陰謀・5
マルセルは呆然としていた。
腕の中に、ぐったりとした少女がいる。腹が朱に染まっているが、これは血ではない。毒入りの紅茶を自らこぼしたのだ。床に撒いてもよかったのに、彼女はそうした。
侍女は何者かに命令されて、毒入り紅茶を運んだのだろう。
肉塊となった今では、それを問い質すこともできない。騒ぎを聞きつけた騎士団が、そのうちに何もかもを片づける。執務室も窓を修復され、元通りの美しさを取り戻すだろう。
(でも)
マルセルは、少女を見つめた。
金の髪の下から、漆黒が見えている。思わず見入ってしまいそうなほど、美しい色だった。今まで、こんな深い色を見たことがない。触れたら、冷たいのだろうか。どんな香りがするのだろうか。溶けて、なくなってしまわないだろうか。
夜の闇はどちらかといえば青みがかって、こんなに黒くない。
インクは確かに黒いが、こんな風に輝いてはいない。黄金のように眩しくはなくて、吸い込まれそうな引力を持っている。
「きみは、誰?」
気絶してしまった少女の頬に触れる。温かく、柔らかかった。
姉・ミリエランダではない。それは少し前から知っていた。何のために入れ替わっているのかは知らないが、マルセルに向けられるのはいつも優しい目だった。だから、マルセルは彼女が悪い人間ではないと分かっていた。
「王女!」
「ミリエランダ様っ」
マルセルは慌てて、金の髪をかぶせた。
今、彼女が黒髪だと知られるわけにはいかない。そうすれば、たちまち牢獄へ入れられてしまうだろう。王族を騙るのは重罪だし、今のシクリアはかつてないほどに揺れている。騎士団が血眼で探している犯人だと疑われでもしたら、公開処刑もあり得る。
(そんなのは、ダメだ)
ぎゅっとしがみつくように、少女を抱きしめた。
マルセルは、王女のふりをした彼女にしか会っていない。彼女自身の言葉でどんな会話をするのか、まだ知らない。瞳だって、本当は何色をしているのか分からない。きっと素敵なんだろうということは、自信を持って言える。
何一つとして分からないまま、二度と会えなくなるのは嫌だ。
「ま、窓が割れて……!」
「マルセル様? 何故、ここに」
女と男の声だ。
片方はストラルド書記官、姉の幼馴染にして最も信頼する臣下だ。女の方は王女付きの侍女だろう。この部屋に入ってくるくらいだから、どちらも少女について何かしら知っている可能性は高い。特にストラルドは間違いなく、マルセルが知らない事実を知っている。
ちり、と胸が焼かれた。
(あーあ、ヤな感じ)
表面上は泣きそうな子供を装いつつ、内心では舌打ちをした。
「ストラルド……」
名を呼ぶマルセルの前に、青年は膝を折る。
「殿下…………王女を、放していただけますか。今すぐに、安全な場所にお連れしなければなりません」
「安全な場所? ぼくも行っていい?」
「申し訳ありません、殿下」
断るか、この次期国王たる人間の言葉を。
だがこれで、マルセルは確信を得た。ストラルドは王女が替え玉であることを知っている。頭脳労働中心の文官風情が王女を運ぶと言うのだから、部外者に知られたら困ることがありますと白状しているようなものだ。
マルセルは、ストラルドが細い目を更に細めた理由に気付かなかった。
「殿下」
「いやだ」
「この状況です。王女がお怪我をしておられる可能性があります。ドレスの汚れも気になります。ここで目覚めたとしても、王女に落ち着いていただけるとは思えません」
王女、王女としつこい男だ。
いっそ少女の髪を見た、と言ってしまおうか。この国において、黒髪は汚い色だとされる。黒ければ黒いほど悪く、黒目であれば最悪だ。だから奴隷しか、そういう色は持っていない。生まれた子供が黒髪だったら染めるか、殺す。
それほどに徹底している。
(殺されるくらいなら、ぼくがもらう)
微笑んで、頭を撫でてくれた。怪我のせいで抱きしめられないから、背中にそっと手を回してくれた。引き寄せられたふりをして顔を近づけたら、びっくりして目が真ん丸だった。
一つずつの仕草が、マルセルを癒やした。
魅了された。
さっさと国王に就任できたなら、真っ先にくだらない慣習をなくしてやる。そうしたら、この少女は牢に入れられることもない。父王は貴族でもない女に子を産ませたのだから、マルセルが黒髪の少女を手に入れられない理由はない。
「ぼくも、ついていく」
しっかりと少女を抱きしめて宣言すると、ストラルドは諦めたようだ。
静かに溜息を吐き、立ち上がった。
最初にやってきた侍女が指示をしたのか、ガラスを片づけるための人員が集まっている。よく見れば、空っぽの紅茶も粉々だった。あれでは毒が入っていた証拠にはならないだろう。
しかし少女は毒を呷らなかった。
(仕方ない。今は、それで良しとしておくか)
犯人は大体予想がつく。
そもそもストラルドたちがモタモタしていたから、王女の毒殺にまで波及したのだ。事態をさっさと収拾するのが彼らの仕事だろうに。
「マレーネ」
「はい、ストラルド様」
「王女を自室へお連れします。以後、お部屋には誰も近づけさせないでください」
「かしこまりました」
マレーネと呼ばれた侍女が再び作業に戻り、ストラルドはこちらを向いた。これでいいか、と目が訊ねている。
「王女を、こちらに」
つくづく子供の体が忌々しい。さっさと成長したい。
マルセルが離れるのを待って、ストラルドの長い腕が少女を抱えた。ふわりとまるで重さなどないかのように、高い所まで連れていかれる。だらりと下がった手は、透き通るように白かった。実際に触れて、まだ温かいのを確かめる。
なんとなく、放してしまうのが勿体なかった。
「殿下」
びくりと体が勝手に反応し、指の間からすり抜けていくぬくもり。
ストラルドの背が向けられて、少女との距離が遠のいた。わざとそうしたのなら、マルセルに対する挑戦と受け取ってもいい。いや、子供相手だからと相手にもしていないのだ。
ミリエランダに懐いているのは、公然の事実。
(なんだ、それを利用すればいい)
子供だから通じない理屈もあれば、子供だから通じる屁理屈もある。
内心でほくそ笑んで、後をついていこうとした時だった。
「悪いが。その娘を、こちらへ渡してもらおうか」
険しい顔をした大人たちが数人、執務室の入り口で壁を作っていた。




