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戦国クラス転生  作者: 月本 一
302/302

301 名古屋追放

感想、誤字報告いつもありがとうございます。

次回更新は05/17(日)

(1583 一条房基(61))

 国会議事堂の南側に名古屋城と官公庁群がある。名古屋城には天守がなかった。御所を見下ろす構造を避けたことと、籠城ではなく居住性を重視したためである。大坂城は守備に特化した城壁で守られた六稜郭の構造だったが、名古屋城は城砦ではなく広大な庭園を持つ宮殿として設計されていた。


 名古屋京の北部にある鷹司家から首相官邸である名古屋城への移動には4頭立ての箱馬車を使っていた。帝に使用していただくために開発した馬車は前例がないため使われなかった。牛車は既に廃れて現存するものはなかったし、動物に牽かれることに難色を示されたのだ。帝の京からの移動も輿だったし、名古屋御所から議事堂までの移動も輿が使われた。帝用にしつらえた豪華な馬車は将軍専用となり、今は総理大臣専用の公用車になっている。箱馬車の開発は続けており、今は御所から名古屋城への周回コースを巡る乗合馬車が運行している。


 多くの大名は駕籠ではなく人力車に乗り、周囲に十名ほど護衛をつけた行列でゆっくり移動していたが、私は移動時間が早い馬車を使っていた。護衛は御者と2人の同乗者、駆け足で後に続く2人の5人のみだった。その警護が少ない移動中に襲撃が起きた。襲撃者たちは車輪に槍を突き入れて馬車を止めようとしたのだが、あっさりと槍を圧し折って襲撃者達を置き去りにして走り去ってしまったのだ。4頭立て馬車の重量を支える車輪の頑強さは想定外だったのだろう。駆け足で続いていた2名の護衛は襲撃者達と切り合って討死した。襲撃者の数は不明。20名ほどだったらしい。襲撃者の死者は1名、捕縛された重軽傷者は3名、多くは襲撃失敗と同時に逃走したため正確な数はわからないらしい。


 取り調べの結果は判然としなかった。戦が無くなり食い詰めた浪人達が集められ、朝廷の権威を貶める先鋒である一条房基を誅すべしと教え込まれていた。潜伏先は尾張商人の家で、事件後に一家もろとも殺害されていた。織田政権のお膝元で大っぴらに諜報活動をするわけにもいかず引き籠っていたところ、官邸から呼び出しがかかった。


 在京の転生者集団が難しい顔をして揃っていた。

「今回の黒幕は織田家の家臣だと判明した」

 織田信長が切り出してきた。こちらの調査と合致する。


「丹羽長秀の家臣の一人が上書を残して自害した。上書には新しい政権は武家政権であり、房基公は公家を取りまとめる危険分子であり、西国同盟の黒幕でもあるから排除すべきだと書いてあった。丹羽は無関係であるとのことだが、丹羽の周辺には同様の考えを持つ者が集まっている。複数の尾張商人も後援している。名古屋京で尾張商人が本来享受するはずだった富の多くが、四国商人に掠め取られていると考えている者どもと結びついたようだ」


 裏の人間を動かさなくとも情報は手に入る。人力車事業は独占事業だ。製造販売だけでなく、車夫の育成と手配も含まれる。自らが諜報活動している認識はなくとも、百人を超える目と耳が張り巡らされていた。


『私が名古屋を離れたほうが良いな』


「わかってくれるか。家臣の不始末を理由に丹羽の役職は解任したが、火種は燻ったままだ。一時的にでも房基公を明確に政権から遠ざけたい」


『私も事を急ぎ過ぎたようだ。武家の窮状よりも公家の窮状に肩入れし過ぎたと見られたように思う。これ以上の身内の処分はしないほうが良いだろう。考えが異なっても戦いでなく、話し合いで解決を探る。意見を出し合える状況を整えるのは難しいだろうが、少しずつでも変えていくべきだろう』


「西国同盟や公家を刺激したくはない。名古屋追放と思われないようにしたいが、何か名分はないだろうか?」


『・・・・上皇の四国行幸を認めて欲しい。これまで京を出たことのない上皇と帝が名古屋に移った。上皇は帝に譲位し、外遊を望まれている。今は帝の伊勢行幸の準備に忙しいが、それが終わったら上皇を土佐にお呼びしたい。その準備のために名古屋を離れるならば追放とは思われないだろう』


「四国行幸か」


『前例がない話ではない。愛媛の道後温泉に天皇が行幸されたことが万葉集にも詠まれている』


「今回の事件直後に四国に籠られると戦の準備と思われかねない。四国行幸は上皇が望まれるならば認めるが、他に案はないだろうか?」


『・・・・教育大学の設立は認められたが、京に作るのはどうだろうか。今進めている名古屋の大学は武家の子弟を対象とし、京に作るのは公家の子弟を対象にする。私はこれまでいろいろな大学の設立に東奔西走してきたから、大学を作るために京に移るならば自然だろう』


 譜代の家臣達あっての政権である。両成敗の形を取るのは致し方なかった。政争よりも教育現場や散逸する前の膨大な資料が京で待っているならばそれがいい。

中大兄皇子(天智天皇)とその母斉明天皇(女性天皇)が道後温泉に行幸したのは100年近く前(661年)の話


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― 新着の感想 ―
この時代の処罰は連座制が基本なので、信長が丹羽長秀を処刑しなくても、長秀が配下が前太政大臣を襲撃した責任を取って切腹するのが当然で、おめおめと生き残るのは武士の恥だと思いますよ。とても違和感を感じます…
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