1.渋谷、半蔵門線駅
地下鉄の切符売り場の前は混んでいた。
それぞれの自動券売機の前には、五、六人くらいの人が並んでいる。僕は、その中の、比較的短そうな列についた。
次々と前の人が切符の購入を済ませ、その度に少しずつ券売機に近付いていく。そうして、後ろにはすぐ次の列が伸びる。それぞれにどこからやって来てどこへ消えて行くかわからない人間達が、今、こうして、つかの間の秩序を造り上げている。
と、突然その流れが澱んだ。
僕の前には、水色のワンピースを着た、髪の長い女がいた。その女は、どうしたことか、券売機の前でまったく動きを止めている。千円札を入れたのだろう、運賃を示すボタンはずらりとランプがついているが、その女はどのボタンをも押そうとはしていない。
僕は、その時、特にいそいでいたわけでもなかったが、こういう場所でずっと待ち続けられるほど忍耐強くもないし、僕の後ろにならんでいる、いかにもいそいでいる感じの男達のことも気になった。
「どうしました?」
そう声を掛けてみるのが、その場の僕に与えられた義務のように感じた。
その女はゆっくりと振り向いた。しかし、無言だ。
「どこまで行くのですか?」
「………。」
女は、相変わらず無言のまま、大きな瞳で僕のほうを真っ直ぐに見ている。ただ、口の微妙な動きは、何かを訴えようとしている気配を伝えていた。
一瞬、時間が止まったような気がした。
この人は、言葉をしゃべれないのだろうか、そう思いながらも、もう一度話し掛けてみた。
「早く切符を買わないと、後ろもつかえてますよ。」
「………。あの………」
「え?」
やっと、女が口を開いた。
「おもて……、表参道まで行きたいのです。」
「あ、じゃあ、ええと、百二十円です。このボタンです。いいですか、押しますよ。」
僕は、百二十円のところを押して、出てきた切符を女に渡した。しかし、女はそれを受け取ったまま、そこに立っている。
「ほら、おつりですよ。」
仕方がないので、続いて出てきた小銭を集めて、僕はそれを女に渡した。その時にわずかに触れた女の手は、魚のようにひんやりとした感触で、その沢山の小銭を持てるのかどうか心配になるほど弱々しい感じがした。
気にはなったが、そういつまでも構ってもいられない。僕は僕で、小銭を出して、青山一丁目までの切符を買った。やはり、同じ百二十円だった。
改札のほうへ行こうと向き直って歩き出すと、すぐそこに、さっきの女が立っていた。
女は、ゆっくりと、そう、長い髪が一本ずつさらさらと前に流れ落ちるようにゆっくりと、僕に向かって会釈をした。
さっきのお礼か、と思い、僕も軽く会釈をしたが、女は、なおも僕のほうをじっと見つめている。
「………。」
何か言いたそうだ。
「どうしたんですか? 乗り場が分からないのですか?」
女は、ややためらってから、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、僕も同じ方向だから、一緒に行きましょう。」
そう言うと、女は、ほっとした表情を浮かべて、自分のほうから改札口のほうへ歩き出した。
おかしいな、行き方が分からないんじゃあないのか、という思いが一瞬頭をかすめたが、まあきっとどの電車に乗ったらいいのか不安なのだろう、くらいに思っていた。
ホームに降りると、すぐに電車が滑り込んで来た。




