第8話
雨音を聞いていると、心が沈んでくる。
私は鉱石珈琲をすすり、帽子をかぶり直した。『煮える大鍋』の店内は、どんよりとした静けさに包まれていた。客の声もいつもより低く、何か後ろめたいことでもあるかのようだ。相対的に、雨音が大きく響く。人を待っているのでもなければ、こんな憂鬱な雨の音をいつまでも聞いてはいられない。
待ち人は、だいぶ遅れてやってきた。黒のトレンチコートに黒の帽子を目深にかぶった、けた外れの巨体。私は少々おかしくなった。顔を隠そうというのだろうか? 顔だけ隠れたところで、あんな体の人間はそうそういないだろうに。
巨漢はまっすぐに私のテーブルに来ると、コートも脱がず向かいの席にどっかりと腰を下ろした。
「だいぶ、待たせちまったか? 」
「正直、本当に来てくださるとは思っていませんでした」
私はそう言って帽子を取り、バルナバス・ボルゴの顔を正面から見た。コートと帽子に隠れた顔は、相変わらず悲しげだった。
「組合の頭に、第6大隧道まで一人で来いとはな……厚かましいと言うか、胆が据わっていると言うか」
「事がデリケートな問題ですからね。それに、あなたの方だって何の策もなしに来てはいないでしょう? 」
私は鉱石珈琲の残りを飲み干した。
「知らない場所に待ち合わせで来た人間は、目当ての相手を見つける前に店内をひととおり見回すもんです。前もって様子見でもさせてない限り、入るなりテーブル目指して一直線なんてことはない。そう言えば、店内にも人相の悪いのが何人かいるようですね」
「どうでもいい話だろう、俺にとっても、お前にとっても」
ボルゴは言い、テーブルの上で両手を組み合わせた。
「それより、本題だ……娘はどうしてる? 」
「知り合いの所に預けてますよ。ああ、当然今回の件にも一枚噛んでるし、あと女性ですのでご安心を。本人は、大人しくしてる……と言うより、虚脱状態ですね。当然ではありますが」
ボルゴは静かに頷いた。
「ひょんなことでもしでかさないように、よく見張っといてくれ。いずれ、もっと上の階層か……場合によっちゃ、外の世界に出してやろうかと考えてるんだ。早く、忘れられるようにな」
「ほとぼりが冷めたら、すぐに送り届けますよ……それと、これ、一応」
私はポケットから、小さな金バッジを取り出し、テーブルの上に置いた。逆さになった杯。細い溝に、乾いた血がこびりついている。
「バークのバッジです。運よく、警備兵に見つかる前に回収できました」
ボルゴは丸っこい指を伸ばしてバッジをつまみ、しげしげと見た。
「……よく、教会の連中から隠しておけたもんだ」
「傷口に埋め込んでおいたんです。この一件で、傷痕だけはやたらと稼げましたからね。
それはそうと、あの後のことではお世話になりました。危うく、司教暗殺未遂で私刑にかけられるところでしたよ」
バークが射殺された後、中庭に入ってきた警備兵によって私たちは捕えられた。幸い、私が司教を逃がしたことを僧兵の何人かが覚えていたのと、抜け目なく逃げ出していたマフィが気を利かせてボルゴの組合に連絡を入れていたのとで、拘束は数日で済んだ。どうやらボルゴが裏から手を回したらしく、私だけでなくリディアの身許も、どころかバークの正体に関する詮索さえほとんどなかった。
「お前が、俺のことを吐いていないと分かったからな。義理には義理で答えなけりゃ、この稼業ではやっていけん……話はそれだけか? わざわざ呼びつけてまで聞かせたい話とも思えんが」
私は深く息を吸い込んだ。喋りだしたら、途中でやめるわけには行かない。
「……バーク・ビルボニーがなぜメイユレグに身を投じたのか、その理由を考えていましてね。彼は『赦し』という言葉を口にした――何を許されたかったのか? どんな罪を犯したというのか?
ボスの娘と通じたことか? いや、それだけでは、わざわざ『うちびと』の邪教に改宗する理由としては弱い。そもそもなぜ、バークはリディアの前から姿を消したのか? あなたに気付かれたから逃げ出した? そんなことを許すあなたとも思えないが」
「さっきから、何が言いたいんだ」
ボルゴは険しい目で私を睨んだ。だが、その声には、いくらかの不安が含まれていた。
「少し、昔のことを調べました。探し回ったら、覚えている人はまだ残っていましたよ。ビルボニーという姓の娼婦が、翡翠通りに居たと――20年以上前の話ですがね。彼女と一緒に暮らしていた男のことも聞きました。
バーク・ビルボニーは、あなたの息子――リディアの異母兄だ。違いますか? 」
ボルゴは黙っていた。雨音がひときわ高く響く。聞いていると、時間の感覚がなくなってくる。やがてボルゴは重い息をついた。
「あいつを生ませて間もなく、俺はあいつの母親を捨て、その代わりにのし上がった。その後であいつを探し出した時には、もう母親は死に、あいつもすっかり大人になっていた。
俺を恨んでもいいはずだったが、あいつは逆に、盲目的に俺を崇拝していた。あいつの母親がそう吹き込んだんだ。俺が大物で、場末の娼婦ごときと釣り合う人間じゃないと――そう言う事で、自分自身を納得させていたんだろう。
リディアとは、いつ知り合ったのか――第6大隧道にも使いに出したりはしていたから、その時にでも会ったのかも知れん。異母妹がいることは知っていたが、顔までは知らなかったからな。最初のうちは何も知らずに付き合いだしたらしい。
俺が2人のことに気付いた時、バークも既に俺とリディアの関係を知った後だった。俺は話し合おうとしたが、もう遅かった。あいつは俺を裏切ったと思い、俺に宛てた短い手紙だけを残して姿を消した。リディアや、周りの連中は後を追おうとしたが、俺が許さなかった。手紙も握りつぶした。あいつに、もうこれ以上重荷を背負わせたくなかったからだ。逃げて、どこかで新しい暮らしを始める気なら、そのままそっとしておいてやりたかった……」
「このことを、リディアには? 」
ボルゴは目を閉じ、首を振った。
「知らせずに済ませられるものなら……と思っていた。バークの立場を考えたら、追い討ちにもなりかねんしな。だが……なあ、俺は、間違っていたのだろうか? 彼女は、真実を知るべきだと思うか? 」
「それを、私も聞きたかった。彼女を預かっている身としては、調べたことを彼女に伝えたものかどうか、迷うところですからね」
バークは両の掌で顔を覆い、肩を落とした。
「……リディアは、知りたがっているのか? バーク・ビルボニーが、何者かを」
「まだ、何とも」
私は肩をすくめた。
「今は、何も考えられない状態といったところでしょう。だが、いつまでも隠しておけるかどうか……」
「黙っていてくれ」
顔を隠したまま、ボルゴは唸るように言った。
「話す時が来たら、つまり、あの子が知りたいと思う日が来たら、俺から話す。それまでは――勝手な話かもしれないが、黙っていた方が、あの子のためでもあると思う」
私は黙っていた。彼の判断が正しいのか正しくないのか、誰がどうすべきなのか、何を言う権利も私にはない。私はただ自分のエゴで仕事をし、人を一人助け、一人死なせた。その、結果だけがある。
「何にしろ、お前には借りができた」
ボルゴはやがて、ゆっくりと顔を覆っていた手を下ろし、帽子をかぶり直した。太い指が震えていた。泣きたいのだろうか――私はふと、そう思った。立場が、この男から泣く自由を奪ったのだ。たるんだ頬が、抑え込んだ感情を反映して歪んでいた。
「この借りは、いずれ、必ず返す。必ずだ」
「そのうちまた、夕飯をたかりに行きますよ。それで結構」
私はそれだけ言って、席を立った。ボルゴはこちらを見ることもなく、椅子に巨体を預けていた。お互いに、ただ自分のセンチメントを抱え、それを咀嚼するだけで精いっぱいだった。
外は雨。私は雨に肩を打たせながら、駅までの道を歩いた。コートを滴り落ちる水滴の感触と、全身の傷を這う鈍く熱い痛みだけが、私の意識を現実に縛りつけていた。
雨は当分降りつづきそうだ。




