結
「どうも、あまり割に合わない仕事をさせてしまったようで、申し訳ありませんね」
私は鼻を鳴らした。
「初めっから、どうやったって間尺に合う依頼じゃなかったさ。頼んだ君が、一番よく知ってるだろうに、ジギー」
ジギーは笑いながら、シェーカーを手に取った。
「まぁ、そうおっしゃらず……今日は、存分に呑んで行ってください。依頼の報酬兼、残念会ですよ」
私は『空に星』亭のカウンターに腰かけていた。もちろん、照明が届かない端っこの指定席だ。ジギーはいつも通りの笑みをたたえ、いつも通りの一部の隙も無い完璧な装いで、カウンターの向こうに立っていた。
だが、私にはその目の中に、拭おうにも拭い去れない空しさが宿っているのを見て取れる気がした。
「ファントム・レディの話は、誰かにしたのか? 」
私の問いに、ジギーは首を振った。
「うちの店主は、何をしに行ったのかしつこく聞いて来ましたがね――何も言いませんでした。これからも、黙っているつもりです。何故かと言われても、自分でもよく分かりませんがね。タネ明かしをして他人の楽しみを奪うこともないという思いやりなのかもしれないし、ファントム・レディの正体を、自分でも認めたくないだけかもしれない。
そもそも、ファントム・レディ伝説の全てが、あの麻薬から生まれたものとも限りませんしね。まだ、幻の酒がどこかに眠っている可能性は残されているんだ」
ジギーは笑った。今まで、私が見たことのない笑みだった。彼がいくつか齢をとった証拠のようだ――私は何故だか、そんな気がした。
「さて、まず最初の一杯は、私に選ばせてくださいませんか? 」
ジギーは言いながら、既にビンを選び出していた。
「そりゃ、いいが……何を作るつもりだい? 」
「ま、見てのお楽しみという事で……」
言いながらジギーはカクテルグラスを2つ取り出し、カウンターの上に並べた。続いてウオッカのビンを開け、片方のグラスに注ぐ。もう片方には、真紅のクランベリ・ジュース。
「それから、これを」
カウンターの下からジギーが取り出したのは、小さな陶器の皿だった。桜色をした小さな蝋燭が一つ、ちょこんと乗っている。その上でジギーが指を鳴らすと、指から散った火の粉が蝋燭の芯に灯った。炎の魔術だ。たちまち、白い煙が細く立ち上りだす。バラの香りだ。
「バラを加工した、アロマキャンドルです。さて、ここまでが下ごしらえでして……」
言いながらジギーは2つのグラスをゆっくりと持ち上げた。両手の契約印が光りだし、カクテルグラスの中身がゆらゆらと揺れる。今にも溢れそうだ。もうすぐグラスの縁を超えてしまう――超えた。だが、こぼれない。グラスの中の液体は、ゼリーのように震えながらもこぼれることなくグラスの中にとどまっている。
やがて、ジギーは突然両手を跳ね上げた。グラスの中身、赤いクランベリ・ジュースと透明なウオッカが、球となって宙に舞い、空中で衝突して、薄赤色の1つの球に溶け合う。その球をジギーはまず右手のグラスで受け止め、ついでそれを投げあげて左手のグラスに渡す。お手玉だ。水の魔術で酒の粘度を操って、ゼリー状にしているのだ。
そのままジギーは、キャンドルから立ち上る煙の中で幾度もお手玉を繰り返した。香り付けをしているのだ。やがて、液体にほんのわずか濁りが見えたころ、ジギーは両手のグラスを閉じ合わせ、液体を封じ込めた。そしてゆっくりとカウンターに降ろし、ぱくりと合わせ目を開く。水面が揺れて、2杯のカクテルがカウンターの上に並んでいた。
「お待たせいたしました、新作でございます。名前は……ファントム・レディ」
私はジギーの顔を見つめた。ジギーは無表情な笑みで答えた。先ほど読み取ったと思った、空しさや虚無の感情は、すっかり覆い隠されていた。いや、初めから、私の深読みだったのだろうか……よそう。あれこれ詮索できるほど、私は人間というものを知らない。
「ファントム・レディか……これがねェ」
私はグラスを取り、ふと気づいた。
「このカクテル、2つセットになってるんだな。もう1杯はどうするんだ? 」
ジギーの笑みが大きくなった。契約印に覆われた黒くしなやかな手が、もう1つのグラスを取った。
「時には、バーテンダーだって、酔う必要を感じる時があるのですよ」
ジギーは私に向かい、片目をつぶって見せた。私は口笛を吹いた。
「そりゃ、いいや……それじゃ、乾杯だ。幻の女に」
2つのグラスが、小さく澄んだ音を酒場に響かせた。




