春の風
事務所のPC-9821V10とPC-9821V13は古い機械だ。どちらも移動するたびにメモリが追加され、去年のメモリ安で最大の128MBに達した。Windows 95 のままだけれどよく働いている。V10は雑用係としてちょっとした調べ物、営業部の予定管理、ファイル置き場などに使われている。V13はプリントサーバー兼FAXサーバーだ。
V13は昨夜、比野文具通信を自動送信していた。完了後は待ち受けモードになってFAXを受信。そのFAXを処理するのは野原さんの役目。今朝届いているのは6件だ。
FAX受信データはまいと~くFAXの独自形式で保存されている。これをビューワーで確認しながらBMPファイルで保存する。変換したものは IBM ThinkPad 560E に移動して読みながら受注を入力する。FAXDMの返信で来たご注文はすべて顧客番号と商品番号が入っているので入力は簡単だ。余白に別のご注文やメッセージを書き込んでくるお客様がいるので確認を忘れない。登録ボタンを押すと登録完了の表示後に画面が一新され、新しい注文番号が左上の黄色のフィールドに採番される。
手を動かしていると他の人たちが続々と出勤してくる。係長の美香さん。客先に直行の裕太さん以外の営業部と制作部。山下さんは来るなり忙しそうに飛び出していった。それから斉藤さんと山代君の経営管理部、制作部、工場部が打刻して自分の部署に向かう。
入力が終わったらV10内の入力済みフォルダに移動。あとは営業部の領分だ。上位製品のまいと〜くFAX Server なら自動的にファイルを変換して移動することも可能だが手を出せる価格ではないと聞いている。
始業時間ぎりぎりで社長がやって来て、みなが立ち上がって並んだ。
「おはようございます。いやあ、今朝は冷え込みましたね。目が覚めて思わずコートの襟を立てようとしたらパジャマでした。今週は天気が崩れる日もあるようですが、雨の日こそ、会社の中は明るく活気ある雰囲気にしていきたいものです。今日もがんばっていきましょう」
社長は適当なスピーチをすませるとネスカフェと日経新聞を手に自席に向かった。
朝礼後は受注一覧を確認。営業が配送する品物が倉庫から出るように手配しなければならない。受注データを選択してCSVを書き出す。それを帳票印刷用のExcelに渡して印刷開始。V13を経由して EPSON LP-8300 に納品書と受領書を出力させる。CSVはそのまま共有フォルダで工場に渡すと出荷指示書になる。印刷された紙は営業さんに渡すか、誰もいなければ工場に箱で送る。今日は金山さんが待っていてくれた。
「おはようございまーす」
野原さんが掃除当番をこなしていると10時になり、チャコールグレーのマタニティ用のスラックスにハイネック、コートの暖かい格好の美智子さんが出勤してきた。冷たい風がいっしょに入り込んできた。
「おはようございます」
「FAXの注文はどれくらい来てたー」
「6件です。そのうち1件はP-NETです」
「そんなもんか。裕太さんは気合を入れてたけど新商品でもセールでもないしねー」
桜のつぼみも膨らみ、新学期の準備にお忙しい時期とお喜び申し上げます。店頭では春商戦の真っ只中かと存じます。
今回は【夏休み向けの観察・実習帳】を早期ご案内いたします。
美智子さんのVS26Dはすでに起動している。AL-Mail32で受信をすると未読は8件。公式サイトもがんばっている。
「じゃあ今日はいっしょにやるよ」
デスクトップのHTMLファイルを開くとテキストエリアが上下二段で表示される。上の段に注文メールの内容をそのままペースト、お支払い方法を選択して変換ボタンを押すと下の段に返信内容が表示される。これをコピーしてAL-Mail32で返信。かおりちゃんが楽々市場で使っているJavaScriptツールと同じものでこっちが元祖だ。FAXのご注文と同様に受注入力をして、メールを入力済みフォルダに移動。欠品アラートが出たらお客様にご連絡することになっているが、数量限定品以外は一度も出たことはなかった。在庫管理が優秀だ。
「社長と島田君がサンクスメールの自動化をたくらんでるみたいね。こそこそ実験してる」
「そんなことができるんですか」
「わかんないけど、私がいるうちにはできないんじゃないかな。IE5にもアップグレードしないようにって言われてるからこれも見られない。私も自分のパソコン買おうかな。産休中はきっと暇だし」
そんな感じで仕事をしている間にもご注文のお電話が来る。
「お世話になっております。比野文具です」
電話を受けながら ThinkPad 560E に入力していく。ただし美智子さんがあっちで入力中なので、こちらは通常の入力画面とは違う未確定の受注という状態になる。ここで入力しても在庫引き当ては行われず、あとで確定するときに理論在庫が引かれるのだ。
ピーヒョルルザザザ。V13もFAX受信を始めた。
お昼は制作部といっしょだった。かおりちゃんはコンビニのたまごサンドとにらめっこをしている。真子さんはタッパーにごはんと生姜焼きを詰めてきたのを2階の電子レンジで温めてきた。美智子さんはご飯、鮭の塩焼き、ほうれん草のごま和え。私はドカ弁にウインナー。それに全員に緑茶。美香さんは上で打ち合わせをしながら食べるのだという。
「美智子さんは食欲あるんですね。なんともないんですか」
「とくになんともないよ。人によって違うって先生が言ってた。そういえば体を動かすように言われてたんだけど、午前中は体操できなかったよー」
「食べたらみんなで体操しましょうか」
美智子さんの指導で体操をしていたら社長が降りてきてびっくりしていた。
午後2時は楽々市場の注文締め時間。かおりちゃんが制作用の iMac G3 Tangerine から 98NOTE LaVie に移動する。
AL-Mail32 で楽々市場からのメールを受信。22件中20件がご注文で2件がその他に振り分けられる。デスクトップの「楽々CSV.bat」をダブルクリックすると島田君作の「楽々受注メール一括CSV変換スクリプト ver.4.5」がメールボックスを読んで juchu.csv と item.csv を書き出した。続けて FileMaker Pro 4.0J を起動して楽々市場.fp3 を開く。グレーの画面には大きなボタンがふたつだけ。JUCHUをクリックするとしばらくしてJUCHU成功と下部に表示された。次にITEMをクリックすると同じようにITEM成功と表示された。
「インポート完了しました」
「はい、ごくろうさま」
かおりちゃんは今日の日付のフォルダを作って使用済みのCSVファイルを放り込んで保存する。美智子さんが受注管理画面を開くと取り込まれた20件の未確定の受注データが並んでいる。これをひとつずつ見ながら確定ボタンを押していくのが美智子さんの仕事。
かおりちゃんはこのあとJavaScriptツールを使ってメールの返信を行う。
「備考欄に質問を書いてる人がいるよ。羽ぼうきは売ってないんですかだって」
「うちにはないよね」
「メール確認しました。ついでですので、私からお返事しておきましょうか」
「はい、お願いします」
公式ウェブサイトは真子ちゃんがウェブマスターで美智子さんが受注担当と決められたが、楽々市場店では分離しきれていない。完成直前で足踏みしているメール一括変換スクリプト ver.5 が完成したら、そのとき公式と楽々の受注業務は統合されることになっている。そうしたら仕事の分担も変わるんだろうなと思った。
午後3時。発送の締め時間。朝と同じく帳票と出荷指示書を工場にまわす。
「未発送は38件です。出力します」
「前は5件で喜んでいたのに増えましたね。発送が心配です」
工場では出荷指示CSVを使って送り状の印刷を行う。郵便で送る場合もあってそれは少ないので手書き。担当の林さんは手が回らなくなってきたので、夕方だけのアルバイトを入れることを検討中だそうだ。
ぽつりぽつりと入ってくる電話やFAXの注文はこれ以降は明日の出荷になる。しかし例外はあって、営業さんが今すぐ持っていくから出してくれと言ったときは最優先。最近はあまりそういうことは起こっていない。
「お問い合わせが来てる。これ野原さんにお願いします。メール転送しますね」
「はい。えーと出荷の確認ですね。わかりましたやってみます」
メールアドレスでお客様を検索して受注記録を探す。昨日の出荷。工場から届けられた送り状の控えをめくっていると伝票の達人の美香さんがこちらを見ていた。
「ありました。ではお客様に送り状番号をお伝えします」
トヤマさんのウェブサイトで送り状番号を検索すると、どこにあっていつ届くかを先月から確認できるようになった。受注と紐付けて端末で検索できるようになったら便利なのだが、社長によればトヤマさんのシステムが年内に更新されるはずなので、仕組みを作っても無駄になってしまうとのこと。今は手作業で伝票を探すしかないのだ。
「お茶にしましょう」
社長がおやつを持って帰社した。だんご3兄弟のシールが貼られている。美香さんが熱いお茶を淹れてくれた。
「性別ってもうわかるんですか」
「先生は知ってるけど聞いてない。生まれるまでわからないほうがおもしろいじゃない」
「そういうものなのか。わかれば事前に名前を考えられるじゃない」
「名前は両方を考えるんですよ」
休憩が終わり、私は電話番をしながら今日の日報を書くことにした。
「それではお先に失礼します」
かおりちゃんが礼儀正しく退勤すると、残っているのは PowerBook 1400c を睨みつける真子ちゃんと受注管理部だけになった。
「今日の日報です。遅くなってすみません」
「はい、ごくろうさま。じゃあ帰ろうか」
商品に関するお問い合わせの電話に応答していて終わるのが遅くなってしまった。美香さんは机を整理しながら待っていてくれたのだ。
「では私たちも帰ります。おつかれさまでした」
「おつかれさまー」
「私も帰ります。おつかれさまでした」
最後に残った美智子さんは思いついたことをWordに書き留めていた。野原さんに引き継ぐことはとくにないのだけれど、こうやってなんでも書き留めておけば役に立つかもしれないから。
ピピピとポケットの中の F501i HYPER が鳴り出した。メール受信中。1通のメールを受信しました。
「帰ろう」
姉の斉藤さんは1時間くらいの残業を毎日している。美智子さんはそれに合わせて10時から19時までフレックスで働くことにした。そして一緒に帰宅する。
もともと自分で買ったPHSを使っていた。だけど地下鉄の駅や通路の一部で圏外になることがあった。妊婦なのに緊急の連絡手段が使えなかったらどうするのと姉が心配してドコモショップに連れていってくれた。出たばかりの最新の携帯電話をおそろいで購入した。ファミリー割引で基本料金が5%割引き、家族間通話だと30%割引き。1年契約でさらに割引。
この端末は電子メールを送れるので、もしもの時は会社にも連絡ができる。もったいないので自分からはメールやインターネットサービスをあまり使っていないが、姉からはよく送ってくる。
妹が前職で怖い目にあって出社できなくなってから、私はたったひとりの家族をずっと心配していた。それで自分の職場に連れていくことにしたのだった。そして初出社の日、社長はこう宣言をした。本日の業務よりExcelによる受注管理を始めます。
あの日からいろんなことが変わった。美智子は美香さんと交代で入力をしたり電話に出たりを普通にこなした。そして高性能な端末と役割を与えられ、役職を与えられた。でもいつの間にか妊娠。あれこれ言うつもりはないけれど、早く気が付いていたらもっとうまく助けられたかもしれない。あの相手の親ときたら、結婚は仕方がないけれど式は恥ずかしいから勘弁してくれなんて。
会社のみんなにはくわしいことは話してないけれど、詮索することなくそっとご祝儀を渡してくれた。
これからどうなるのかな。産前休業は権利であって義務ではない。本人が請求しなければ休まなくても問題ない。だから予定日の6週前の3月30日ではなく、4月1日から取ると本人が決めた。産前産後休業期間は出産手当金が標準報酬日額の60%が健康保険から支給される。非課税なので所得税はかからない。でも健康保険料や厚生年金保険料の支払い免除はない。会社が立替えてくれることになったが私が払っても良いと考えていた。お相手も高給取りではないから苦労しそうだね。でも。
無事に生まれて、幸せになってくれますように。
「春なのに風が冷たいね」
「今日はそんなでもないんじゃない。もうすぐ暖かくなるよ」




