第三部 闘争 29
奈緒は意識を回復したものの、片方の腎臓と大腸の大半を失った。人工肛門を装着しなければならないという。ひどい話よと麻衣子は憤ったが、奈緒は淡々と事実を受け入れているようで、二回目の手術を終え、退院に向けて筋力を付けるため、リハビリを始めていた。
伸也と麻衣子がお見舞いで奈緒の病室に来ていたときだった。扉が開き、安田の巨体が入ってきた。伸也が立ち上がり、出て行こうとする。
「待てよ。今日は透明症に関する情報を伝えに来たんだ。お前らも知りたいだろう」
「伸也、座って」
麻衣子の言葉で渋々座り直す。
安田は自分で持ってきた折りたたみ椅子を開いて座った。椅子が重みでミシリと音を立てた。
「まず、辻田立ちとお前たちの戦いに関する情報は特定機密に指定され、三十年以上公開されないことが内閣で承認された。同時に極秘裏に勧められていた透明症に関する研究はすべて停止する」
「それって、もう透明症の治療を放棄したってことと同じじゃないですか。公の研究は真実から遙かに遠い」
「そうだろうな。もう一つ付け加えると、仮に真実へ近づいた研究者がいたとしても、EMOが潰すだろう」
「ひどい話ね。国はあたしたちも、これから透明症になる子たちも見捨てるって訳ね」
「麻衣子の話は半分当たっているが、半分間違っているんだ。この話はそのうち大々的に報道されるはずだが、実はあの地震以降、透明症を発症している人間はいないんだ」
「えっ、一人もなの?」
「そうだ。全世界で透明症を発症した者は一人もいない」
「どうしてそんな風になってしまったんですか」
「これはあくまでも仮説だが、時空のゆがみと関係があるのではということだ。
最初に透明症の報告がされてから、地球の重力場の変動が激しくなったそうだ。重力なんてもは地質や地殻変動で、多少は変わるものだが、それでも透明症が発見される前と後では変動幅が大きく違っていた。それがあの地震以降、元に戻ったらしい。発症だけなら偶然かも知れないが、透明症の終わりと同一なら偶然ではあり得ない。そこで出た結論が、一般相対性理論で言う時空のゆがみに異常が起きていたのではないかということだ。透明症もその異常により発症していた可能性がある」
「でも、もう研究はしないんですね」
「今のところはな。この方針は日本だけじゃない。米国、EU、中国も同意している。何しろ、人類は核反応だけでさえまともに管理できないんだ。対消滅の技術まで手に入れたら、ちょっとしたアクシデントで地球が吹き飛びかねない。
情報が漏れれば必ず技術を手に入れようとする輩が出てくる。そうなれば、透明症患者は狩られて実験台にされる可能性が高い。情報の封印は俺たちを守るためでもあるんだ。恐らくすべての情報が公開されるのは、最後の透明症患者が亡くなってからだろう。
最後に藤岡からの伝言だ。
『CP対称性の破れによってこの世界に物質が存在しているように、善と悪との対立と相互作用によって、わずかに悪より善が上回り、人類はようやく存続してきたと思っている。お前が見ている悪の中にも、わずかに善へ変わっていく場面もあるはずだ』以上だ」
安田は小さく笑った。「あいつらしい比喩だ。もっとも、こんなメッセージを託す自体、あいつらしくないがな」
「いったいどういう意味なんですか?」
「この宇宙が始まった直後、物質と反物質が対生成と対消滅を繰り返していたんだ。対生成の時、物質と反物質は同量だった。これが対消滅したら、物質も反物質も残らないよな。ところがこの宇宙は反物質はなく、物質で満たされている。恐らく反物質が物質に転換する現象があったと考えられている。これがCP対称性の破れという奴だ。
あいつは善と悪も同じだと言いたいんだ。世の中には善と同じくらい悪が存在してせめぎ合っている。しかし中には善なのか悪なのかわからんこともあるだろ。正しいことをやろうとして悪に染まったり、一見悪に見えながらも、本当は正しいことにたどり着いたりとかさ。それが相互作用って訳だ。そんな中で落胆したり絶望しながらも、わずかに正しいことがされてようやく人類は生き残ってきた。
お前は悪いことをしたが、同時に正しい行為だった。そうストレートに言えばいいのにな。めんどくさい奴だよ」
安田が病室から出ていった。麻衣子がため息をつく。
「伸也と奈緒と北村さんがこの世界を救ったのよ。なのにこの事実を教えることはできないって、どういうことよ。奈緒はひどい怪我を負ったし、伸也も心に傷を負った。北村さんは死んじゃったのよ」
「北村さんが死んでいるとは限らないよ」
「この世界から消えちゃったんだから、死んじゃったのと同じよ」
「違う」それまで黙っていた奈緒がポツリとつぶやいた。「北村さんは生きている」
「北村さんの居所について何か知っているのかい」
奈緒は微笑みながら少しだけ首を振った。
「出会ったのは夢の中だけ。だから喋らないでいようかと思ってたんだけど。普通夢って、見たあとからどんどん薄れていくでしょ。でもね、北村さんと会ったときの夢はずっと鮮明のままなの」
「どんな夢を見たの?」
「あれはあたしが貴斗に殺されかけて、意識を失ってたとき。ほら、臨死体験とか言うのがあるでしょ。あたしも経験したのよ。聞きたい?」
伸也と麻衣子は無言で頷く。奈緒は溢れ出る思いを留まらせるかのように、両腕で胸を抱きしめるながら話し出した。
「あのとき、夢の中であたしは暗い山道を歩いていたの。そうしたら、前に川が見えてきた。なぜか川は光り輝いていたわ。川辺に着くと、空にキラキラ輝く満点の星が散らばっていた。川の水は澄んでいて、ゆったりした流れ。
川の中へ入っていく。冷たくて気持ちがよかった。足下は川底の石がはっきり見えるけど、すぐ先は深くなっているのか、青黒くて底まで見通せなかった。その青黒い場所に人が浮かび上がってきた。死んだお父さんだった。
あたしを見てニコニコ微笑んでいた。こっちへ来なさいと言っているみたいだった。あたしは引き込まれるようにして、深い方へ歩き出した。ふくらはぎまであった水が、膝までつかり、すぐに腰にまできた。ああ、あたしこれで天国へ行っちゃうんだなって思った。
そのとき、あたしの手を掴む人がいたの。
振り向くと、そこに北村さんがいた。じっとあたしの目を見て言った。
「奈緒さん、あなたは生きるんです」
どうしてって聞いたのよ。今までこんなに苦しい思いをしてきたのに、希望なんて一つともないのに、死にかけてるのに、どうして生きろなんて言えるのよって。
「それはあなたに希望が残っているからです。希望と生きる、それは同じ意味なんですよ。いくら真っ暗闇に見えていても、生きていれば希望はあります。見えないというなら、それはちょっと見失っているだけなんです。落ち着いて辺りを見回せば、きっと見つかるはずです。
奈緒さん、あなたは生きている。まだ希望があるんです。
北村さんの手はがっちりとあたしの手を掴んで離さなかった。あたしは川から引き上げられた。
川の中にお父さんはもういなかった。星空も消えていた。川も暗くなっていって、真っ暗闇になったところで目が覚めたの」
奈緒は一気に喋って大きく息を吐いた。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「これって、あたしの頭の中で出来た幻なのかもしれない。でも、北村さんは凄く生き生きとして現れていた。あたしの中では確かに北村さんが生きているの。伸也君が聞きたい情報とは違うかも知れないけど」
「いや、いい話を聞かせてもらったよ。ありがとう」
奈緒はキラキラした笑顔をして頷いた。
一台の黒塗りのランクルが靖国通りを西に向かって走っていた。右手に巨大な門が見えてきたところで、ランクルは右折してその門へ入っていく。
門柱には「防衛省」と刻まれた銘板が取り付けてあった。門は格子状の柵があり、ヘルメットを被ったいかつい男たちが立っていた。ランクルが停車して初老の運転手が窓を開け、カードを差し出した。男が受け取り、センサーをかざす。
「減塩音頭普及協会理事櫻井様、十時四十五分から水沢官房長官とのご面会ですね。運転手さん、規則ですので、ちょっと両手を広げて手のひらを見せていただけますか?」
運転手が手を広げてみせる。警備の男がタブレットに「震えなし」とつぶやきながらタップする。
「済みませんが、後ろの方もお願いします」
後部座席の窓が開き、三角眼で生白い肌をした男が顔を覗かせる。爬虫類のように表情の消えた顔で男を見つめながら、ゆっくりと手を広げて見せた。
「ありがとうございます」
男の異様な雰囲気に気圧されながら、警備の男はタブレットをタップした。柵が開き、ランクルは防衛省の中へ吸い込まれて行く。
「何が減塩音頭普及協会だ。竹井も下らん肩書きを思いつきやがって」
「水沢様も重要政策として健康立国を掲げておりますから、当たり障りのない面会者として都合がよかったのでしょう」
ランクルは防衛省の広大な敷地内にある一棟のビルの前で停車した。首相官邸がテロで破壊されている中、仮の官房長官室がこの建物に設置されていた。
「では、行ってらっしゃいませ」
藤岡は無言で頷き、ランクルから出た。秋が深まるにつれて日差しは弱くなっていたが、それでも藤岡にとっては太陽光は不快だった。まぶしさで顔をしかめながら、足早に階段を上って日陰へ入り込んだ。カードをかざしてビルの自動ドアを開け、中に入る。エレベーターで三階に上がって静まりかえった廊下を進み、右側のドアを開けた。
「櫻井様ですね。お待ちしておりました」
グレイのスーツを着た美しい女性秘書が、腰から頭まで一直線になったきれいなお辞儀をすると、奥の部屋のドアをノックして少し開けた。
「櫻井様がお越しです」
入れてくれとダミ声が聞こえてくる。
「どうぞ」
ドアを開けた秘書に軽く会釈しながら中に入る。
「やあ、よく来てくれました」
水沢は立ち上がり、人なつっこい笑顔を浮かべながら小太りな体を揺らせて握手をしてきた。だが、ドアが閉まると同時に仏頂面へ代わり、さっと手を引っ込めた。
「いったい何の用だ。お前らがお得意のPQC回線でリモートすれば充分だろ」
「重要なお話がございまして、今回リモートでは失礼かと思いまして」
「何が失礼だ。いつもろくでもないことばかり起こしやがって、俺がどれだけお前の尻拭いをしてきたと思っているんだ」
「恐縮です」
水沢は応接セットのソファへふんぞり返るように座り、タバコに火を点けた。
「座れ」
藤岡が水沢の前に座る。
「本日はEMOでの情報漏洩に関しまして、ご報告に伺いました。今回グロウ側に情報が漏れたようで、業務に大きな支障をきたしました」
「ほう、いったい誰がそんなことをしたんだ」
「EMO職員の身体検査を実施しましたが、疑いのある職員は発見できませんでした。EMO以外に情報が行くのは内閣府であるため、内閣府の関係者にも身体検査を広げました」
「で、そんな不届き者は見つかったのかね」
「はい」藤岡は爬虫類のような冷ややかな目はそのままに、口角だけを上げて微笑んで見せた。「私の目の前にいらっしゃいます」
「寝ぼけた話をするんじゃない。ここにいるのはお前と俺だけだ。まさか俺が犯人だと疑っているんじゃないだろうな」
「いいえ、疑ってなどおりません。官房長官、我々はあなたが犯人だと断定しました」
「お前馬鹿か……何で俺がグロウなんかに情報を漏らさなきゃならないんだ」
水沢は藤岡を睨み付け、声を荒らげたが、藤岡は動じない。冷たくて爬虫類のような表情のない三角眼で、水沢を見つめ続けていた。
「私も人からサイコパスと呼ばれておりますが、官房長官も相当なサイコパスの資質をお持ちのようですね。不安な素振りはおくびにも出さない。さすがライバルを蹴落とし続け、官房長官の座に上り詰めたお方だ」
「証拠を出せ」
「少々お待ちを」
藤岡はスーツの内ポケットから携帯電話を取りだし、動画を表示させる。
「長官がこのような趣味をお持ちでしたとはね。意外でした」
ベッドの上で、裸の小太りの男が股を開いた透明症の女にのしかかり、激しく腰を振っている。男は水沢だ。
「場所は四谷のレインボウ整体院、昨年六月十五日の十時三十五分からの映像です」
「ディープフェイクだ」
水沢は声のトーンを落としてつぶやく。
「マスコミも馬鹿じゃありませんから、官房長官の主張が正しいか、画像分析のプロに確認を取るはずです。それに、私どもは矢田悟とも協力関係にありまして。ご存じですよね」
「そんな奴は知らん」
「元グロウで透明症専門の女衒をしている男ですよ。彼からいろいろな話を伺いまして。かつてグロウだったという過去を公表されたら、通常の生活は著しく困難になりますからね、官房長官のことは洗いざらい喋りましたよ。
彼の話によると、相当なVIP待遇だったそうですね。レインボウ整体院にある奥の部屋は官房長官専用だそうで、施術室というよりホテルというインテリアでした。我々もすっかり騙されましたよ。
日常の通信手段は男性トイレのゴミ箱だったそうですね。そこにお互いのメッセージ入れて情報のやりとりを行っていた。清掃人がグロウだと判明しています」
水沢はタバコを一服し、まだほとんど減っていないタバコを灰皿に押しつけて腕を組んだ。
「で、仮にそれが事実だとして、俺に何をしろと言うんだ」
「責任を取っていただきます。長官からの情報漏洩により、国家が危機に晒され、私の部下や一般市民にも多数の死者が出ました」
水沢が肩を震わせながら笑い出した。その様子を藤岡が表情を変えずに見つめている。
「俺がこの話を否定したらどうする。今並べた戯言をマスコミに公表するのか。そうしたらお前らEMOの存在も明らかになり、大量の違法事案が世間に晒されるぞ。責任者のお前は告発され、刑務所行きだ」
「おっしゃるとおりで」
「俺はお前の話をすべて否定する」水沢はガラスのような冷たい目で藤岡を見つめていた。「だいたい俺を誰だと思っているんだ。おつむが弱いお前は知らないかもしれないがな、俺はお前の上司なんだよ。今月でお前を課長職から解任する。異動先はそうだな、国交省に出向して、網走港湾事務所なんてのはどうだ。去年視察に行ったんだが、大自然に囲まれて、なかなかいいところだったぞ。冬は一面雪景色だし、オホーツクの海へ行けば流氷も見放題だ」
水沢は一人声を上げて笑った。
「お前も日本のフーバーとか言われていい気になっていたかもしれないが、実態はただの小役人さ。俺に楯突くなんて千年早い」
「残念です」
「用は済んだだろ。とっとと帰れ」
「承知しました」
藤岡は立ち上がる。
「裏霞へ戻ったら、私物の整理をしておけ」
藤岡はドア口の前で振り返り、深々とお辞儀をする。
「長い間、お世話になりました」
水沢はそんな藤岡を無視して二本目のタバコに火を点けていた。だから顔を上げた藤岡が、ニタリと笑って自分を見ているのには気づいていなかった。
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