがぷっくりと腫れている。どう見ても「大丈夫」ではない。

 島の中に整形外科はない。きっとかかりつけの内科に行っても、湿布を渡されるか、救急車とフェリーの旅をすることになるだろう。世界有数の観光地「宮島」といえど、島は島。都会ほど便利にはできていないのだ。


「お隣に留守頼んできますから! じっとしててくださいね」


 あいまいな返事をする稲田さんを一人にするのはちょっと不安だ。あのおばあちゃん、何でもすぐに自分の手でやろうとするから。

 階段を下りるとお客さんはいなくなっていた。その隙に隣のもみじ饅頭屋をのぞく。レジにいる店員さんに勢いよく声をかけた。


「あのっ!」

「はいはい……あら、お隣のバイトさん」

「稲田さんがこけちゃって、あの、多分足を痛めてて動けなさそうなんです」


 店員さんは驚いたような声を出してすぐさま119番に電話を掛けた。

 ……掛けちゃった。いいのかな、稲田さんには止められたけど。

 行き場のない手を空中で往復させただけで、結局何も言えなかった。「これで大丈夫よ」と笑う店員さんに、釣られるように笑顔を返す。

 店に戻ってくると、なんと稲田さんが1階のレジに座っていた。どうやって下りたの!?


「あ、すみれちゃん」

「あ、じゃないです。安静にしててって言ったのに」

「でも店を見る人がおらんとねぇ」

「もう……お隣さんが救急車を呼んでくれましたよ。来たら病院行きましょう」

「えぇ〜? 呼んだんね」


 数分と待たないうちに、細い路地を縫うようにしてゆっくりと救急車がやって来た。観光客が道の端や近くの店から物珍しげに救急車を眺めている。


「こがいに大事にせんでも。よっ……こい、しょっ」


 すっくと2本の足で立つ。が、やはりその足は腫れている。

 稲田さんは顔中のしわを真ん中に集めて、梅干しでも食わされたかのような表情をしていた。


「一人で行ってくるけえ、すみれちゃんは留守番しとって」

「でも……」

「えぇけ、えぇけ。店お願いね」


 それ以上強く出られなくて、押し問答はすぐに終わる。

 結局、稲田さんが戻って来たのは夕方。閉店後のことだった。

 足には立派なギプスが装着されている。


「ほらぁ! 無理するから」


 元気よく稲田さんにプリプリと怒りを飛ばしているのは孫の美香さん。今年大学生になったばかりで、私よりも少しお姉さんだ。ときどき店の手伝いに入っている。


「すみれちゃんがバイトに入ってくれてる日だから良かったけど、そうじゃなかったらどうするの!」

「いうほど大した怪我じゃなかろ。何もない」

「何かあってからじゃ遅いの! 私もすぐに駆けつけられないんだからね」


 ただでさえ丸い稲田さんの背中が丸くなっていく。が、美香さんの猛攻は止まらなかった。


「もうさぁ、住み込みでお店続けるんは無理だって、前から言ってるでしょ。島の外で一緒に住もう? どうしても続けたかったら、向かいから通えばいいじゃん」

「そしたらご先祖様に申し訳が立たん」

「頑固なんだから! それならせめてバイトの人を増やすとかして負担を減らしなよ。少なくともその怪我が治るまでは店に出ちゃだめだから」

「募集を掛けたからって、そんなすぐに人が入ったりせんじゃろ」

「そりゃ分かってるけどー」

「あのぉ……」


 声を掛けると、二人がぐるんと勢いよく首を回してこちらを向いた。


「……よかったら私シフト増やしましょう、かっ」


 「増やしましょうか」の「か」を言い終わる前に美香さんに抱き着かれた。ち、力強い……。


「ほんとォ!?」

「う、は、はい」

「じゃけど、すみれちゃん勉強のほうは大丈夫なん? 宿題とか塾とかあるんじゃないん?」

「えと、夏休みの期間だったら多分……」


 部活にも入っていないし、夏休みもまだ始まったばかりだ。それに、もし学校が始まったとしても……息苦しさを忘れるようにかぶりを振った。

 私に無理がないのなら、ということで稲田さんも納得してくれたようだ。美香さんが来られない日の穴埋めをすることになった。

 笑顔の二人を見て、私もニコリと笑顔を返した。


***


 早朝の宮島は観光客が少ない。賑わいは鳴りを潜め、島全体がまどろみの中にいるようだ。

 私はこの時間が好きだった。商店街を抜け、乾いた砂の上を履きなれたスニーカーで歩く。

 どこか懐かしい、土のような草のような匂いが立ち込めている。きっと数時間後にはこの砂も多分に雨を吸ってぺちゃぺちゃになるだろう。


 ……今日は、売り場に傘を出しておいたほうがいいかもなあ。稲田さんに言わなくちゃ。


 店に寄る前に、私は厳島神社に参拝に向かった。少し歩けばすぐに朱塗りの社殿が見えてくる。まだアルバイトは始めたばかりで、参拝するのは今日が初めてなのだった。

 床板に隙間があって、歩くときしきし音がする。本当に回廊が海に浮かんでいるんだ。お客さんから聞いていた通りだ。

 回廊の先にはカップルと家族連れが1組ずつ、遠くには大きなカメラを構えた人も見える。

 本殿に着き、財布から取り出した5円玉を投げ入れた。手を合わせて心の中で念じる。


 稲田さんの足が早く治りますように。

 できれば腰もずっと痛そうなので楽にしてあげてほしいです。

 あと……楽しい夏休みになりますように。

 宿題も早く終わらせたいな。

 ……稲田さんたちの手前ああ言ったけど、実は塾の夏期講習もあるんだよね。

 大丈夫かなあ……バイトとどうにか両立して、それから、


「願いすぎ願いすぎ。5円でアンタ……ファミレスのドリンクバーじゃないんだから」


 正面から聞こえた声。手を合わせたまま、思わず顔を上げた。

 ――だって正面には社殿しかないのに。

 見れば、巫女装束を着た美しい女性が床板であぐらをかいていた。頬杖をついて不服そうな顔で私を見ている。

 神社の人? いや、違う。あれは人間じゃない。

 頭で認識するより先に鳥肌が立った。いつもと違って「はっきり見える」せいで気づかなかった!

 そっと目線を外し、一般の参拝客のようにおじぎをする。

 悪いものじゃないのは分かる。むしろ、高位のナニカ……こんなに輪郭がはっきりしているのは初めてだもの。

 後は立ち去るだけ。なるべく自然に……ゆっくりと……。

 ぎこちなく振り返ると、顔面5センチのところに彼女の顔があった。


「ヒッ!?」

「あ! やっぱり見えてんじゃん」


 見えてないです。躓きそうになっただけです。


「心の声聞こえてるし」

「えっ」


 私が声を出すと、彼女はニヤ~と目をしならせた。


「珍し。最近は見える人間少ないんだけどね」


 とっさに辺りを見渡す。よかった、みな景色に夢中でこちらの異変には気づいていないようだ。


「いや、まさかアンタがそうだとはね。ちょうどいいところに来たわ。ちょっとやってもらいたいことがあるんだけどさ……」

「あ、あの」


 私は周りに気づかれないぐらいのひそひそ声で彼女に語り掛けた。


「見えちゃったことはなんかすみません、なの、ですが、あの、どうかこのことは忘れてください」

「やだ」

「えっ」

「言ったでしょ、見える人間が少ないって。これを逃したらまた100年ぐらい待つことになるんですけど?」


 彼女はその身をふわりと浮かばせて、私の肩に手を置いた。感触はないのに肩の辺りだけ妙に血が巡っているような温かい感じがする。


「あの……私今からバイトの時間で」

「あー、信子んちで働いているんだったね」


 なんかバレてる!? というか信子……?


「島のことは全部知ってるのよ、浜桐すみれ。あと、信子は信子よ。ヒロシとトミの娘……孫だっけ? とにかく雇い主の名前くらい覚えときなさいな」


 もしかして信子って稲田さんのこと?

 何というか規格外だ。時間の感覚も、個人情報の概念も。


「信子、脚をけがしてたわね。確かにアレじゃあしばらくは動けないでしょうよ」

「じゃあ、このお話はなかったことに……」

「だからバイトがない日だけでいいわ」

「ええ……」


 逃がしてくれる気はまったくないようだった。

 少しずつだけど、境内に人が集まり始めている。せめて目立ちにくい場所まで移動したい。

 私の考えを読み取ったのか、彼女は私の隣に並んだ。歩き出すと一緒に彼女も動き出す。


「とりあえず火・木でいいわ。時間帯はそうね……昼前ぐらいでいいかしら」

「そんなバイトのシフトみたいに……」

「アンタ運がいいわよ」


 参拝順路の最後となる西廻廊を抜けると、彼女はそれ以上着いてこなかった。

 分厚く空を覆う雲の隙間から日の光が漏れ、彼女の背後を明るく照らす。逆光のはずなのに、彼女には一切影がない。彼女自身が淡く輝いているからだ。


「今日はきっとお客さんがいっぱい来るわ」


 瞬きをしたほんの一瞬で、彼女の姿は見えなくなった。

 湿った土の香りはどこかへ消え、セミの声が争うように空気を奪い合う。

 その日は晴れ、7月で一番の売り上げを更新したのだった。

 外国人の団体のお客さんが来店した日だった。たまたま手の空いた美香さんが一緒に入ってくれる日でよかった。

 店じまいを手伝いながら、何気ない風を装って稲田さんに厳島神社の歴史を聞いてみた。稲田さんは「宮島に関心を持ってくれとるんじゃねえ」と喜んで話してくれた。


「宗像三女神……ですか」

「それぞれ田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこと。厳島神社はこの三姉妹の女神さまをお祀りしとるんよ」


 やばい。思った以上に大物に当たっちゃったかもしれない。


「3人とも女性の神様じゃろ? じゃけえ、アベックが来たらやきもち焼いて別れさせてしまうって言われとったりするんよ」

「えっ、本当ですか」

「んなもんデマよ、デマ」


 美香さんが話に入ってくる。


「そんな心の狭い神様じゃないって。だって見てよ、普通にみんなカップルとか夫婦で来てるじゃん。じゃなきゃ、こんなもん売れないわ」


 指さした先には、店頭の恋みくじがあった。赤いハートのポップな看板がまぶしい。


「すみれちゃんも引く?」

「……じゃあ、隣の普通のおみくじで」


 100円を入れ、箱の中から紙を一つ取り出した。

 糊をはがし、ぺりぺりと紙を伸ばしていく。横から覗き込んできた美香さんが、私の代わりに読み上げた。


「アッハハ! 女難の相だってさ」


 唇の端がひきつった。

 ……これ、厳島神社にこっそり結んできたら怒られるかな。

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