299 譲位と改暦
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次回更新は04/26(日)
(1582 一条房基(60))
行幸が行われてから3年かけて人の移動がほぼ終わり、118年ぶりの譲位が行われ、帝が上皇になった。元より政治は朝廷のものではなくなっており、院政が行われることはなかった。権威はあるが権力はない、それでも国をまとめるためには権威が必要だった。
天皇が崩御されることなく践祚が行われ、即位の礼、大嘗祭が行われた。イベントラッシュである。行幸直後から3年かけて準備が進められたのだ。莫大な金品が動いた。大名、寺社、商家がこぞって朝廷に献金した。保管場所もなく、運用する伝手もない朝廷は幕府に丸投げをした。保管場所の整備、整理、管理、警備など幕府の負担は大きかったが、名古屋京建設の莫大な費用に充てられた。朝廷側からの監視監督部署も創られた。遷都と譲位は朝廷と旧幕府との共同作業であり、幕府が無くなり新しい政府に引き継がれても、多くの行事とそれに伴う膨大な作業が両者の溝を埋めることになった。
私は内閣総理大臣が誕生した後も朝廷と新政府間の調整に動いていたが、譲位に合わせてやっと太政大臣を辞することができた。同時に一条内基も関白を辞した。次の関白は二条晴良の子二条豊実(昭実)がなった。
新しい帝の誕生に合わせて改暦が行われた。新元号は「平成」。天正から平成へと変わる。天皇一代に元号一つとなる「一世一元制」が定められるとともに、皇暦が基準と定められた。皇暦は初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法であり、皇暦元年は西暦の紀元前660年である。西暦2000年は皇暦2660年となる。
グレゴリオ暦はユリウス暦1582年10月4日の翌日が1582年10月15日となり、この月だけ10日少ない。10年以上の会議の末に発布されたものであり、半年以上経って実施されたのが1582年である。日本では遷都計画とともに議論が行われたが、グレゴリオ暦の改暦委員会の資料も利用し、グレゴリオ暦前提で会議が主導され、西欧に比べれば驚くほど短時間で決定された。結局、日本では2242(1582)年の12月を短くして2243(1583)年1月1日を迎えることに決まった。
広く頒布されたカレンダーは6日毎に段を変え、七曜ではなく(大安や仏滅などの)六曜が表記された。政府と朝廷との調整の中で、宮中で行われる行事は陰暦で行われることになったため、カレンダーには陰暦(旧暦)も表記された。一般庶民の正月も春節と同じ陰暦で行われるだろう。会計年度は1月から、学校年度(新学期開始時期)は9月からと定められた。未成年の就学は義務づけられておらず、寺子屋などでの学びはいつでも受け入れている。あくまで高等教育が行われる大学での学校年度が9月となった。これらは将来的に西欧文化との融和を意識して、転生者達が主導して決められたものであった。学校年度に関しては降雪時期の受験や酷暑時期の学習を避けるべきとの意見が基となった。
各地で様々な暦が使われていた。大きく言えば西と東では暦が違っていたのだ。平成暦と呼ばれる新しい暦のカレンダーを大量に作成させた。紙の生産が行われている所には版木を送って自由に作成できるようにしたし、木製の万年カレンダーを各地に贈り、類似品を真似できるようにした。直接的に利益を得るのではなく、皆が儲けられるようにすることで平成暦の浸透を図った。
1582年は本能寺の変が起きた年です。もうみんな壮年期です。
日本のグレゴリオ暦導入では明治5年12月3日が明治6年1月1日になりました。
一条内基の関白就任が早いのは一条房基が存命のため、内基が土佐へ下向しなかったことに起因します。二条昭実の昭の字は誕生しなかった足利義昭から来ていますので大寧寺で亡くなった二条晴良の弟の名から一字いただきました。
今回、平成天皇となった正親町天皇の息子誠仁親王は1586年没。史実では誠仁親王の第一王子が正親町天皇の跡を継いで後陽成天皇となっています。
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