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ケプラーの法則

給湯室では社長と島田君の雑談が続いていた。ふたりとも手にコーヒーを持って話し込む態勢だ。


「Macはどれも問題ない。PC98-NXや新しいWindowsマシンも問題ない。古いNEC機は修正プログラムを適用済み。ThinkPadもだいたい大丈夫」

「倉庫の ThinkPad 500 と ThinkPad 230CS もBIOSの修正を行いました」


ThinkPad 500 の出番はあるのだろうか。なくても備えておくのは当然だ。


「OSはどうなってるの」

「MS-DOS、Windows 3.1、Windows 95、Mac OS は大丈夫です。Windows 98 には問題があります。修正プログラムが出たらすぐ適用します。海外ではもう出ています」

「となると、あとは工場の印刷アプリだけ。あれはトヤマさんがシステムの更新を準備しているらしい。Y2K対応だけってことにはならないはず。Windowsのアプリになるか、もしかしたら連続帳票が廃止されるかもしれない。まだわかんないけどね」


PC-9821Aeがふたたび休眠するのはさびしい気がした。


「オオミヤさんが2000年問題対応報告書を求めてるんでしょう」

「あれは年度内に出してくれってことだから Windows 98 の修正のあとでいいよ。さすがにそこまで時間はかからないでしょう」



営業部では社用車に関する議論が行われていた。


「もうカローラバンの償却は終わってるんだろう、車検は残ってるけど。斉藤さんは軽なら買い替えに賛成だって」

「自動車税は16,000円から4,000円。車検は毎年じゃなくて一年おき。重量税も保険料も高速代も安い。買わない理由がありませんよね。ハイゼットカーゴでどうでしょう。山根さんはどう思いますか」


運転が致命的に下手な山根さんは自動車には関わらない。後から入社した田中君はそれを知らないので気軽に話を振った。


「え、私は安全性も考慮したほうが良いと思います」

「壁にぶつかるならハイゼット、トラックと正面衝突ならカローラバンのほうが強いでしょう」


トラックとぶつかることを想像した山根さんは怖くなって逃げてしまった。



「島田圭人君と山根ゆりさんは主任昇格です。ふたりとも職場における立場を自分の力で固めることができました」


要件を告げずに面談と伝えたのでどちらも戸惑っている。そしてうっかり同じ時間を伝えてしまったので同時面談になってしまった。もちろんそんなことは言わない。予定通りという表情をする。


「ありがとうございます。身が引き締まる思いです」

「あ、ありがとうございます。精進いたします」


本当にしっかり頼むよ。


「山根さんの役職は営業部主任。裕太君にはもう教えてあります。期待しています。そして島田君のほうなんだけど」


社長は手を後ろに組んでもったいぶって言った。


「いつまでもOAアシスタントはどうかと思う。情報システム部主任、情報化推進室主任、社内インフラ管理主任、システム企画室主任、総務部デジタル推進室主任、業務改善プロジェクト主任 。自分で選んでください」

「どれでもいいんですか」

「もちろんです。どれにしますか」

「じゃあ、OAアシスタント主任でお願いします」


社長も山根さんもぽかんと口を開けた。


「だって親しんできた名前ですし、取引先と名刺交換するわけでもないですし」

「それもそうだな」


このやり取りはあっという間に社内に広まった。



直立する工場長の横で社長が昇進を発表する。


「今川敏夫君と鈴木吉人君は主任昇格です。今川君にはリーダーとして現場をまとめる力がある。鈴木君は多くの改善提案を出しており工場全体を見る目がある。そのように判断しました。また林一君と武田修君には工場長の推薦により、技能手当を支給することとなりました」


「しっかりがんばります」

「はい。粉骨砕身がんばります」


粉骨砕身は労災になっちゃうだろう。苦笑しながら工場長を見たら首を傾げていた。



----------------------------------------

安全係数 = NORMSINV(サービス率)

リードタイム需要 = 一日平均需要 * リードタイム

安全在庫 = 安全係数 * 需要の標準偏差 * √(リードタイム)

適正在庫の下限 = 必要在庫 = リードタイム需要 + 安全在庫

適正在庫の上限 = 最大在庫 = 必要在庫 + 1ロット


サービス率を0.95に設定した場合の安全係数

NORMSINV(0.95) = 1.64


一日平均需要は190冊。

需要の標準偏差は205冊。


リードタイムが5日

リードタイム需要 = 190 * 5 = 950

必要在庫 = 950 + 1.64 * 205 * √5 = 1701

最大在庫 = 1701 + 1000 = 2701

----------------------------------------


「以前は仮の数値でしたが、実績の数値を入れるとこのようになります。リードタイムを5日としているのは、生産計画を変更する場合があるけれど、無理なくできる期間が5日だからです」

「わかりやすいとは思います」

「主力のノート以外でも考え方は同じです。いずれもこのような運用です。これを理論在庫と比較して生産計画を作るのです」


工場長は自分がいるうちに生産計画の自動化までをやりたいらしい。Excelを使うように助言したら、人間Excelになると言い出した。あのときは困惑したものだが本当によく使えるようになったものだ。しかしはたしてExcelで自動化できるのだろうか。型の切り替えや倉庫の状態や社員の有給休暇まで計算できるものだろうか。


「資材の管理はどこまでできていますか」

「完成品の理論在庫から発展させようとしましたが難しいです。共通材料やロス率の計算に手こずっています」

「部下にも手伝ってもらったらいいよ」

「今川と鈴木には相談していますがね、あいつらも妙案は浮かばぬようです」


彼らは自宅のパソコンを使いこなしているが用途はウェブだ。知恵を借りるとしたら誰だろう。


「山代君とは話しましたか」

「経営管理部とはすこし違った方向で相談させてもらっています。売上予測が営業ではなく経営管理部から来るようになったでしょう。長期予報なら営業の言葉がわかりやすいです。一方で経営管理部の週間天気予報は精度が高いです。それをどう活かすかということで意見をもらいました。受注管理システムとの統合の件はもうすこし待ってください。まだExcelで工夫してみたいのです」



赤鉛筆をくるくると回していた山代君が工場長の持ってきた計算書に修正を加えた。


----------------------------------------

安全係数 = NORMSINV(サービス率)

リードタイム需要 = 一日平均予測 * リードタイム

安全在庫 = 安全係数 * 予測誤差の標準偏差 * √(リードタイム)

適正在庫の下限 = 必要在庫 = リードタイム需要 + 安全在庫

適正在庫の上限 = 最大在庫 = 必要在庫 + 1ロット


サービス率を0.95に設定した場合の安全係数

NORMSINV(0.95) = 1.64


一日平均予測は190冊。

過去の販売予測と実績との差から算出した予測誤差の標準偏差は120冊。


リードタイムが5日

リードタイム需要 = 190 * 5 = 950

必要在庫 = 950 + 1.64 * 120 * √5 = 1390

最大在庫 = 1390 + 1000 = 2390

----------------------------------------


「需要の標準偏差の205冊というのは需要そのものの振れ幅ですよね。予測値を入れるなら、予測したものと実際に売れたものとの差を使うべきなんです。売上予測と実績を毎週まとめて渡します。予測誤差もこちらで計算しておきます。それなら使えますか」



Excelと向き合っていた竹山工場長がふと身じろぎしたとき、視界の端に動くものがあった。工場予備機の PC-9821V10 を見やると、そのデスクトップに白猫がいた。お昼に社員たちがインターネットで遊んだりしている、そのパソコンの画面は目が疲れないように味気ない無地のグレーの壁紙に設定されている。その中央で漫画調の白猫が耳を掻いていた。


なんだこれ。


気になってマウスを手に取ってみると、イラストの猫がカーソルに気づいて追いかけてきた。なんだかわからないが、これはきっと今川か鈴木のいたずらに違いない。それとも島田か。あるいは裏をかいて林か修。いやそんなはずがあるわけない。そう思いながら見ていると、猫は爪とぎを始めた。かわいいじゃないか。


Neko for Windows で遊んでいたのが今川君であることはすぐにばれた。昇進して落ち着いたと思ったらなんだ、と工場長は叱りつけたけど、猫がいなくなることはなかった。それから同じような猫が山根さんや金山さんのパソコンにも現れた。Mac版もあったのでPowerBookにも侵入した。


NT機に入れようとしたら禁止令を出すよ、と社長が言っていたといううわさ。


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