214 椿姫と蜜柑姫
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次回更新は09/22(日)
(1558 一条房基(36))
息子房平の婚礼後、2人の娘が相次いで嫁いだ。長女である椿姫の相手は西園寺実久。京西園寺家、左大臣西園寺公朝の甥。西園寺家の家業の1つに琵琶があり、西園寺公朝の弟の一人が土佐に下向していたことが縁となった。椿姫は幼少から私の奏でる琵琶が好きであった。ロックやフォークに慣れ親しんでいた。電子楽器でなくともロックはロック。琉球から三線が伝わり、土佐で三味線が開発された。私が琵琶から三味線に乗り換えたことで椿姫は三味線の名手となっていった。その椿姫の奏でるロックに惚れ込んだのが西園寺実雄とその子実久だった。息子房平同様に帝崩御で保留としていた婚礼を行った。西園寺実久は父親と共に別家を興すことにした。土佐西園寺家の創設である。
土佐には京から下向している公家も多く、南蛮渡来の楽器がいくつも伝わり、新しいメロディーの溢れる場所だった。パトロンとして多くの演奏家を援助し、楽器類の補修・製造の職人を集め、演奏場所の提供をした。楽器類の一部は豪華な装飾を施して輸出品の一つにして原資の一部とした。楽器の博物館を建てることで、土佐西園寺家に役職と俸禄を与えた。娘を遠くにやらずに済むと思えば安い出費である。
二女である蜜柑姫の相手は土佐光吉(玄二)。土佐光茂の弟子の一人だった。土佐光茂は宮中絵所預の当主(土佐派12世)である。源氏人形館に飾る源氏絵巻製作プロジェクトの中心人物でもある。土佐家には人形館ができる前から多くの援助をしていた。大和絵の技法を伝承する家であり、装丁や染料、素材の収集管理などで配下には多くの職人たちが下請けに存在しており、それらの保護育成に多額の資金をつぎ込み、一部の工房は土佐の地に誘致していた。土佐に立ち上げた海外向けの屏風絵製作工房の指導に土佐光茂の弟子達を招いた。多くの南蛮人が行き交い、見たことのない服飾や工芸品、美術品が見聞できる土佐から離れられなくなった一人が玄二だった。絵画が好きであった蜜柑姫は源氏絵巻プロジェクトに関わっており、縁あって恋仲になってしまった。玄二には土佐光茂の養子となってもらい、土佐光吉と改名。土佐家の別家を立てる形を取った。
土佐家には宿毛に建てる工芸博物館の役職と俸禄を与えた。ただ源氏絵巻製作プロジェクトは京で進行しているため、一年の大半は京で過ごすことになるため京にも屋敷と工房を建てる。蜜柑姫は日々の生活を記した絵を京から送ってくれるようになった。
2人の娘ともに武家の娘として育てたことはなく、最初から政略結婚させるつもりはなかった。いつまでも側にいて、嫁に行かなくてもよいと思っていたのに相手を見つけてしまった。婚礼はどちらも土佐中村で親族だけで厳かに行われた。華美にならぬようにしたことを父や母は不満に思ったようだが、嫡子の婚礼のように内外に広く知らしめる必要はない。上が質素に行えば家臣や民は派手に行うことを控える心理が働く。婚礼に金をかけるのではなく、その後の生活に必要なものにこそ後押しをすべきだと説得した。ただ御所のある中村は芸事と音楽の街になっていることもあって街中が音楽と踊りに溢れた。音楽家たちはいくつもの新しい祝いの曲を、工芸家たちは新しい工芸品をそれぞれ献上してくれた。
婚礼ラッシュで三味線が普及の兆しをみせていた。琉球のように蛇の皮を使うのではなくて犬や猫の皮が使われた。皮を取るための殺生を禁止したため、量産はできていない。代わりに市井には箱三線が出回り始めていた。他には工芸品として箪笥が誕生した。これまで衣服は竹製の行李、木製の長持や櫃など箱状の物に収納していた。これは衣類を大量に所持することはなく、持ち運びしやすかったからだ。少しずつ豊かになってきたからこその変化の一つだといえた。花嫁道具として箪笥を作ることが広がることとなった。
史実では2人の娘はそれぞれ安芸国虎正室と伊東義益正室でした。
西園寺実久は架空の人物。琵琶が家業の西園寺家から西園寺実雄をチョイスしました。
土佐光茂の嫡子光元は1569年8月木下藤吉郎の但馬攻めで戦死。弟子の土佐光吉が土佐派を継承、その孫が土佐家を再興。この話では土佐派直系が絶えることなく進みます。
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