スピンオフ・おうちはどこですか 1/2
春頃に事務所の上でガタガタと音がするようになった。壁紙の張り替え、LANケーブルの敷設、ドアの鍵やチャイムの取り付けが行われ、事務机やお蔵入りになっていた古いプリンター EPSON LP-1500 と事務机が工場の上の倉庫から持ち込まれた。斉藤さんと山代君もパソコンごと連れ込まれて、今日からここが経理の新事務所と言われた。
夏には経理は経営管理部と名前と役目が変わり、何人もの役職が変わった。どれもこれも直前まで教えられなかったので、おおいに困惑したものだ。でも仕事はそんなに変わっていない。だから慣れた。
台風の日の出張から戻ってきた山下さんが社長に SONY PCG-707 の画面を見せて、これが欲しいですとおねだりした。
「最新の SONY PCG-C1 にはカメラが付いていましてね、QV-10Aももう古いのでちょうど良いと考えたんです」
山下さんのQV-10Aは私物だ。業務に必要なことが理解できたので黙認していたが、次が必要なら会社で買うのが当然だ。PCG-C1か。本体だけならそんなに高くない。山下さんは事実上の課長だ。今はまだ役職を上げることはできないけれど、これがモチベーションになるなら安いものだと言える。どうしようか。
「FDDやCDドライブは他のマシンのをLAN経由で使えばいいのでセカンドバッテリーだけ付けて欲しいです」
「明日まで待ってください」
そして翌日。裕太君も新事務所に呼ばれていた。
「新しいパソコンを買います。山下さんの SONY PCG-C1 は24日に納品されます。人気商品で発売日の分はもうないそうです。それから裕太君の IBM ThinkPad 600 が月末に届きます」
「これってすごいパソコンじゃないですか」
裕太君が IBM ThinkPad 560X の画面で600のスペックを確認しながらそう言った。
「エースにふさわしい道具を買うのだと考えてください。そしてその560Xはそこにいる山代君にまわします。彼に Excel 97 を使ってもらうという目的もあるんです。FLORA-DS1では厳しいからね。新品を2台買ったら560X用のメモリをおまけにくれることになりました」
山下さんの SONY PCG-707 は山根さんのものになった。どうせ持ち歩くつもりはないので重くてもかまわない。大きい画面のほうが良いという理由だ。山根さんの IBM ThinkPad 560E は、空いているパソコンを探しながら使っていた、かわいそうな野原さん専用の受注端末になった。 パソコンは天下の回りもの。
ある休日、制作部主任になった真子ちゃんが買い物に出たときのこと。公園前の熱いアスファルトに白いものが落ちているのを見つけた。
子猫だ。
よく見ると呼吸をしている。まだ生きている。バスケットの中のキャベツを取り出して子猫をそっと入れる。キャベツを左手に抱えて動物病院を目指す。通勤途中の道にあったはずだ。
獣医の先生は触診のあと首元に太い針を突き刺した。
「脱水症状です。危なかったですね。生理食塩水の点滴で持ち直すはずです」
受診料は4,000円だった。どこの子だろうか、3ヶ月の白い子猫はグレーの細い首輪をしていた。名札はない。アパートには連れて帰れない。
やむを得ず会社に向かうと入り口の鍵が開いていて、中には社長がひとりでいた。調べ物をしていたみたい。
「あれ、真子ちゃんどうしたの」
事情を話すと社長は困った顔をした。それからPHSを取り出して電話をかけた。
「お休みのところすみません。竹山さん、相談なのですが、子猫を保護した場合はどうしたらいいでしょう」
工場長は20分後に白いスズキ・アルトでやってきた。車にいろいろと積み込んでいる。
「獣医さんはなんて言ってましたか」
「帰ったら涼しいところに寝かせて水を用意してあげてください。食欲がないようならまた連れてきてください」
「じゃあそうするのがいいですね。社長、事務所や工場は騒がしいです。新事務所のほうがいいですよ。途中で子猫用のフードとミルクを買ってきました。トイレとシーツも家に残っていたのを持ってきました。他には段ボールがあるといいです。工場にはないんですよ」
「段ボールなら上にあるよ。でも飼い主がいるんだろう。どうしたらいい」
どうしたらいい。それは探すしかない。どうやって探すの。
「貼り紙します。飼い主さんが見つかるまでお願いします。見つからなかったら代わりに飼える人を探します」
社長と工場長はうなずきあって階段を上っていった。
翌日、猫ちゃんの様子を見ると箱の中でおだやかな顔で眠っていた。ごはんもすこし食べて水をたくさん飲んだと聞いた。社長宅の扉が半開きで固定されていて、中の廊下部分にトイレが設置されていた。
「名前は付けないでおきましょう」
「うちの子じゃないから名前も番号も付けないよ」
それから出社してきた斉藤さんがニコニコしていて、山代君は苦笑していた。
始業後しばらくして運送業者さんが箱を持ってきた。受け取った山下さんは運送屋さんをハグしそうに見えた。待望の新型機だ。山下さんはPCG-C1にいろんなものをインストールしたり、設定したりしている。それからV10に接続したMOドライブからLAN経由でデータを読み込んだりしていた。面倒そうなのに楽しそうだった。
山根さんは出かける前に猫を見ていった。野原さん、美香さん、美智子さんは交代で上に上がっていった。かおりちゃんは制作に追われていて行けなかった。私はかおりちゃんが作ったページを確認している。仕事中にポスター作りをしてもいいと言われたけれど、もちろんこっちが優先だ。午後からやれたらやろう。
お昼は誰かが電話番で残ることになっている。だけど今日は2階にみんな集まった。社長と山下さんが電話番をしている。
斉藤さんによれば、ごはんはすこしずつ何度も食べたとのこと。お昼前には工場長も様子を見に来ていた。水が減っていたので入れ替えた。平皿より高さがあるほうが水を飲みやすいと工場長が教えてくれたので、社長の予備のマグカップを事後承諾で使った。子猫は昨日より健康そうな顔で寝ている。
ポスター制作にはClarisWorksのドローを使う。でもその前に内容を決めないとね。SimpleTextを起動。
----------------------------------------
子猫を保護しました
3ヶ月の白猫です
グレーの細い首輪をしています
保護した日時は9月23日午後2時ごろ
場所は大山公園北出口前の路上
脱水状態で意識がありませんでした
点滴で回復しました
ごはんは食べています
----------------------------------------
こんな感じかなあと悩んでいると背後でパシャリと音がした。
「山下さん、何をしてるんですか」
「カメラのテスト中。使い方を覚えないといけないからね」
山下さんは事務所の電話機を被写体にしていた。カメラが付いている。変なノートパソコン。
「それ、猫のポスターだろう。これで写真を撮ってあげようか」
「いいんですか。助かります」
どうしようか悩んでいたことが勝手に解決した。これは幸先がいいぞ。
山下さんがノートパソコンを開いたまま猫に向ける。右手で本体のCAPTUREボタンを半押しするとピントが固定され、さらに押し込むとパシャリと音がした。
「サイズはどうする。640*480、320*240、160*120、それ以下も設定できる」
「印刷するので大きいほうがいいです」
「わかった」
パシャリという音に子猫はとくに反応していない。じっと真子ちゃんを見ている。かわいいな。
斉藤さんによれば、トイレもすぐ覚えて何度か社長宅に出入りしているとのこと。水もよく飲んでいる。
「動画も撮ろうか」
何枚か撮影したあとで山下さんがそんなことを言った。ThinkPadのトラックポイントによく似たスティックポインターを不慣れな手付きで操作して、NET MOVIEに切り替える。CAPTUREボタンを押し込むとピッと音がして録画が始まる。数秒後にボタンから指を離す。
「撮れたよ。見てみようか」
動画の猫はすこしだけ顔の向きを変えた。サイズも小さいからよくわからない。
「動かないですね」
「カメラのせいじゃないよ。猫が動かないんだよ」
考えてると猫がこちらを見ていた。位置を変えると視線が追随する。
「動いてますよ、ほら」
真子ちゃんが部屋中をぐるぐる歩くと猫はその様子を見ている。それを山下さんが撮影する。なめらかではないけれど、ちゃんと動画だ。
「これ、どこかに置いておこうか。588の外付けHDDでいいかな」
「Macでも見られるでしょうか」
「えっどうだろう。ちょっと待って」
山下さんが Smart Capture のメニューを調べている。
「AVIは再生できないかもしれない。MPEG1ならいけるんじゃないか」
「じゃあ撮り直しですか」
そうしてまた撮影を行った。最後に一度だけ鳴いてくれてモノラル音声が動画に収録できた。静止画像はVGAで8枚、動画はAVIが2本とMPGが2本。AVIはPowerBookではアプリケーションが見つかりませんでしたと表示された。MPGは QuickTime Player が再生してくれた。
静止画像の見栄えの良いものを選んでポスター制作を続けていたら、QV-10を手にした鈴木君が通りかかった。休憩時間に猫を撮影して、ついでに事務所に寄ったのだ。彼はウェブに掲載するのはこれで十分だと言って、最新のメガピクセルのカメラには関心を示さない人だった。
「あ、ポスターだ。自分で撮影したの」
「山下さんが新しいパソコンのカメラの練習で撮ってくれたの。かわいいでしょう」
「パソコンにカメラが付いてるって聞いたよ。おもしろいね」
なんだ。やっぱり新しい機械にも関心あるんじゃない。
「動画もあるよ」
再生してみせると、提案が大好きな鈴木君はアイデアを提供してくれた。
「飼い主探しのウェブページを作って動画を載せたらどうだろう。GeoCitiesに登録したらすぐできるよ。Heartlandっていう街が良さそう」
それから、かおりちゃんのページを確認したりポスターを作ったりを交互にやっていたら、また声をかけられた。
「坂上さん、話は聞きましたよ。印刷物のことなら相談してくれないとさびしいでしょう」
井出社長だ。
「お世話になっております」
「ClarisWorksでやってるんだ。見てあげようか」
井出さんは大きく下がって、指フレームで PowerBook 1400c の画面を確認し始めた、
「ポスターや看板の類は遠目に見てわかることが大事。この指の枠に収めてみて読み取れないといけない。見出しは合格。その下の猫の特徴は級数をあげて、日付と場所も。あとは大丈夫。写真がなかなかいいね」
「ありがとうございます」
プロのアドバイスを得て、この日はポスターが完成した。
「GeoCitiesのURLって長いよね。ポスターに入れるならもっと短くないと見てもらえないと思う。会社のサーバーに置けばいいんじゃない」
腕組みをした今川君がこんなことを言う。
「それは難しいよ。今もあんまり余裕がないし、20MBいっぱいにファイルを置いたらメールの受信もできなくなるんだよ」
余裕は6MBしかない。5MBは残すように管理者の島田君に言われているから1.2MBの動画を置くことはできない。できたとしても私が困る。
「HTMLだけ会社において画像とムービーはGeoCitiesに置いといたら。ぼくが社長に話しておくよ」
通りかかった島田君がさりげなく提案してくれた。その手があったか。数文字でも短くなるに越したことはない。でも鈴木君が異議を申し立てたのだった。
「それは無理。GeoCitiesの規約違反になる。画像置き場にしたらすぐに見つかって消されちゃうよ」
「他に置き場所なんてないよ」
「自分のスペースがあるでしょう。So-netの2MBのスペース使ってないよね」
「そういえばそうだ。そこに画像と動画を置いて、HTMLだけ会社のサーバーに置いたらいいんだ」
「ぼくと同じで ftp.so-net.or.jp だと思う。ユーザー名とパスワードはメールと同じ」
試してみたら本当に接続して /public_html/ が見えた。ここが私の場所だ。ここに動画をアップロードすればいい。




