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冷血探偵  作者: 曲瀬 湧泥
~ かくて幕は降り…… ~
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第5話(1)

 一晩明けても、頭の中にかかった靄は晴れなかった。


 食堂でコーヒーを飲みながら、これからのことについて思案した。情報は出揃ってきたが、揃えば揃うほど分からなくなることばかりだ。アーキソン教授が写本を自ら売ったというのは事実か? 写本の周りにちらつく亜人の影――連中は、メイユレグなのか? この依頼には、まだ、私の知らない何かが隠されている。

 だが、そこに至る道が分からない。


 憂鬱な気分で今日は何をしたものか考えてみると、前の席に誰かが座った。


「おはようございます……前、よろしいですか? 」


 シエラの、屈託のない笑顔があった。私も笑顔を返す。


「やあ、おはよう……君も朝食をここで食べるのかね? 研究員だから、寮住まいではないと思ったが」


「安いですし、研究室からも近いですからね」


 シエラは皿の上の目玉焼きをフォークで突きながら笑った。ショートカットの髪には、風でも吹いているのかと錯覚するくらいの寝癖が残っている。飾り気のない木綿のシャツにむき出しの二の腕がまぶしい。


「ベキムさんは今日は、どうされるんです? 」


 何の気なしに口に出された質問だが、私にとっては痛い言葉だ。何をするともまだ決まっていない、とはどうも答えづらい。


「そうだね……本当だったら、ジョルダンスン教授にも挨拶をしなければならないところだが」


 適当に思いつくままを言ってみると、シエラは浮かない顔をした。


「残念ですけど、教授は今、外界のアカデミーで会議に出席されていて、1週間はお戻りにならないんです。タイミングが悪かったですね」


「フーム」


 私はコーヒーをすすった。教授に会えれば、イユル=ゲマフの写本についてもっと色々聞けたかもしれないのだが……そこまで考えて、ふと、私は気づいた。そう言えば目の前にいる娘も、イユル=ゲマフの研究をしているんだった。


「そうだな。君の研究のことを、もっと聞いてみたいんだが? 」


「わ、私のですか? 」


 シエラは目玉焼きの切れ端をくわえたまま、目を丸くした。


「……そんなに驚かなくたっていいだろう? 随分遠ざかってはいるが、私だって昔は考古学の世界に片足突っ込んでたんだから」


「あ、すみません。何と言うか、その……また、冗談言ってらっしゃるのかと」


 顔を赤らめながら言うシエラに、私は肩をすくめた。口説いてるだのなんだの言ったのはこっちだ。完全に私が悪い。


「これは、本気だ。悪かったよ、定期的にバカを言わないと鱗が剥がれて死ぬ病気なんだ。

 ともかく、イユル=ゲマフのことについて聞かせてくれないか? 時間は、あるかな? 」


 私の問いに、シエラはしばらく思案していたようだったが、


「それなら、私たちの研究室にいらっしゃいませんか? 今日はちょうどこれから、私の論文について討論会をやる予定なんです。ご一緒にどうですか? 」


「討論会? 」


私はちょっと尻込みした。


「そりゃ……立ち会わせてくれるというなら願ってもない話だが、何しろ何の準備もしていないもんでね。言ってることの半分も分からないと思うんだが、迷惑じゃないかね? 」


「大丈夫ですよ。概略は、昨日お聞かせした通りです。イユル=ゲマフの写本に関する私の論文が教授に否定されたのを受けて、これからどういう方向で論文作成を進めていくか考える、っていう会ですから。

 意見を言っていただかなくてもいいんです、聞いていただくだけで」


 目を輝かせながらシエラは言う。私も、そこまで言われては断れなかった。


 シエラの研究室は、寮から少し歩いたところに建つ小さな棟の中にあった。アカデミー研究棟考古学第1館。アカデミーでも最も古い建物の一つで、ジョルダンスン教授ら、古株の教授陣が使っている棟だという。私はシエラに連れられて板張りの廊下を歩き、軋む階段を上って、研究室へと向かった。


 研究室の中では2、3人の若者が円卓につき、何やら話し合っていた。いずれも、研究者のようだ。円卓の上には書類や書籍が乱雑に投げ置かれている。


「おはよう、みんな。さっそくだけど、今朝のミーティングにお客様を連れてきたの」


 シエラは私を全員に紹介した。


「ベク=ベキムさん。ジョルダンスン教授から話くらいは聞いたことあるでしょう? みんなの大先輩よ」


「正確に言うと、『先輩』ではないんだがね。私は手伝いで、学生ではなかったし」


 私は小声で補足した――が、誰も聞いてはいなかった。たちまち私は、若者たちに取り囲まれた。


「うわぁ、本物の蜥蜴人種(リザードマン)だ……初めて見た! 」


 黒ぶち眼鏡をかけた若い男が、ため息交じりに言う。オーバーオールを着た、背の低いおかっぱ頭の女性研究員が、私の顔をまじまじと見上げている。その手は顔の横あたりを行ったり来たりしている――私の顔に触って、鱗が本物かどうかでも確かめたいのだろうか。人とのスキンシップは嫌いでもない私だが、流石にこれには辟易した。


「ほらほら、みんな、ベキムさんに迷惑でしょう? そのくらいにして、今日の討論会を始めましょう」


 パンパンと手を叩きながらシエラが言い、円卓に座る。研究員たちも私から離れて席につき、ようやく私はひと息つけた。


「ベキムさんはイユル=ゲマフの話に興味をお持ちなの。それで、今回の討論会を聞いていただくことにしたのよ。今日は気合入れて、先輩にお聞かせしても恥ずかしくないような議論にしましょう」


 シエラは笑いながら言う。どうやら、私は研究仲間にハッパをかける材料にされたようだ。眼鏡の研究員が反論する。


「僕らがいつ、恥ずかしいような議論をしたって言うんだい。いつだって真剣にやってるじゃないか」


「その、真剣さがダメなのよアンタは。ちょっと反論されるとすぐ顔真っ赤にして、人の声をかき消すくらいの大声でがなり立てちゃってさ」


 おかっぱ頭の娘がからかうように言う。


「そんな……そういう言い方は不公平だ! 僕は……」


 立ち上がりかける眼鏡の男を、隣に座っていたもう一人の男が笑って制止する。


「まあ、まあ。内輪で喧嘩をしてたら、お客さんが退屈するぜ。とりあえず討論会を始めよう。今日はシエラの論文の件だったね。予備論文を提出した後、アーキソン教授にさんざんとっちめられたが……さて、どうするか、という話だ」


「お手柔らかに、お願いするわ」


寝癖を気にしながらシエラが答える。私は、円卓から少し離れた場所にある椅子に腰かけた。

 彼ら――というか、シエラの立場は、アーキソン教授とは対立する。彼女らはあの写本がニセモノだと考えているのだ。私も、これから仕事の方向性を定めるにあたって、その点ははっきりさせておきたい。だが、彼らの考えにあまり染まりすぎてもいけない。教授とシエラ、両方の立場からの話を聞いて、私は私なりの判断で動くのだ。


「とっちめられた、とは言うけどね。僕が聞く限りでは、ありゃ反論とは言えないよ」


 眼鏡の男が、神経質そうな声で言う。


「写本の正当性を裏付ける根拠を何一つ出さないで、シエラの論文の些細なところばっかりあげつらって――結果的に、論文自体に信憑性がないようなイメージを他の教授陣にまで植え付けようとしてたじゃないか」


「当たり前じゃない。あの写本の資料価値に関する疑問を投げかけたのはシエラなんだから、主張の根拠を用意するのもシエラの義務よ」


 おかっぱ頭が冷静な声で言う。すかさず、眼鏡は食って掛かる。


「君は、いったいどっちの味方なんだ? 」


「真実の味方。私も、シエラもそうよ。そうでしょ? 」


 おかっぱ頭に言われて、シエラは頷く。


「ベキムさんにも昨日言われたわ。私の予備論文には『不自然だと思える点』は挙がっているけど、写本が確かに後世のものだと結論付ける明確な根拠がない。材料のことだって、歴史的整合性のことだって、根拠とするには薄弱だし情報が少なすぎる。もっとはっきりとした証拠が欲しいわ」


「とは言え……肝心の写本が人手に渡ってるのが痛いんだよなあ」


 もう一人の男が腕を組みながら渋い顔で言う。


「ハパールクさんは、本当に、どうしたんだろう? ほんの1と月前までは、写本を貸し出してくれるって言ってたのに。急に渋りだすなんてなあ」


「そうね……あら、どうかしました? 」


 シエラは私の方を見て怪訝そうに言った。無理もない。私は思わず、椅子から立ち上がり円卓ににじりよっていたのだ。


「ちょっと失礼。今、ハパールクと言っていたが……」


「ああ、ご存じありませんよね。ハパールクさんというのは、現在の写本の持ち主で……」


「その点は結構。問題はその後です。1と月前と? 」


 シエラは仲間と顔を見合わせた後、不思議そうな表情で答えた。


「ええ。これまでも何度か、ハパールクさんのお宅を訪れて写本を読ませていただいたりしたんですけど、やっぱり本格的な調査をするためには、借り出して研究室に持ち帰りたいということになりまして。『写本の価値が損なわれるんじゃないか』って心配するハパールクさんを、随分説得したんです。それでなんとか話がまとまりそうだったのに、1と月ほど前になって、急に……」


「前々から言ってるじゃないですか、深層の連中ですよ! 」


 眼鏡がきんきんした声で口を挟む。


「僕、見たんです。ハパールクさんの家から、明らかに純粋人類じゃない怪しい奴らが出て来るのを。身なりは商人風にしてましたけど、きっとあいつら、深層の盗賊ギルドかどこかの回し者ですよ! きっと、うまいこと言って写本を買いたたくつもりでいるんだ。まったく、深層の連中ときたらカネに汚くて……」


 そこまで言いかけて、おかっぱ頭に袖を引かれて眼鏡はハッと我に返った。「純粋人類じゃない」私が同席しているのを、やっと思い出したのだ。真っ赤になって汗をかきながら、眼鏡は口の中で何やらもごもごと弁解した。が、私はそれどころではなかった。


 怪しい亜人の一団――メイユレグか? それが、1と月前?

私は今まで、ハパールクが売値を釣り上げている以上、敵も自由には動けないだろうとタカをくくっていた。その内に策を講じるつもりだった。だが……敵は既に、「策を講じて」いるというのか?

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