第1話 右議政の令嬢ヨム・ソユン
9歳の誕生日を迎えたばかりのヨム・ソユンは間違いなく裕福なお嬢様だった。
貴族格の両班の家に生まれ、父親は武官を統括する軍事大臣、ヨム右議政。屋敷も広く使用人も大勢いて何不自由ない生活を送っている。
一人娘であるソユン自身もまた毎日を楽しいと感じていたが唯一、筆頭大臣、宰相ともいえるヒョン領議政の屋敷に父親と赴き、その令息で10歳のヒョン・ミンジュンと一緒に遊ぶ時だけは、幼心に楽しくない感情を覚えた。
今、目の前にいるミンジュンは許嫁というものらしい。
ソユンは許嫁という言葉は分からなかったが目の前にいるミンジュンの事が好きにはなれないことだけは分かっていた。
それでも救いだったのは、文官を統括する領議政に次ぐ大臣、ソル左議政の令嬢で同い年の友達ソル・ジアンが一緒だということだった。
父親がここに来る理由は老論派の会合というものらしく領議政の屋敷に赴く度にジアンはいて友達になったのだ。
そのジアンがミンジュンに近寄った。
「ねぇ、ミンジュン、ままごとしようよ」
だが、ミンジュンはクマのぬいぐるみを手にソユンに話しかける。
「ねぇ、ソユン、これあげる」
ソユンはちっとも嬉しくなかった。
「いらない⋯⋯」
その言葉に不満だったのかミンジュンは荒々しくクマのぬいぐるみをソユンに突き出し同じ言葉を繰り返した。
「ねぇ、ソユン、これあげるってば!」
泣き出しそうなソユンを見てかジアンがソユンとミンジュンとの間に割って入る。
「私、それ欲しい! ちょうだい!」
ミンジュンはまるでその言葉が聞こえなかったようにジアンを押しのけソユンに近寄った。
「ソユン、これあげる⋯⋯」
その時、部屋の引き戸が開き男の子が入ってきたかと思うとミンジュンの前に立ち塞がった。ソユンの従者で12歳のユ・ドニョンだ。
「おやめください⋯⋯お嬢様が嫌がっておられます」
その瞬間、ミンジュンは金切り声を上げた。
「ぼ、ぼくは両班だぞー!!」
その声に屋敷の侍女が急いで入ってきた。
「両班であられるミンジュン様に対してなんと無礼な! お前の身分は良人でしょう! 土下座して謝りなさい!!」
ソユンが恐る恐る言葉を発する。
「あ、あの⋯⋯」
ドニョンはソユンを手で制しソユンに笑顔を向ける。
「いいんです、お嬢様、土下座します」
ドニョンはそう言うと神妙な面持ちで振り返りミンジュンに土下座した。
「ミンジュン様、申し訳ありませんでした⋯⋯」
◇
次の日の朝、ソユンは屋敷内の騒がしい声に目が覚めた。
(なんだろう⋯⋯)
引き戸が開き侍女が目を見開いたまま近づいてくる。
「お嬢様⋯⋯旦那様と奥様が⋯⋯」
「どうしたの?」
「寝所でお亡くなりになっておられます⋯⋯」
――医者の見立ては両親とも急性心筋梗塞だった。
ソユンは両親に縋って泣きじゃくる。
「アボジ⋯⋯オモニ⋯⋯」
◇
それからすぐ悪い親戚に騙され財産を奪われたソユンの家はあっという間に没落する。
ソユンはドニョンと共に家を追い出され二人は路上生活者となった。
――しくしくと泣いているソユンにドニョンが優しく声をかける。
「お嬢様、山で食べ物を取って参ります」
そう言って山に向かったドニョンは何日経っても戻って来ずソユンは路上に倒れたまま死にかけていた。
(アボジ⋯⋯オモニ⋯⋯)
涙が頬を伝い地面に向かって流れ落ちていく――。
その時、一人の女性が従者と共にソユンに近づいてきた。女性は前合わせのある短い長袖の上衣に胸下から大きく膨らむ長いスカートを纏っている。鮮やかな色彩だ。
それは王都の大商人ハルだった。ハルはソユンに近づきしゃがむと優しくソユンの背中に腕を回しソユンの上半身を起こした。まじまじとソユンの顔を見るハル。
「右議政様のお嬢様⋯⋯」
ハルは従者の方を向いた。
「握り飯をこの子に」
「はい」
従者は握り飯を取りだしソユンに差し出した。
「さぁ、食え!」
ソユンは握り飯を従者から両手で奪い取るようにもぎ取ると、一心不乱に食べた。後から後から涙が溢れてくる。
涙でぐちゃぐちゃになりながら食べ終わったソユンを見てハルは言った。
「あなたの家の噂は聞いています。どうでしょう、先程王宮で、針房尚宮様から近々女官見習いの募集があることをお聞きしました。あなたは仮にも両班。きっと受かると思いますよ。受けてみますか?」
ソユンに残された道など無い事はソユン自身痛いほど感じていた。ハルに上目遣いでコクンと頷くソユン。
「そうですか、分かりました。では、私の屋敷に参りましょう」
そう言って大商人ハルは自ら埃と泥にまみれたソユンを抱き抱えると従者と共に屋敷に向かったのであった⋯⋯。




