8.電話の向うの女
三回目に、受話器を取る音がした。よかった。いるみたいだ。
「……こちらは、……留守番電話です……。……恐れ入りますが、………お名前とご用件を……おっしゃってくださいませ。………のちほど、こちらから………おかけなおしいたします。………ピーッ…。」
それが、ユウコの声のメッセージだった。突然、あの、無言で、しかし何かを言いたそうに僕の目を見つめるユウコの表情が思い浮かんだ。なるほど、ユウコはこのようにすることで、かろうじて電話というコミュニケーションが可能なのだ。僕は、また、ユウコのことを思って、可愛そうな、でもそれだけいとおしいような気持ちになった。
「もしもし、僕です。××です。突然ですが、あなたに会いたくなりました。今、吉祥寺にいます。外なので、五分後に、またかけなおします。お返事、考えておいてください。」
それだけ言って、受話器を置いた。その向こうに、留守番電話に吹き込まれる僕の声をじっと聞いているユウコの姿が、見えるような気がした。
僕は、腕時計で正確に五分を計ると、再び、ユウコの家へ電話をかけた。祈るような気持ちだった。
また、さっきと同じように、呼び出し音が彼方へと吸い込まれていく。すると、今度は二回で受話器がはずされた。
「もしもし、僕です。ユウコさんですか。」
「………。」
受話器からは、何も聞こえてこない。でも、それがユウコであることに疑いはなかった。その深い沈黙の中に、僕はユウコの息遣いを確かに聞いていた。
「もしもし、突然、変な電話をして、ごめんなさい。もし、あなたのご迷惑でなければ、どこかでお会いできないかと思って………。」
僕は、ごく自然にそういう言葉が出てくるのが、自分でも信じられなかった。こんな丁寧なものの言い方を、僕は今までしたことがあっただろうか。
「……ありがとう……ございます。………今から、………出ます………。………どこに、……いらっしゃるのですか。」
「えっ、本当ですか。嬉しいな、どうもありがとう。でも、吉祥寺でいいのですか。」
「………はい。………十五分くらい……かかりますけど。」
「わかりました。じゃ、井の頭線の改札で待っています。」
僕は、自分で電話をしておきながら、ちょっと信じられない気持ちだった。この五分の間に、ユウコは、僕と会う気になって、身支度までしていてくれたのだろうか。そういえば、化粧もごく控え目で、アクセサリーもしないユウコだから、そんなに時間はかからないのかもしれないが、それにしても普通女の人がデートに出掛けるのに要する常識的な時間というものがあるのではないか。それに、ユウコは、言葉はともかくとしても、動作だってけっして早いほうではない。僕は、彼女が現れるのを待ちながら、もしかして、ユウコは、僕が電話をする前から、こうなるということを予期していたのではないか、などと思ってみたりもしていた。
何本かの電車が着いては出て行き、その度に、これから夜の吉祥寺で食事なり買い物なりをするはずのおびただしい数の男女が吐き出されてくる。
そうはいっても、やっぱり三十分くらいはかかるんだろうな、と思ったとき、電車から出てくる人波の中に、そこだけぽっと明るくなったように、薄いクリーム色のワンピースの女が見えた。ユウコだった。




