第5話(3)
「何だ、言っていなかったのか」
アーキソン教授は何でもないことのように言い、ちょっと首をかしげて私の方を見た。
「私は、シエラ君に事情を話しても構わない、と言ったはずだがね。まあ、君なりの判断だったのだろうから、べつに構わないが。
さて、シエラ君。改めて言うが、そういう事だ。ベキム君がこちらに来たのは、私の依頼を遂行するためだ。例の写本をハパールク氏から買い取る手伝いをしてもらっているのだよ。そうだな、ベキム君? 」
私は黙って頷いた。さっきまでとは打って変わって、部屋の中の空気が冷たくなっている。親しく話していた相手が、一瞬のちにはこちらを不信の目で見てくる――探偵という因果な商売をやっていると、よく出くわす状況だ。慣れるものでもないが。
「ここで話すのもなんだ、私の研究室に来たまえ。彼を借りて行っても構わないかね、シエラ君? 」
「……どうぞ、ご自由に」
シエラの声に、怒りはなかった。まだ、何が起こったのかよく分かっていない様子だ。私は弁解しようかと思った。別に、彼女を陥れるために近づいたわけでもなければ、アーキソン教授の側に肩入れしているわけでもない。私は、それこそ、真実を明らかにするために――だが、考えれば考えるほど、思いつく言葉は言い訳じみていった。シエラを納得させるどころか、私自身さえ、そんな言葉には微塵も説得力を感じなかった。
「では、行こうか、ベキム君」
刺すような視線を背中に受けながら、私はアーキソン教授と共にシエラたちの研究室を後にした。
私たちはさらに階段を上り、建物の最上階へと向かった。そう言えば、アーキソン教授の研究室もこの棟にあるということだった。
古びた廊下や、日焼けした壁紙の色合いには、なんとなく見覚えがある。
「この建物はずっと昔のままだからな、懐かしいんじゃないかね? ヴァーニ君の研究室もこの近くだからな」
私の考えを見通したかのように、アーキソン教授が唐突に言う。なるほど、道理で見覚えがあるはずだ。
アーキソン教授の研究室は、最上階の一番奥にあった。ドアを開けると、薬草の匂いがむっとするほどに強く漂ってきた。
「しばらく換気しなかったものだから、ちと空気が悪いな。堪えてくれ……薬草は私の趣味でね。色々と調合して、自家用薬草酒を作るのが楽しみなのだ」
アーキソン教授は親指で壁際の棚を示した。なるほど、深層から出土した美術品や書籍などに混じって、薬草を浸した酒瓶が並んでいる。専門は文学と神学だということだったが、見回した限りではそういった資料にとどまらず、生活風景を描いたリトグラフや実用品と思しき食器なども散見される。
「随分と、雑多なものを置かれているようですが」
「『うちびと』文化には、まだ闇の部分が多い――文学研究には、背景となる風俗への深い知識が不可欠だ。専門外だからと言って、目を瞑ってばかりもいられん。薬草酒だって、レシピは『うちびと』が遺したもののアレンジだ。ま、こちらは単なる趣味の部分が大きいがね」
アーキソン教授は肩をすくめ、デスクの前の回転椅子にさっさと座り込み、こちらを見上げた。
「さて、経過報告はまだかね? 」
こちらには椅子を勧めようともしない。私は仕方なく、手近の資料棚に寄りかかりながら喋りはじめた。
「その前に……色々と、話の違うところが出てきたんですがね。心当たりがあるんじゃあないですか? 」
アーキソン教授は、眉ひとつ動かさなかった。
「何のことかね? 」
私はその射すくめるような眼光にたじろいだ。こちらを欺こうとしている者の目とは思えない。疑いや不安を知らぬ目だ。私は気勢をそがれながらも、棚に寄りかかったまま話を続けた。
「まず、写本がハパールクの手に渡った経緯。あなたは『ハパールクがアカデミーから写本を買いあげた』と言ったが、ハパールクの方では『先代が発見者に写本を売りつけられた』という話を聞かされました。どちらが正しいんです? 」
「それはもちろん、私だ」
あまりに無造作に断言したので、一瞬聞き違いかと思った。私はまじまじとアーキソン教授の顔を見た。教授は私の目を、刃のような瞳で睨み返した。
「彼の話は先代からの伝聞だろう。恐らく、聞き違いか何かだ。発見した私が言うんだから、間違いはない」
自信たっぷりの口調だった――真実を語っているとは思えないほどに。あまりにも確信に充ち溢れすぎていた。
そもそも、アーキソン教授はハパールク家が代替わりしていることを知っている。そうでなければ「先代」という言葉は出ないはずだ。当事者のうち生きているのはアーキソン教授だけだ。彼の言葉を直接否定するすべは無いと知っているからこそ、こうも自信を持って語れるのではないのか?
私は疑った。だが、確証がない。シエラの論文と同じように。
「他にも……ハパールクの経済状況は相当悪化しています。今の当主になって、商売を変えてからはずっと下り坂だ。
だが、こんなこと調べるまでもなかった。ちょっと登記所まで出向いたら――いや、ちょっと人の噂でも聞いたら、すぐに分かることですよ。それなのにあなたは、私に調査を依頼した」
「単純に、知らなかったからだ」
またも、事もなげにアーキソン教授は言う。
「商業界の噂などというものには、縁がない暮らしをしておるのでな。登記所へ行って他人の財産を調べる、などという方法も知らなかった。どちらにせよ、そういう調査にプロを雇うのは、自然なことではないかね? 」
またも確証不足だ。そう言い切られたら、こちらには反証のしようがない。
「どうも君は、余計なことを考えすぎる……まあ、それなりの成果は上げているようだがな。それで、どうだ? 写本は手に入りそうか? 」
「難しいところですね……どうやら、我々の他にも、写本に目をつけている連中がいるようでして。それとなく、ハパールクの方の腹を探ってみましたが、いくら吹っかけてきたと思います? 5千万ですよ、5千万」
「それは、また……」
ここで流石に教授も渋い顔をした。
「だが、いかに貴重な資料とはいえ、5千万ゾルの金を出すことは出来ん。アカデミーの運営上、現実的に考えて無理だ」
「相手も、最初の提示額だから目いっぱい吹っかけてきたんでしょうがね。だがまあ、それだけの額をつけている間は、おいそれとヨソへ売られることもないと言えます。策を講じる時間が出来たということです。ここはカネでの解決を諦めて、ハパールクの身辺から交渉材料を探すのが実際的なんじゃないかと思いますが」
私の言葉に、意外にも教授はさして熱意を見せなかった。
「うむ……君の言い方を借りれば、紳士的恐喝だな。まあ、やってみてくれたまえ。競争者がいるとなると状況は厳しいが、まあ、やれるだけのことはやらなければな。
……ところで、そんなにもハパールクの台所事情は厳しいのかね? 骨董品を売りに出すことを真剣に考えるほどか? 」
「考えるどころか。私の見立てどおりなら、既にハパールクはコレクションの一部を吐き出し始めてますよ。教授がご存じなかったということから考えて、恐らくは、裏のマーケットへ」
私は歯抜けになっていた書棚のことを教授に話した。古書に対する無知を突かれ、蔵書を買い叩かれたらしいということも。アーキソン教授は――またもや、意外にも――落ち着いた様子で、特に怒りや驚きを示すこともなく話を聞いていた。
「どうせ、そんな末路だろうと思ってはいた。成金趣味や投機目的で貴重な文化遺産を買い集める者は、だいたいそういう目に遭う。想定内だ。
本心を言えば、すべての資料を保護したい。だが、アカデミーの力では出来ることと出来ないことがある。君はあくまで、あの写本のことだけを考えて動いてくれたらいい」
私は黙っていた。これはどういう意味を持つのだろうと、考えながら。
私のカン通り、アーキソン教授が捏造者だったとしたら、あの写本だけにそんなにもこだわる理由は一応つく。だが、それをわざわざアカデミーの予算で、アカデミーの蔵書として買い戻す狙いが分からない。よりにもよって自分が捏造した資料を、アカデミーに置いて研究させようなどと思うだろうか? それとも、よほどの自信があるのか。今までの件と同じく、贋物と断定されるような証拠は出ないだろうという確信があるから、そんなにも泰然としていられるのか?
いずれにせよ、全ては写本を手に入れてからだ。私は一旦疑いを棚に上げ、新たな話題を出した。
「ところで……教授は、メイユレグという団体をご存知ですか? 」
「メイユレグ……メ=イユル=イェグだな。聞いたことくらいはある」
アーキソン教授は静かに頷いた。
「主に深層で活動する、魔神崇拝の過激派だそうだな。それが、どうかしたか? 」
「お詳しいですね。以前ジョルダンスン教授に聞いたときは、ご存じなかったんですが」
「ヴァーニ君は、こう言っちゃなんだが、夢想家だからな」
アーキソン教授は、親が幼い子供の悪癖を語るような口ぶりで言った。
「彼は深層に何度も潜っているし、『うちびと』の歴史や文化に関する知識においては私でさえ一歩譲るほどだが、ある部分に関してはこちらが驚くくらい無知というか、無垢なのだ。『うちびと』ならみんな、独自の歴史を持ち文化を愛する民だと思っている。連中も人間だという実感に乏しいんだろうな。純粋な研究者の悪癖だ。
『うちびと』だって、愚かで、独善的で、考えなしの欲望や歪んだ使命感に突き動かされる生き物――つまり、純粋人類と同じ生き物だというのにな」
私はうつむいた。いくばくかの怒りと、それよりも大きな諦めが胸にあった。恩師を悪しざまに言われたことに対しては憤っていたが、血気にはやって言い返そうと思うほど、私は熱くなれなかった。理性が、教授の言の正しさを――極端ではあるものの――認めていた。
「……なにも『うちびと』のモラル論や、ジョルダンスン教授の人格についてお聞きしたいわけではないんです。脱線して、すみませんでした。
実は、我々の競争相手と言うのがそのメイユレグではないかという疑いが出てきましてね。まだ、お聞かせするほどの証拠も揃ってはいないのですが。何か教授の方で、心当たりはありませんか? 」
「魔神崇拝の教団が、あの写本を? 」
今日初めて、アーキソン教授は純粋な驚きを見せた。
「いや、分からない……まったく初耳だ。深層の商人に話を持ちこむくらいは私も想定していた。第3大隧道で売ったら、良くない風評が流れるからな。しかし、そういうきなくさい連中が寄ってくるとは思わなかった。
その話、確かなのかね? 」
「断言は出来ませんがね……メイユレグの構成員が、あの屋敷の周りをうろついていたらしいんです。私も、それらしき連中を見かけました」
かなりハッタリを混ぜた。「亜人の胡散臭い連中が屋敷を出入りしていた」という話を聞いたのは確かだし、実際にメイユレグの一員と見られる胡散臭い矮鬼人が第3大隧道へ昇ってきたのを見たのも事実だが、それだけだ。それをメイユレグの暗躍のようにまとめて話したのは、アーキソン教授に脅しをかけ、少しでも真意を推し量るためだ。
あまり、成功したとは言えなかった。教授はすぐに冷静さを取り戻した様子だった。
「君の言うことを頭から信用してオタつくのもバカげている。だが、君は一応プロだ。君の判断にはある程度価値を置くつもりだ。
依頼内容に、多少の追加をしよう。ハパールクの身辺を見張ること。ハパールク自身の怪しい動きを監視するのはもちろんだが、加えて彼に対する第三者の動きにも警戒してくれ。メイユレグでも誰でも、過激な手段に訴えるようなら、それを察知しハパールクに危害が及ばぬよう計らってほしい。いけ好かない奴ではあるが、写本を守るためでもあるしな。私やアカデミーが協力できる部分は、協力しよう」
「少々面倒になりますね。量的な意味でも、仕事が増えそうだ」
言われるまでもなく、ハパールクの身辺は見張るつもりだったが、私は一応そう言っておいた。アーキソン教授は、からかうように大袈裟に眉をひそめた。
「まあ、暇はあるだろう? 若い連中と遊ぶのをやめれば、な」
私は帽子の下から教授を軽く睨んだ。さっきの今で、この言いぐさだ――まったく、人の神経を逆なでするのが上手いお人だ。涼しい顔のアーキソン教授をしばらく睨みつけた後、諦めて軽く会釈すると、私は研究室を出た。




