王女ミリエランダ・3
指が動いて、石を引っ掻く。
爪を立てるほどの力は残っていないから、石同士の合わせ目をなぞっただけにすぎない。ぺったりと手を浸せば、特有の冷たさが肌を通じて感じられた。
(きもち、いい)
地下牢に入れられて、何日経ったのだろう。真っ暗だから、何も分からない。牢番は毎日様子を見に来ると言っていたから、少なくとも二日以上は過ごした。食事は、もらえた記憶がない。食べたような気もするし、食べられなかった気もする。
無性に、眠かった。
流し続けた涙は枯れて、アレックスの血も乾いて、次に干乾びていくのは自分かもしれなかった。結局、ここが何処かも分からないままに終わるのか。それとも、まだ夢の続きなのだろうか。考えようにも、頭はどんどん靄がかっていく。
「おい!」
鉄格子が揺れた。
この音を知っている。初めてここへ来た時、通路を歩く度に煩く鳴っていた。他の囚人たちが騒いでいるのだと、誰かが言っていた。少しも気にならなかった音が、今は何度も繰り返される。
「ん」
「よし、生きてんな。って、死んでないだけか。とりあえず、医者だ。あぁ? 当たり前だろうが、早くしやがれ!」
「うるさ、い」
「ああ、良かったな。そいつは生きてる証拠だ。おい、分かってんだろうな?!」
鉄格子の音だけでも喧しいのに、怒鳴り声は頭に響いた。
良い感じに眠れそうだったのが次第に覚醒していく。無理矢理目覚めさせられる不快感に、柚子は顔をしかめた。もう何もかもどうでもいいのだ。アレックスはもういない。謝りたくても、その相手は死んでしまった。
「放って、おいて」
意識がはっきりとしていくのに、体は相変わらず動かない。喋るのもひどく億劫で、頭上で鳴り響く大音量が早く止まればいいと願った。
完全に眠りへ堕ちることができれば、全て終わる。
それはきっと、間違いない。
「死ぬな!!」
一際大きな声が、牢獄を揺るがした。
「ミアが、ミリエランダがお前に会いたがってる。俺はお前を、あいつに会わせなきゃなんねえんだっ」
ミリエランダ。
柚子は数度瞬きをした。実際は一回きりだったかもしれないが、喧しい男が口にした名前は憶えがある。そう、アレックスが最後に言っていた。
城へ行き、ミリエランダに会えと。
「無理よ」
尽きたと思った涙が、また溢れ出す。
ミリエランダはアレックスの娘だ。父親の死ぬ原因を作った人間のことを、よく思っているはずがない。第一、どんな顔をすればいい。こみ上げる申し訳なさで、胸が詰まる。急に呼吸がしづらくなって、何度か咳き込んだ。
「まずいな。牢番の奴、まだ戻ってこねえのか。もし医者を連れてこなかったら、牢に放り込んでやる」
「ろう、ばんの…………人」
鍵マニアの彼だろうか。
語り始めると長いが、悪い人ではない。こんなことで牢屋行にされるなんて、ひどい。止めなくては、と柚子は鉛のような四肢に力を込めた。
「あ」
浮いたと思った直後、べしゃりと潰れる。
「何やってんだ。大人しくしてろ! 今助けてやるから」
「いら、な」
「言っておくが、死ぬことだけは許さねえからな。俺じゃなくて、ミリエランダが許可しない。だから、お前は生きるしかない。その心に、ほんの少しでも良心があるなら」
腹が立つ。
石を撫でるだけだった指が、とうとう爪を立てた。引っ掻いても音らしい音は聞こえなかったが、柚子は怒っていた。ふつふつと煮えてくるものが、痛みを思い出させる。悔しい、哀しい、辛い。腹が立つ。心のどこかでいつも繰り返していた「どうして」が今頃になって、強くなった。
どうして、ここまで言われなきゃならない。
(わたしは来たくて、この世界に来たわけじゃない!)
褒めてくれたのはアレックスだけだった。
黒髪黒目の外見は、生まれてから一度も変えたことがない。両親から譲り受けたものだ。そりゃあ美形だとか、可愛いとか自分で思ったことはない。だが、少なくとも醜くはない。
勝手な言い分ばかり押し付けて、痛めつけられて、挙句の果てに牢獄生活。
「ふざけんじゃ、ないわよ」
何度も崩れ落ちながら、柚子は半身を起こした。
蹴られ、殴られた箇所が熱を持っている。手当らしい手当もしていないから、傷が悪化しているかもしれなかった。骨もどうかなっている可能性もあったが、医学知識のない柚子には判別がつかない。
とにかく激情が、体を突き動かしていた。
「ひっ、う……動いてる!」
「生きてんだから、動くに決まってんだろ。で、あんたが医者?」
「は、話が違う!! 死にかけて動けないから、何とかしろと言われたんだぞ私は」
「見ての通り、ちゃんと死にかけてる。放っときゃあ、そのうち動かなくなる」
勝手なことを。
怯えた声に応じる男は、どこまでも失礼だった。ミリエランダと無関係ではなさそうだが、こんなのと知り合いなのか。少しだけ、落胆した。
「こ、こっちを睨んだぞ」
「おっ、挑発が効いたか? 自慢じゃねえが、こういうのだけは得意なんだぜ」
「別の人間に頼んでくれ。私は化け物の治療など、やりたくない!」
「へえ」
声のトーンが落ちる。
前方のぼんやりとした灯が、複数の人間がいることを示した。はっきりと見えるのは足くらいで、そこそこ良質の靴を履いている。ぴかぴかだ。
そして、重そうな靴がぴかぴかな方を踏みつけた。途端に悲鳴が上がる。
「あんたに二つの選択肢をくれてやる」
「あ、足…………あしっ」
「選べ。死なない程度に怪我をしてから、こいつの治療をするか。五体満足で、こいつの治療をするか」
「痛い、痛いっ。足を、どけてくれえっ」
「うるせえ、よ!」
甲高い悲鳴が、地下の牢獄に反響した。