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第三部 闘争 30

「やだ、水沢元官房長官が自殺よ。ホテルで手首を切ったみたい」

 スマホでニュースをチェックしていた麻衣子が驚きの声を上げた。

「へえ。昨日は記者会見をやるって息巻いていたのにな」シャワーを終えた伸也は、タンスからジーンズを出して穿き始めた。「きっと表面だけつっぱってても、内面は弱気だったんだろうな」

「ま、あいつなんか死んでも誰も同情なんてしないわね。パワハラから始まって収賄に政治資金法違反、挙げ句の果てには愛人の妊娠中絶と透明症娼婦売春疑惑でしょ。よくあんな人が官房長官になってたって感じ」

「おい、スマホばっかり見てないで、早く化粧を済ませとけよ。そろそろ出ないと間に合わないぞ」

「はーい」

 ダウンジャケットを羽織り、二人はマンションを出た。外はひどく寒く、吐く息が白い。地震が起きてから既に半年が過ぎている。世界は相変わらずカオスな状態だったが、被害が少なかった日本では落ち着きを取り戻しつつあった。透明症に対するヘイトも、マスコミによる大々的なキャンペーンと警察による取り締まりの強化で、一頃よりは落ち着いてきていた。

 近くの駐車場に止めてある麻衣子の軽自動車に乗り、高円寺へ向かった。コインパーキングへ車を止めて、奈緒のいるアパートへ行った。

「お待たせ」

 ドアを開けると殺風景な部屋に、黒のタートルネックに白いスカート姿の奈緒がいた。

「荷物はそれだけ?」

 麻衣子が奈緒の横にあるピンクのスーツケースを見た。

「うん。かさばる物はもう送っちゃったから」

「伸也、よろしく」

「はいはい」

 伸也がスーツケースを持ち、三人は外へ出た。奈緒がアパートに鍵をかけ、小さく息を吐いた。階段を降り、三人でコインパーキングへ向かった。奈緒は怪我の影響で、少し左足を引きずって歩いていた。もう元に戻ることはないという。パーキングに着き、軽自動車へ乗り込んだ。スマホのナビを開いて、羽田空港を入力した。高円寺からおよそ三十分。搭乗時間には充分余裕がある。

 奈緒から宮崎に移住すると言われたのは今年に入ってからだった。唐突な話に伸也たちは驚いたが、既に何度か宮崎へ行っており、住むところも決めたという。

 理由は三つあって、一つは温暖なところ、もう一つは生活費が安いこと。最後の一つは、自分にとって全く縁がない場所だということだった。

「人生をリセットして、新しいところで一からやり直したくなったの」

 仕事は安田に紹介された宮崎の透明症コミュニティのメンバーから、事務の仕事を斡旋してもらうという。それ以外にも簿記の勉強をしており、将来は経理の仕事に就きたいと言っていた。もちろん歌手になる夢も捨てておらず、透明症の中までバンドを結成する話も進んでいるという。

「いい、寂しくなったりトラブルがあったりしたら、すぐ連絡するのよ」

「うん、ありがとう」

 麻衣子がうるさいぐらいに念を押すたびに奈緒はニコニコと返事をした。

 羽田空港のターミナルで伸也はスーツケースを奈緒に渡した。

「今までありがとうございました」

 奈緒がぺこりと頭を下げた。

「お礼を言うのは俺たちの方だよ。あの歌がなかったら、俺たち死んでいたかも知れない」

「あたし、必ずもう一度あんな歌を歌ってみせるわ」

 奈緒が強い目でつぶやいたとき、宮崎行きの搭乗案内のアナウンスが聞こえてきた。

「じゃあ、行ってきます」

 麻衣子が奈緒を抱きしめた。

「絶対に生きていくのよ」

「大丈夫。だって、あたしの中には北村さんが生きているんだから。あたしが死んだら北村さんだって死んじゃうでしょ。そんなことはあっちゃいけないの」

 奈緒は強く抱きしめる麻衣子をゆっくりと離し、スーツケースのハンドルを掴んで歩き出した。左足を引きずっているにもかかわらず、足取りは力強い。

「じゃあね」

 ゲートを抜けた奈緒は一回振り返って大きく手を振った。伸也と麻衣子も手を振り返す。彼女は再び歩き出した。

「行っちゃった」麻衣子が横を見る。「次は伸也よ」

「俺はもういいよ」

「よくない」麻衣子がキッと睨み付ける。「伸也はDROPを背負って行かなきゃいけないのよ」

 伸也の携帯電話がバイブレーションし始めた。肩に掛けていたサコッシュから携帯を取り出す。

「雄大さんか」

 伸也がわずかに顔をしかめた。

「早く出なさいよ。スポンサーにご報告があるんでしょ」

 伸也はますます顔をしかめながら画面をタップした。

「宮本です」

「伸也、今どこにいる?」

「羽田空港ですけど」

「じゃあ品川のティンマスっていうカフェを知っているか」

「スタジオの近くにあるところですね。何度か行ったことがあります」

「そこで打ち合わせをしよう。十二時までには行くから。よろしく」

 電話が切れた。

「どうだった?」

「品川のティンマスへ行けとさ。こっちの都合なんか聞きやしない」

「別にすることがないって知ってるからでしょ」

「まあそうだろうけどさ」

 伸也たちは品川へ移動し、指定したカフェへ行った。イギリスの田舎をイメージしたという、白い壁にアンティークな木製テーブルが並ぶインテリアの店だった。二人はミルクティーを頼み、時間を潰していると、黒いステンカラーコートを着た大柄な男が入ってきた。

「おうっ、待たせたな」

 雄大は伸也たちに笑顔を見せながら、コートを脱いだ。紺のスーツにストライプのネクタイを締めている。椅子に座り、ストレートティーを注文すると、ブリーフケースからタブレットを取りだした。

「クリエイティブオガワからイメージ図ができてきたんだ。見てくれよ」

 画面に白を基調としたカラフルなCG画像が映し出された。かつてのDROP一階の受付が描かれている。

「基本はDROPと同じなんだが、荒川さんは割とミニマルなデザインが好きだっただろ。俺はもっと派手なインテリアにしたいんだ。こんな感じだ」

 タブレットの画面をタップすると、壁が暗くなり、キラキラと光が点滅し始めた。

「どうだ、星空をイメージしているんだ。都会の異空間を演出するんだ。更にエレベーターから上に上がってみるぞ」

「雄大さん」伸也は興奮気味に喋る雄大を遮るように話し出す。「肝心のホールの目処は付いたんですか」

 雄大の眉間に皺が寄る。「いろいろとあたっているんだがな……」

「インテリアより前にホールを探すのが先じゃないですか」

「それはそうなんだが、進められるところは進めよう思ってさ」

「インテリアデザインなんて、お金を出せばいつでも作ってくれますよ。問題はホールと銀行じゃないですか。これが解決しない限り、どうにもなりませんよ」

「銀行もさっき幾つか行ってきたんだかな、まだ審査中だそうだ」

「伸也、雄大さんのせいじゃないんだからそんなに強く言うのは止めなさいよ」

 麻衣子がむっとした表情で割って入る。

「わかってるよ。俺はDROPを再開させるプロジェクトに反対じゃない。だから出資もしているんだ。だけど、まだその時期じゃないと思っているんだ。事件が起きてからまだ一年も経過していないんだから、オーロラダンスにホールを貸すところなんてあるはずないよ。また焼き討ちに遭ったらひとたまりもないし。銀行も審査中なんて言っているけど、要はオーロラダンスの運営会社になんか口座を開設したくないんだろ。透明症イコール反社みたいな空気が変わらない限り無理だよ」

 伸也と麻衣子のやりとりを聞いていた雄大の眉間に、皺が寄っていく。その目からは、怒りの熱を帯びた炎が覗いていた。

「伸也、お前が言ってることはお前以上にわかっているつもりだ。だがな、俺はいても立ってもいられないんだ。ダンサーやスタッフは今、アルバイトでどうにか生活している状態なんだ。ダンサーの中にはもう見切りを付けて止めていく奴も出ている。原野さんもコンビニでバイトしているんだぜ。あの世界的なMEがだよ、コンビニの床掃除しているんだ。もちろんコンビの仕事も大切さ。でもあの人にはもう一度MEとして活躍して欲しいんだ。このままだと、オーロラダンスのカルチャーが消えてしまう。だから一刻も早く再開させなければならないんだよ」

 伸也にも雄大の焦りは痛いほどわかっていた。しかし再開のハードルはあまりに高い。仮に再開できたとしても、透明症に対する偏見がかつてなく強い中、これまでのようにお客さんが来るのかわからない。それに人材という面もある。地震以降、透明症を発症例が消え、その状態がずっと続いている。このまま透明症の発症例がなくなれば、三十年後、確実にオーロラダンスは消える。

「俺はこの世界に透明症がいる限り、オーロラダンスという文化を花咲かせておきたいんだよ。それが透明症だというだけでひどい扱いを受けてきた俺たちの存在証明なんだ。わかるだろ」

 伸也と麻衣子は、雄大の熱を帯びた語りに頷くしかなかった。


 カフェでそのまま昼食を食べた後、伸也たちは雄大と別れ、駐車場に止めてあった軽自動車へ乗り込んだ。

「さて、家へ帰るか」

「だめ、午後はジムで汗を流すの。今日はランニングもしていないし」

「わかったよ」

 そう返事を返事をしたものの、正直モチベーションは上がっていなかった。再びステージに立てるかわからない中、体を作ってもしょうがないという思いもあった。

 麻衣子は車を発車させ、幹線道路へ出た。他の車が溢れ、若干渋滞気味の中、不意にごついSUVがウインカーを出さずに前へ割り込んできた。とっさにブレーキを踏み、クラクションを鳴らしたが、SUVは素知らぬ様子で前を走って行く。

「全く、腹立つわ」

 麻衣子がむっとした表情で前を睨み付けた。

「軽自動車だから舐められるんだよな。もっと大きい車に買い換えようか」

「いいの。これで充分」

 麻衣子が即座に否定した。

 軽自動車を借りている新宿の駐車場に止め、そのままジムへ行った。トレーニングウエアに着替え、軽くストレッチをしてからエアロバイクにまたがった。

 足を動かしながら、いっそのこと、オーロラダンスから一切手を引いてしまおうかとも考えた。そう思うと、モチベーションが下がり力が入らなくなってきて、プログラムの途中で漕ぐのを止めてしまった。麻衣子がつかつかと歩み寄ってくる。

「途中で止めちゃったでしょ。どうしたの」

「気分が乗らなくてさ」

「ちょっと来て」

 麻衣子は伸也の手を引っ張り、廊下へ連れ出した。二人きりになったところで腕を組み、睨み付ける。

「まさかダンスを止めようと思っているんじゃないよね」

 図星だ。伸也はため息を吐くようにつぶやく。「正直そう思ってる」

「だめよ。確かに伸也はお父さんの遺産で食べていけるわ。でも、ダンスをやるのはお金を稼ぐためだけなの?」

「別に親の遺産で食べていこうとは思っていないよ」

「嘘。じゃなんでさっき車を買い換えようなんて言ったのよ」

「それは……」

 思わず言葉に詰まる。いくら突っ張っていても、心の片隅では確かにそんな思いはあった。

 今村家の代理人を名乗る弁護士が現れたのは三ヶ月ほど前のことだった。きれいに手入れした髭を蓄え、きめ細かい生地を使った紺のスーツが、体の一部のように馴染んでいる男だった。新宿暴動で亡くなった父、今村誠の遺産相続についての話だった。弁護士は父親の資産状況について説明し、金銭のみでの相続を提示した。父が保有する土地建物及びレストランチェーンを保有するトレミティホールディングスの株式は、同社の取締役を務めている弟の邦明が相続する。

「弟はトレミティの社長になるんですか」

 弁護士は困ったような顔で首を少し傾げた。

「私からはなんともお答えようがありません。まあ、常識的に考えれば近い将来社長になるでしょうね」

「弟はちゃんとやっていけるんでしょうか」

「その点も、私はお答えできる立場ではありません。ただ、邦明さんもお若いとはいえ、大学を出てから片腕として精力的に働いておりましたし、しっかりと会社を運営していくのではと思いますが」

 奥歯に物が挟まったような物言いになっているなと思っていたが、弁護士の意図を理解して、伸也は静かに微笑んだ。

「大丈夫です。僕はトレミティの経営に加わるとか一切考えていませんから」

「いやいや、私は決してそんな思いでお答えしたわけではありませんので。誤解を与えてしまい、申し訳ありません」

 言葉とは裏腹に、弁護士はわずかに頬を緩めていた。

 邦明とは彼が十歳の時から会っていないので、思い浮かぶ顔も十歳のままだ。別れるときに泣きじゃくっていた弟が、社長になるなんて信じられない。誇らしいと思うと同時に、一人で大丈夫なんだろうかと思い、心配になる。

 トレミティで家族四人、食事をした時が目に浮かんでくる。邦明がはしゃいで食事をこぼし、それをいさめる母親、父はその様子を見ながら微笑んでいる。母もいなくなり、父もいなくなった。あのときはもう永遠に帰ってこない。

 邦明と会いたいと思った。

 しかしそれは叶わない。トレミティの次期社長の兄が透明症であることは知られてはいけない。弟も公表するつもりはないのだろう。だからこそ弁護士をよこしてきたのだ。

 それに父の死因は自分にある。自分が辻田と対決しなければ、父はあんな悲惨な死に方をしなかったはずだ。弟に平気な顔で会えるような根性は持ち合わせていない。

 伸也は弁護士が提示した書類すべてにサインをした。これで弟とも縁が切れんだと思う。

 翌年伸也の口座へ金が振り込まれたが、所詮血塗られた金だった。今までの貯金額より桁が三つ増えていたが、高揚感はなかった。DROPの再開で雄大に資金提供を申し出たのも、オーロラダンスの再興を願うというより、半ば投げやりな気持ちだった。

 狂った群衆に殴り殺された父親。無念だっただろう。彼が生きていた頃は自分を捨てた父が憎らしいと思ったこともあった。しかし今となってはそれが愛情の裏返しでしかなかったことに気づいていた。

「いい、お父さんも、貴斗も死んだのは伸也の責任じゃない」

 ことあるごとに麻衣子は言ってくれた。伸也もそう思う。しかし心の奥底では消えない炎がチロチロと燃え続け、自分を責め続けている。体のふらつきも相変わらずだった。メンタルクリニックへも通っていたが、改善しなかった。


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