精霊の声と居間の話
宿屋の盗難事件が、ちっとも解決しなかった翌朝のこと。
ティンクルスとクロードは自室の丸テーブルを囲み、陽に透けて、黒くきらめく玉を見つめていた。
昨晩は盗難騒ぎの真っ最中、あまりにも突然な申し出だったにも関わらず、猟師は気持ちよく玉を売ってくれた。
老魔術師が、彼らの持っていた玉を魔宝玉だと断じたことで、疑いが晴れる切っかけを作ったからだろう。買い取りの値が良かったこともあるだろう。猟師が店に売る値と、客が店から買う値はもちろん違う。この辺り、老魔術師はまだまだ疎い。
けれどそこが気に入ったのか。猟師は「同じ玉を見つけたら持ってきてやるよ。猟師仲間にも声をかけておく。だがな、もう少し安く買っていいんだぞ」、と言ってニカッと笑った。いずれ旅に出ると話すと、ぜひ泊まりに来いとも誘ってくれた。
ティンクルスの、旅の楽しみが一つ増えた。
そしてこの玉は、千年も前から精霊が囚われているはずの物。もちろん猟師が狩った魔物の目玉ではなく、その腹の中から見つかったのだそうだ。これを身につけていた誰かが、魔物に襲われたのだろう。
老魔術師は胸に手を当て、その者が安らかに眠れるように、ただただ祈りを捧げた。
「よし! じゃあ……」
首にかけていた細い鎖をするりと引きだすと、ティンクルスののどがゴクリと鳴る。精霊の解放はこれで三度目だが、何だかまだ緊張するのだ。
小指の先ほどの、竜の牙のついた持ち手をつまむと、玉をコリコリ削っていく。
――ぶわり
風に似た気配が宙を舞った。喜んでいるのだろう、浮き浮きとした、弾けるような気持ちが伝わってくる。自然、老魔術師の頬もほんわりとゆるむ。
「あっ、いや、そうじゃ! 囚われてる精霊はどこにいるんじゃ? 千年前、何があったんじゃ?」
ここで一緒になって喜びに浸っていてはいけないのだ。ティンクルスは慌てて話しかけた。だが、飛び跳ねるような、踊りまわるような気配は落ち着かないままだ。
(やはり、話は聞けないかのぅ……)
精霊にとっては千年ぶりの外の世界だ。仕方ないのかと、老魔術師の眉がへなっと下がったとき。
「おい、お前! ティンクが聞いてるだろ!」
――うるさいわ! 小童が!
「ふぉっ!?」
突如、頭に響いた怒鳴り声は、老人のようにも若者のようにも聞こえた。不思議な声だ。
――大精霊は、あやつらに囚われた我らを解放したために、自らも囚われたのだ
今度は打って変わって静かな声が、ゆったりと揺らぐように響いた。その余韻が消えると、精霊の気配も消えていた。
「何なんだ、あいつ……この俺が小童だと?」
ウマが合わなかったのだろうか。眉間にシワを寄せてブツブツつぶやくクロードの横で、むぅ、とティンクルスは腕を組む。
先ほどの精霊が言った『あやつら』とは、竜人のことだろう。
大精霊は、竜人の魔術で囚われた精霊たちを解放したために、自らも竜人の魔術によって女神像に囚われた、となる。
老魔術師に、『囚われている精霊たちを解放してほしい』と願った大精霊だ。千年前、竜人に対向し、精霊たちを解放したのは納得できる。
が、それはつまり。
(大精霊には、囚われてる精霊を解放する力があったんじゃ……)
大精霊は自分でできるはずのことを、わざわざティンクルスに頼んだ、ということになる。
寿命だったから、誰かに頼むしかなかったのか。いや、それなら精霊に竜の牙か爪を与え、願いを託しても良かったはず。それこそクロードなら、大精霊が現れたとき、彼のそばには一度目の生を終えた老魔術師の胸元に、竜の牙があったのだ。
けれど大精霊は、人であるティンクルスを選んだ。とすると、大精霊や精霊にはできない何かを託されているのか。精霊を解放していけば、いつかはその何かに辿り着けるのか。
もしかすると、その『何か』こそが大精霊にとって重要なこと――精霊を生みだすために、大精霊が甦る、または、新たな大精霊の出現につながるのだろうか。
「むぅぅ……まだ、わからんのぅ」
せっかく精霊から話を聞けたのに、ますます謎が深まったような。
「クロードよ。宿屋に行ってみるかのぅ」
情報がないのだ。考えてもわからないものは、わからない。ティンクルスは一度ぷるっと頭をふると、しゃきりと立ち上がった。
今できるのは、宿屋の盗難事件、こちらの解決に尽力することだろう。
*
いざ宿屋へ、と気合を入れたばかりではあるが、その前に、今日もつつがなく通ってきてくれた元女将に話を聞こうと、老魔術師は居間に腰を落ち着けていた。
もう一つ、その前に。
「ロイクよ。昨日は遅くなってすまなかったのぅ」
ティンクルスが眉を下げて謝ると、老侍従はとんでもないと、穏やかな顔で首をふった。
この老侍従はいつも優しい。幼い頃、大好きだった彼の祖父、老いた侍従――クロードによく似ている。ほんわり笑った老魔術師は、「じゃが」と続ける。
「もう王宮ではないんじゃから、もっとこう、楽にしてくれても良いんじゃぞ」
老侍従はティンクルスが勧めても、同じテーブルに座ろうとしない。そっとそばに控えている。遅くなったときは先に寝ていて良いと言っても、玄関をくぐれば穏やかな顔で迎えてくれる。
もう四十年以上も仕えているのだ。今さら楽にしろと言っても、かえって難しいのかもしれない。
だが、とティンクルスは老侍従を見た。
白くなった頭、シワの浮いた顔。彼は老魔術師とわずかしか年が違わない。体は大丈夫だろうかと心配になる。
(ロイクはわしの四つ下じゃから、もうすぐ六十……)
「ふぉっ!」
ここでティンクルスは、とあることに気づき、くわっとまぶたをこじ開けた。
「ティンク様、どうかなさいましたか!?」
「いっ、いやっ! 何でもないんじゃ。大丈夫じゃ」
慌ててごまかしたものの、ティンクルスの胸はドキドキうるさい。
実は、もうすぐ老侍従の誕生日なのだ。王宮ではできなかった、親しい者たちだけの温かな誕生パーティというものを、ぜひともやってみたい。彼には気づかれないように、そっと準備をしなければ……
やる気に満ちた老魔術師が、小さめの拳をぐっと握ろうとしたとき。
「お待たせしました。すみませんねぇ」
元女将が顔を出したことで、そのやる気は今、別の方向に向けるべきだと老魔術師は気がついた。
「じゃあ、外から入った何者かの仕業、ということになったのかの?」
「いえいえ、まだ決まったわけじゃありません」
首をかしげたティンクルスに、元女将はきっぱりと首をふった。
昨夜の捜索で、宿からそれらしきお金や高価な品は出てこなかった。
客たちの出入りを調べてみても、一度宿に帰ってから、再び外に出た者はいないそうだ。
宿屋の者は、主人の妻が買物に出かけたのと、孫娘が元女将を呼びに出た、この二人だけ。近隣の住人は妻におかしなところはなかったと言うし、孫娘は血相を変えて駆けていったが、これはお金が無くなったあとのことだ。
となると、犯人が中にいた者なら、盗んだお金も宿の中にあるわけで、ないのだから、外から忍びこんだ何者かの仕業。
それに、おっちょこちょいな隊員が、思いっきり的外れな推理を披露したためでもあるのだろう。
「なんだ、結局ここに犯人はいないんじゃないかって。お客さんたちは安心したような、もう全部終わったような、そんな雰囲気になりましてね」
元女将は納得がいかない、といった顔だ。
客たちが争っても困るだろうが、宿屋としては、きっちり事件が解決したほうが良いだろう。いくら貴重品は預かることになっているとはいえ、外から盗みに入られたとなれば信用にも関わるはずだ。
「それに、うちはちょっと静かなところにあるでしょう」
元女将の宿屋は、大通りから少し奥まった場所にある。向かいは薬屋で、四六時中ではないものの、薬師が宿のほうを向いて座っている。隣は小さな広場だ。近所の子供たちが遊んでいることもあれば、ご隠居方が日向ぼっこをしていることもある。
「みんな顔見知りだし、妙な人が出入りしたら目立つと思うんですよねぇ」
だから外から何者かが入ったとは思えないと、元女将は首をひねった。
「むぅ……ともかく解決しないとのぅ。お金を盗まれた若夫婦も困ってるじゃろ」
「そう、そこなんですよ。私が一番納得いかないのは」
「それは、どういうことかの?」
グッと身を乗りだした元女将に、つられたティンクルスは、ずいっとにじり寄った。




