竜の谷へ
フィシディアを発った老魔術師の馬車は、いくつかの村を経由して竜の谷に一番近い外村を目指す。
「精霊が教えてくれた、大精霊の娘がいるという竜の谷のそばは、どの辺りかわかるかの?」
クロードが注いでくれたサッパリとした果実水に、こぼさないよう口をそろそろつけながら、ティンクルスは隣を窺う。
「嫌な魔力を感じる場所だよな? 谷を見ればわかると思う」
長い年月この地を漂ってきた精霊だ、はるか昔の記憶を辿っているのだろう。眉間にシワを寄せてうなずいたクロードが、今度は顔を曇らせこちらを向いた。
大精霊の娘が囚われている場所、おそらく『人なら入れるが大精霊や精霊は近づけない』そんな結界があるだろう場所を、彼らは目指している。
つまり、最後は老魔術師が一人で進まなければならない、ということだ。友はそれを心配しているのだろう。ティンクルスも少し怖くはある。しかし。
「クロードよ、大精霊は願いを託す相手にわしを選んだ。人がたくさんいる中で、わしを選んだんじゃ。ということはじゃ、わしでも大丈夫ということじゃ」
だから安心してほしい。そんな想いをこめて笑いかけると、クロードの頬が少しゆるんだ。
「じゃが、どうして生き返ったとき、わしの気配が変わったのかのぅ?」
前にも考えたことではあるが、と、ティンクルスは口を尖らせ、ついでに果実水を飲む。馬車がゆれ、ちょっとだけこぼした。
すぐさまクロードが布で拭き、そして首をかしげる。
「大精霊の魂がティンクの中に入ったから、ならわかるんだけどな」
「そうなんじゃ」
生き返り若返ったとき、まだ、大精霊は女神像の中にいた。老魔術師の中に入ったのは『囚われている精霊たちを解放してほしい』と願ったときのはずだ。
精霊のクロードが大精霊の魂に気づかなかったのも、老魔術師の気配がすでに変わっていたからだと思う。
「生き返ったときに、魂を取りこむための力でも与えられたのかのぅ?」
こう言うと、クロードは曖昧に首をひねった。守護精霊が契約者の魂を取りこむのとは逆に、人が精霊を、いや、大精霊を取りこむ方法など知らないそうだ。
ただ、実際、老魔術師の中に魂はいるようなので、そうした術はあるということか。
「ふむ……または、あのヴェリダの森にいた精霊への目印かのぅ?」
たとえば、千年ほども前、女神像に閉じこめられる前の大精霊が、精霊にこう頼んだ。『大精霊の魂を娘の下へ運べ』と、いずれ願いを託す者に伝えてくれ。
老魔術師の気配が変わったのは、頼まれた精霊が伝える相手を見つけるためではないか。
「うぅん、どうだろうな。あの精霊、村には近づかなかったよな。だから俺たちが森に行くまで、ティンクの気配を感じることはできなかったと思うぞ」
ヴェリダの森にいた精霊はクロードより力が強かった。だから断言はできないが、とも彼は続けた。
この地を自由に漂う精霊だ。友の言うとおり、あの精霊は老魔術師の気配を察したのではなく、これまで解放してきた精霊たちから話を聞いたのかもしれない。
「むぅ……目指す場所へ行けばわかるかの?」
そもそも、気配が変わったことに意味はなく、生き返らせ若返らせたときの大精霊の力が、ただ残っているだけかもしれない。今、あれこれ考えてみても仕方のないことか。
うむ、とうなずいたティンクルスは、再びそろそろと果実水に口をつけ、今度はうまく飲むことができた。
「ティンク様、外村フィーリィが見えてきました」
「お!」
御者台から騎士の声が聞こえると、老魔術師は嬉しげな顔になって、どれどれと窓からひょこりと顔を出した。
*
「やはり他の外村とは違うんじゃのぅ」
フィーリィに着くと、馬車を降りたティンクルスは辺りをきょろきょろ見まわした。
木造の家々が間を開けて並び、周りには畑がある。向こうを見れば木の柵がめぐらされ、遠くには森が広がっているのがとてもよく見える。
そうなのだ。フィーリィには他の外村ならばあるはずの、石造りの兵舎やそびえる防壁がない。ここは魔物のいない地、村を守る兵士もいない。
「内村に似てるのぅ」
人々に挨拶しつつ、村長の家へと向かう。猟師らしき者はいるが、彼らの獲物は魔物ではなく動物だ。
「肉がうまそうだな」
「お! そうじゃのっ」
魔物の魔力を感じるせいで、あまり魔物肉を好まない老魔術師と守護精霊には、良い村と言えるだろう。
「ほお、竜の谷へ。学者さんですか?」
「ぉ……そう、ですのぅ。その、魔法や魔術などを研究しておりまして」
相変わらず誤魔化しは苦手なティンクルスが、もごもごと答える。人の良さそうな顔だからか照れているとでも思ったのだろう、村長は優しげに笑う。
「竜の谷は森を抜ければすぐに見えます。明日、案内と護衛の猟師を紹介しましょう」
それはありがたいと、老魔術師は礼を述べた。
この日は、おいしい肉と野菜に焼きたてのパン、それに果物までいただき、村長宅でゆっくりと休んだ。
翌日は猟師一行とともに森へ。
「坊ちゃんは学者さんか。偉いんだなぁ」
「い、いや。そんなことは……」
ニカッと笑った猟師に、ティンクルスは慌てて首をふる。
本当は学者なんて立派なものでもないのに、などと思っている彼は、偉大なる魔術師と呼ばれていたことをコロッと忘れているようだ。
「お、何か近づいてくるみたいじゃが」
竜の谷が近いことと関わりがあるのか。この森の動物たちはみな、魔馬ほどに魔力を持っているらしい。精霊であるクロードは当然だろうが、老魔術師にも気配がわかる。
「へえ、魔法使いってのは便利だなぁ」
やはりニカッと笑われ気を良くしたティンクルスは、猟にも参加したし、野営では元女将仕込の料理の腕を披露した。
「谷へ行ったら、竜も見られるかのぅ」
「坊ちゃん、そりゃ無理かもしれないなぁ。一番最近見たのも、俺の爺さんが若い頃だって言うからなぁ」
静かな夜は焚火を囲み、星空を見上げる。ポツリポツリとつぶやきながら、月にかかる竜の影を思い描いたりもした。
――それから数日後のこと。
「ふぉ、お、おぉ……」
ティンクルスは、竜の谷を前にして、ただただ声をもらす。
森が開けた向こう。大地には輝くばかりの鮮やかな緑が広がり、合間からはいくつもの岩山がそびえ立つ。その頂上は雲に覆われている。いや、あれははたして雲なのか。岩山に触れた部分がときおり七色に染まる。
あれが――竜の棲み処。
その地と、人の住まうこちら側を切り離すように、足元には深い谷があった。下には大河が流れている。竜の住まう地からいく筋もの滝が流れ落ち、腹の底を震わせる、ドドドド、という水流が響く。
谷間を吹き抜ける風のせいなのか。水しぶきが舞い、低い唸りのような音もする。
「おぉ、おぉ……」
話には聞いたことのある竜の谷。しかし実際に見てみると、ただただ圧倒されてしまう。
「坊ちゃん、谷を下りるかい!?」
「ふぉっ?」
滝に負けない声を出した猟師の言葉に、ティンクルスはギョッとした。この深い谷を下りるのだろうか。
聞けば、竜の亡骸は滝が運んでくるのだという。谷を下り、こちら側に流れ着いたものだけを、猟師たちはいただくのだそうだ。
老魔術師はなるほどと感心するも、谷を下りるのは怖いとも思う。それに、精霊は『竜が住まう谷のそば』と言った。まずはその場所を確かめなければ。
「クロードよ! わかるかの?」
大きな声を出すと、クロードが谷を眺めまわす。
「あそこ、だな」
「……どこじゃ?」
「あそこに裂目があるだろ。嫌な魔力を感じたのは、あの奥だったはずだ」
「……」
クロードが指したのは、谷を下りて大河を越えた向こう。竜の住まう地から流れ落ちる滝と滝の間に見える、細い亀裂だった。
「坊ちゃん、あの河は渡れないよ」
首をふった猟師に、老魔術師は思いっきりうなずいた。
船を出したとして、対岸の滝をかい潜るのはとても難しいと思う。そもそも、船を谷底までどうやって運ぶのか。
猟師は、大昔は渡った者もいたらしいが、と続ける。
「帰ってきた奴はいないって話だな」
「……」
どうすればいいのか。
目的の場所は、確かに谷の近くではあるが、こちらと向こうでは大違いだ。
大勢の人を雇い船を谷底に下ろして、はたして無事、大河を渡ることができるのか。渡ったとして帰ってくることはできるのか。渡るのは自分たちだけではないのだ。船を操る者もいる。
「むぅ、ぅぅ……」
この旅の、最大の試練かもしれない。老魔術師はひどく難しい顔になって唸りをもらした。と、そこへ。
「ティンク、あれ」
「ん?」
クロードが指しているのは、ひたすら晴れた青い空だ。
「どうしたんじゃ?」
だが、よくよく見てみると、どこまでも広がる空の一点に白いものがあった。それはどんどん大きくなっているような。こちらに近づいてくるような。
何じゃろ、と見つめ続け、その正体を捉えると。
ティンクルスはヒュッと息をのみ、吐くことを忘れた。滝から落ちる水の響きも、谷を吹き抜ける風の唸りも、何も感じなくなった。
青い空に広がるのは真っ白な翼だ。白い体は陽を受けて、虹のように艶めく。瞳は黒だろうか、しかし七色にも見える。赤く見えているのは開かれた口か、牙が生えているのもわかる。こちらへ伸びる足の先には、大きく鋭い爪がある。
大空を翔るその姿は、静かでいて、雄々しくて、そしてただ、美しい。
――竜
ティンクルスが、ようやくこの言葉を思い浮かべたとき。
「ティンク!」
クロードに抱えられ、ついで感じたのは吹きつけてくる強い風。
「ティンク、大丈夫か?」
びょうびょうと、風を切る音の隙間から友の声が届いた。知らぬ間につむっていた目を、ゆっくりと開ける。
「……ふぉ、お、お、ぬおおおおおっ」
老魔術師はクロードとともに、竜に掴まれ大空を飛んでいた。
旅編 ―完―




