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公園の目撃者

2010年⇒2026年リライト版

 レニー・クラウン刑事の朝は早い。

 毎日3マイル(約5km)から6マイル(約10km)ほどのジョギングをするのだ。事件がよほど切迫していない限り、これはほとんど欠かさない。仕事の関係で夕方、もしくは夜になることもあるが、だいたいにおいては早朝になる。

 適度なストレッチとジョギングは、筋肉と脳細胞を活性化させる。


 レニーが住んでいるのは、市警本部から9マイル(約15km)ほど離れた市街地の古いアパートの五階。七階建てのその古いアパートには、これまた年代もののエレベーターがついていて、それが時々理由もなく止まってしまうことを除けば、家賃のわりに部屋も広く、造りも頑丈で快適だった。そもそも、エレベーターなど大荷物のときか怪我でもしていない限り、使用しないのだ。年代ものの優雅なエレベーターに頼るより、駆け上り駆け下りた方が格段に早い。


 今日もレニーは早朝5時半に、その階段を駆け下りた。表に出るドアをひき開けると、吐く息が白く凍る。夜が明けきらぬ外は、薄い青と黄色に染まっている。オレンジの光がさしているが、まだ遠い。3月になって春の気配がしてはいるが、この時間は冷気が体中に突き刺さる。目は覚めるが、筋肉が一瞬縮こまるのがはっきりとわかった。

 だが、ストレッチを始めればすぐに柔らかくなる。冬とは格段に寒さが違う。道路にはとうに雪はなく、もちろん凍ってもいない。レニーはアパートのすぐ前にある公園へとゆっくり走る。


 楕円形をした小さな公園の周囲にはぐるっと道が廻っていて、公園を中心として幹線道路への道が放射状に続いている。ここらはあまり大きな通りではなく交通量はさほど多くない。

 東西に長い楕円形の公園の外周は、1マイル(約1.6km)ほどになるだろう。レニーは軽くストレッチをしてから公園の周りを1周して、それから北側に続く線の一本へ入り、古い倉庫の立ち並ぶ川沿いの道を走る。いつものコースだ。

 緩やかに南へ向かって流れる川を横目に眺めながら、倉庫の一番奥の金網に行き当たったら、そのまま元の公園へと戻るってくると大体3マイル。

 今日は気が向いたので、さらに隣の通りに入りこみ、遠くにゴシック教会の美しい鐘楼が見えたところで引き返してきたが、これで大体6マイルになるはずだった。

 公園に戻ってきた頃には、程よく身体も温まり、額には薄く汗すらかいていた。持ってきたビタミンウォーターをボトルの半分ほども飲み干すと、青いナイロン製のウィンドブレーカーを脱ぎ、薄手のジャージだけになった。


 朝の光はもうだいぶ鮮やかになり始め、公園全体が金色に輝き始めている。レニーは少しの間、その美しい金色の光に見惚れた。ろそろ人通りも多くなるだろう。

 あと30分もすれば、早めの通勤者が朝一番のバスに乗るために、公園の向こうへ走る姿も見られるようになる。

 レニーは、身体がまだ温かいうちに仕上げのストレッチをはじめた。もともと身体は柔らかい。

 身長こそ6フィートとそこそこあったが、相棒のBBのように硬くみっしりと重みのある筋肉はついていない。服を着ていれば、どちらかといえば華奢で痩せすぎているように見える。だがその服の下には柔らかく伸びのいい、それでいて強靭な筋肉がまんべんなくついたしなやかな身体が隠されていた。

 子供の頃から喧嘩慣れはしている。大胆で無駄のない、しかしどこかに優雅さを秘めた動作でレニーは犯人を追い詰めることができる。それは武術の師匠のおかげといえた。ずっと我流だったが、レニーは十五のときに初めて師匠について武術を習った。

 身体と精神がバランスよく常に最高の状態でなければ、自分も他人も守れない。それが、武術の師匠に教わった最初の教えだった。以来、レニーはなるべくそれを守るように努力を続けてきた。そのために、早朝でも深夜でも精神と肉体のパフォーマンスをあげるために鍛錬している。


 だが、それはどうやら整った顔立ちとあわせて、人に間違った幻想を与えるようである。足を立ち木にそって高くあげてY字バランスをとりながらストレッチをしたり、蹴りのポーズを決めたりすると、ダンサーと間違われることが少なからずあるのだ。

 つい最近も、朝の公園でよく見かける犬を連れた上品な老婦人に、

「ダンサーの方かしら? どちらで踊っていらっしゃるの?」

 と、声をかけられたばかりだ。

 まあ、マーシャル・アーツといえば、一種のアートではあるわけでダンサーとは多少違うが、同じアーティストであることには違いがないかもしれない。

 こちらはその技に芸術性よりも命が懸かっていることがままあったとしても。


 念入りにストレッチを終え、レニーは残っていたビタミンウォーターを飲み干すとゴミ箱に放り込み、腕のクロノグラフに目をやった。もうじき6時半になる。部屋に戻ってシャワーを浴びて軽食をとったら、出勤の時間だ。レニーは満足げなため息をひとつ吐いて、近くのベンチの背にかけていたウィンドブレーカーを肩にはおった。

 部屋に向かってきびすを返そうとしたときだった。目の端にピンク色のひらひらしたものが動くのが見えて、レニーは無意識に視線をそちらへ向けた。

 若い女がレニーのほうへ向かって駆けてくる。そのゆがんだ必死の形相に、レニーは思わず身構えた。だが、彼女の後ろから追ってくるものはない。

「助けて! お願い、助けて!」

 彼女は、レニーに向かって両腕を差し出した。

 レニーのそばまで来ると、その女はがっくりと彼の足元にくずおれた。レニーも片ひざをつき、彼女の顔を覗き込む。

「大丈夫か。何があった?」

 彼女は、恐怖にゆがんだ顔でレニーを見あげた。


 間近に見てレニーは、その女がかなり若く、まだ少女と言ってもいいくらいだということに気がついた。つやのない血の気の失せた不健康なほほをしているが、たぶんまだ十代、もしくは二十代になったばかりだろう。

 金色の髪をポニーテールに結い、流行のブランドのピンクのスェットスーツを着ている。彼女は1回深く息を吸った。

「向こうのくぼ地に、女の人が倒れてる。死んでるみたい」

 彼女はそこまで一気に言うと、再び泣きそうに顔をゆがめた。レニーは大きく目を見開いた。このあたりで殺人? いや、事故か?

「死体? くぼ地に? あの池の跡地?」

「そう、そうだよ。あの底に倒れてた」

 彼女は、激しくうなずいた。

「嘘じゃないよ。お願い、一緒に行って見てちょうだい」

「わかった」

 レニーがうなずくと、彼女は安堵の息をついた。

 だが、レニーが

「君はここで、待っていてくれ。俺は刑事だから、安心していいよ」

 と言うと、彼女はぽかんと口をあけた。

 鼻の頭がてかって、妙に子供っぽく見えるな、という考えが一瞬だけ頭に浮かぶ。


「刑事? あなたが?」

 またか、とレニーは心の中で苦笑するしかない。オフの時間は、ことさら刑事には見られないことは、過去なんども経験済みだ。

「ああ、そうだよ」

 レニーは、オフの時にはいつも首に下げている警察バッヂを取り出して見せた。

「そう、だから安心していい。すぐ戻ってくるから」

 彼女は、びっくりしたように口をあけたまま、しばらく固まっていたが、いきなり金切り声をあげた。

「いや、置いていかないで! 一人で待っているのなんていやー!」

 きゃしゃな女の力とは思えないほどの強い力で、レニーの腕をつかむ。細い指が食い込み痛いほどだ。

「落ち着いて。大丈夫だから」

「いや、いや、いや、刑事さん、お願い、ひとりにしないで」

 彼女はいまや公園中に響き渡るほどの大声で叫んでいた。

 レニーは彼女を強引に立たせ、半ば引きずるようにしてベンチにまで連れて行った。


「わかったから、落ち着いて。いま警官を呼ぶよ。それならいいだろう」

 やっとのことで彼女をベンチに座らせる。

 腕から彼女の指を引き剥がし、ウィンドブレーカーのポケットからスマートフォンを引き出そうとやっきになっていると、

「ちょっと、あなた。どうなさったの?」

 と、後ろから声がかかった。

 振り向くと、前にレニーに「あなたはダンサーか」と訊いてきた老婦人、ミセスロシェットが立っていた。

 暖かそうなグレイの厚手のカーディガンにタータンチェックのスカートをはいて、小さな白い犬を連れている。犬は、レニーを見ると嬉しげに小さな尻尾をふった。


 レニーの返事を待たず、老婦人は意外なほど機敏な動作で犬をベンチにつなぐと、さっと若い女の隣に座った。

「あなた、どうしたの、何があったの」

 思いがけない援軍は、レニーの腕から女の指を優しく、しかし断固として引き剥がした。そしてそのまま、自分の手の中に包み込む。そのすばやさに若い女はあっけにとられたのか、すでに叫ぶのをやめていた。

「大丈夫よ、あなた。落ち着いて深呼吸してご覧なさいな」

 穏やかなアルトの声が耳に心地よい。若い女が言われたとおり深く息を吸いこむのを見て、ミセスロシェットはレニーに向かってにっこり笑ってみせた。

「さぁ、もういいわ。大丈夫よ、クラウン刑事さん」

 レニーはひとつ息をついた。


「ありがとう、ミセスロシェット。少しの間、そのままで彼女を見ていてくれますか。説明はあとでします」

 老婦人は、もう一度にっこり笑ってうなずいた。

 ようやくレニーは、ポケットからスマートフォンを取り出して911にかけた。

 自分の身分と場所と簡単な状況を告げる。電話を受けた女性係官が冷静な声で、スマートフォンの位置情報を確認したことを告げ、すぐにパトロールカーを向かわせることを約束してくれた。

 電話を切ると、レニーは改めて辺りを見まわした。

 彼女の叫びにミセスロシェット以外、誰も反応した様子はない。

 車はすでに何台も行き交っているが、近くを歩いている人間はほとんどいない。

 どこかで車のドアが閉まる音がしたが、公園の入り口にやってくる人影はなかった。朝一番のバスが遠くに見えたが、公園前のバス停には誰も待っていない。


「もうすぐ警官が来ます。でも、その前に確かめたいことがあります。ミセスロシェット、ここに座っていてもらえますか。何かあったら声をあげてくれれば聞こえる距離ですから」

 老婦人がにこやかにうなずいたのを確認して、レニーは若い女が駆けて来たほうへ向かった。

 このあたりはプラタナスなど背の高い木が生えていて、秋には葉が大量に落ちる。プラタナスの下には石畳の散歩道が造られてはいるが、もちろんその道をはずれてもその上を歩くことが可能だった。短い下草が生えていて綺麗に手入れされている。雨が降ればぬかるむが、この短い草のおかげで泥だらけになるほどではない。もっと暖かくなれば、家族連れがささやかなピクニックをしていることもある。

 ただ、今の時期は、茶色く枯れていてその下に萌黄の若草がのぞくにはまだ少し早かった。しゃくしゃくと霜に濡れた枯草を踏みしめながら、レニーは女の言ったくぼ地へと急いだ。

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