210 帝の崩御
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次回更新は08/25(日)
(1557 一条房基(35))
京から帝(後奈良天皇)崩御の訃報が届いた。60歳だったという。昨年あたりから体調が思わしくなく、土佐の医員も診察に招かれたこともあった。
京から戻ってきていた嫡男房平を名代として京へ送る。房平は元服後に京で出仕していた(186話)。在京中に京一条家12代当主であった兼冬が急逝した。兼冬の弟である内基は兄と19歳も離れており幼く、叔父である11代の房通を支えるために帰国を延ばした。昨年帰国していたが、最近の京事情に明るい点を踏まえて再び京へ行くことになった。父房冬も上洛を強く希望したため同道した。父は崩御された帝の1つ年下であり、思うところがあったのだろう。父と息子を送ったことで、私は土佐に残った。
京から伝え聞いた体を取って各地に文を送った。朝廷や幕府からの正式な知らせよりも早く全国へ送られる。直接つきあいの無い守護や寺社にも送る。中央とのパイプのない遠隔地だと、1年以上知らないままということが多い。知らせるだけで恩義を感じ、一目置いて貰える。味方でなくとも敵にまわらず中立でいてくれる可能性を上げているのだと思っている。情報だけでなく地方の種子が手に入るし、やり取りした手紙は貴重な歴史資料となる。
大内義房と毛利隆元へ送った文には、連名で大喪の儀の費用の献納をすることを知らせた。内訳の配分については後日相談することとした。貧窮していた朝廷は先々代の帝(後土御門天皇)の葬儀は40日以上遺体が放置されていたという。大きな儀式であり、多額の費用がかかる。京一条・土佐一条両家の御用商人達に立て替えさせて一時金を届けさせる指示は、崩御の知らせが届いた直後に済ませておいた。
準備を進めていた石見銀山の御料所としての献納は、新しい帝(正親町天皇)の即位後にすることを提案した。亡くなった帝は10年ほど即位式が出来ずにいた。その前の帝(後柏原天皇)は21年も即位式が出来ずにいた。葬儀はしないわけにはいかないが、即位式は後回しにされることが続いていたのだ。即位料・御服費用も連名で献納する。額については朝廷の担当部署と要相談になる。まずは葬儀を済ませてからだ。
知らせを伝えるだけだが、長い旅になる。野宿することも多く、危険な旅になるため5人1組1チーム。内陸深く進むチームには犬も加えた。負傷や病気をする者が出た場合、無理をせず引き返すよう厳命した。彼らには小さな仏像を大量に持たせた。輸出用として木地師や仏師の手習いに作らせていたものだ。金箔を貼ったり、染料で色付けなどを行っていた。旅先の路銀として使わせるために持たせたのだ。物々交換が主流で金銭が通用しない地域が多い。村々の長老宅や寺社などに泊まらせてもらい、食料を分けてもらう対価として仏像を贈る。大事そうに特別感を出して渡せば、悪い扱いはされないはずだ。帝崩御の知らせの後は新しい帝の即位についての知らせを送ることになる。無理を通した旅をさせるわけにはいかない。守護だけでなく、各地の一之宮にも伝えるために数十チームを編成。関東、東北を東廻りで巡るチームは船で港に立ち寄る毎に1チームずつ降ろしていく。西廻りは周防から日本海側に抜ける船と日向から薩摩、肥後、肥前、対馬を巡り折り返す船に分かれる。九州上陸するチームは、守護だけでなく守護代へも伝達させることにしている。
ここまでするメリットは商圏拡大のため。南蛮船(キャラック船)が製造され、東廻りが比較的に安全に航行できる目処がたったのが大きい。今回手を伸ばすことで広範囲な沿岸図を作ることができる。安定した航路が確立できれば商圏が広がる。土佐製の商品を全国に売り込めるようになる。各地の小さな個人商人は巨大資本の傘下に組み入れられて支店化され、その地域では強大な力を持つようになる。守護や寺社に食い込めば情報は日常業務として収集されるようになっていく。商圏が密接に繋がっていけば、長さ、重さ、量など微妙に不統一な度量衡も統一されていく。現場の不便や負担が少なくなれば、経済活動はより活発化されていく。土佐は資源の乏しい国だ。資源を輸入して、加工して輸出する。未来の日本の縮図モデルに近い。原資はあるのだ。100年先の子孫のための投資だと考えれば安いものだ。
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