第3話(後)
『煮える大鍋』のウェイトレスは、私の顔を見て、馬車に踏み殺されたイヌの死骸でも見たかのような顔をした。何を食ったのかは知らないが、朝食をもどす寸前という表情だ。
ま、仕方あるまい。包帯は半分がたとれたとはいえ、未だ鱗は生え変わる途中で、無残なつぎはぎ跡がそこらじゅうに残っているのだから。実際にもどしもせず、殊勝にも注文を聞いてきたあたり、プロ意識に頭が下がるというものだ。
体の方も、服に隠れてはいるが傷だらけだ。第5大隧道の診療所を退院したのが、つい昨日のことである。まだ杖にすがってやっと歩いているような状態だ。
医者コンビの大きな方――ロギストンには、「そんな状態で仕事を続けるなんて狂気の沙汰だ」と言われた。バーディの方は「どうだっていいじゃねえか、俺たちの預かり知らないとこでくたばるんなら、知ったことか」と冷たく言った。
さて、体がそんな状態なので、注文を聞かれてちょっと困った。何しろ口じゅう傷だらけなのだ。尖った牙が生えている蜥蜴人種なんぞに生まれたせいで、こっぴどくぶん殴られるとまず口の中がズタズタになる。あんまりものを口に入れたい体調でもないのだが、仕方がない。鉱石珈琲のカプチーノをぬるめに入れてもらうことにした。
おっかなびっくりカプチーノをすすっていると、待ち人がやってきた。相変わらず、黒のドレスに顔を覆うヴェール。暑くないのだろうか。
「ああ、こっちです。お待ちしてました」
私が手を挙げて声をかけると、ミス・テアーは早足にテーブルの方へ歩いてきた。
椅子に座ろうとして、私のありさまに気付いたらしく、ハッと息を呑んだ。私は肩をすくめる。
「ま、よくある事です。お気になさらず。座ってください。コーヒーでいいですか? ここのは鉱石珈琲ですがね」
「……何か、あったのですね」
震える声でミス・テアーは言った。
「まあ少なくとも、あなたの恋人があまり優しい友達と付き合っていないということだけは、よく分かりましたよ」
口を動かすのに苦労しながら、私はそう言った。ミス・テアーは黙って、椅子に座った。
私が「恋人」と言ったのにも無反応だった。カマをかけてみたつもりだったのだが、図星だったのか、あるいは気づかないほど動揺していたのか――私はさらに話し続けた。
「まあ、まずは報告から……確認しましたよ。確かに、『眠る蛇』にバーク・ビルボニーは居た。メイユレグという、得体の知れない連中と一緒にね。とは言っても、監禁されてるだとか、嫌々一緒にいるという様子ではなかった。むしろ、認められたがっているというか、積極的に仲間に加わろうとしているというか……そのおかげで、私はこういうザマになりましたがね」
「……バークが、やったのですか? それ」
そっと、私の顔を指さす。私は帽子のひさしを少し下げた。
「お気遣いは結構です。ありがたいんですがね、女性に優しくされるとすぐ勘違いするたちでして。
ま、それはともかく、依頼の『連れ戻す』って部分に関しては、ご覧のとおり見事に失敗しましたよ」
「 彼が、認められたがっているという話でしたけど……本当に、その人たちがバークを帰さないのではないんですか? 」
「個人的な印象ですがね」
私は帽子のつばに触れ、考え考え言葉を続けた。
「少なくとも私の見た限りでは、リーダー格の男と普通に話をしていたし、酒場の中でも特別監視されているような様子はなかった。それに、『証』という言葉を口にしましたよ。メイユレグの中で、何らかの『証立て』が必要らしい。心当たりはありますか? 」
ミス・テアーは首を振った。
「さあ……そもそも、その、メイユレグというのは、どういう人たちだったんです? 」
「詳しくは、分かりませんでした。ただ、リーダーは『雑種主義』だの『多様性による統一』だの言ってましたね。『うちびと』の時代の魔神を崇め、亜人と呼ばれる『うちびと』の血族の地位向上を目指す――そんなところじゃないでしょうか。純血を憎む、とも言ってましたっけ。あんまり、穏やかで楽しい連中じゃないようですよ」
ミス・テアーは、じっとうつむいたまま何か考えているようだった。
私は少し意外に思った。今の話の中に、彼女が考え込むような情報が混じっていただろうか? 『うちびと』や古代の魔神などには縁のない暮らしをしていそうだが。
やがてミス・テアーは顔を上げた。
「それで、これからどうするべきでしょう? 」
「そこです、問題は。私としても、殴られるのはあんまり好きじゃないんでね。出来れば同じアプローチの仕方は御免こうむりたい。どうも彼は、探されるのが嫌なようでね」
「……それは、諦めた方がいいと、そう仰ってるんですか? 」
緊張のにじむ声で、ミス・テアーは詰め寄ってきた。私は慌てて手を振る。
「そういうことじゃありません。ただ、今のままでなら私にこれ以上のことは出来ないと申し上げているんです。どこの馬の骨とも知れない探偵に説得されて、戻ってくるような相手とも思えない」
「つまり、どうしろと? 」
「素性を、明かしては頂けませんか?
せめて、あなたが誰で、なぜバークに戻ってきてほしいのか――これを伝えられれば、あるいは状況が変わるかもしれない。いや、私に教えてくださらなくても結構。手紙でも書いて、キッチリ封をして預けてくださればいい。覗かれるのが心配なら、追伸に『開封した跡があった場合、持ってきた探偵の皮をはいでサイフにしてやってください』とでも書いとけばよろしい」
長い沈黙があった。ミス・テアーは、明らかに苦しんでいる様子だった。何のための苦しみか? 自分の身が危険にさらされることを恐れているのか、それとも……やがて彼女は、黙ってハンドバッグの中から紙包みを取り出した。
私が見つめる前で、ミス・テアーは分厚い紙包みをテーブルの上に置いた。
少しの沈黙。
「……どういうことです? 」
沈黙を先に破ったのは私だった。
「あなたには、感謝しています。それと、申し訳なくも思います」
ミス・テアーはきっぱりとした調子で言った。ヴェールの向こうの目が、私を真っ向から見据えているのが感じられた。
「でも、もう、これで十分です。依頼は完了ということで、これは残りの報酬です」
「……私も体調がすぐれないもんでね。あまり冗談に付き合える体力がないんですよ」
言いながら、私はヴェールの向こうの目を見据えた。ミス・テアーは動ずる様子もなかった。
「すべて、忘れてください。このお金は、そのためのお金ということです。それに、あなたにとってもその方がいいでしょう? そんな、危なくて辛い目に遭うよりは――」
「私にとって何がいいか、何が悪いかは、私自身で決める」
声が震えた。危うく、拳でテーブルを叩いてしまいそうになった。そんなことをしていたら体じゅうの骨に響いて悶絶していただろう。
「あなたも、忘れろと言うのか……今さら、調査を打ち切れと? ぼろ屑のようにぶちのめされた挙句、何も分からなかったというのに? 」
「何も分からなくて困るのは私であって、あなたではないでしょう? その私が、これ以上はもういいと言っているんです。お金も全額お支払するのですよ? 」
ミス・テアーの口調も熱してきた。苛立ちが、声音を高くする。私も負けずに言い返そうとした――が、息を吸った瞬間、肋骨に刺すような痛みが走り、息が止まった。体を二つに曲げてゼイゼイ言っている私を尻目に、ミス・テアーはハンドバッグを持って立ち上がった。
「本当に、お力添え感謝しています。それだけは信じてください。でも、私たちのことには、もう関わらないでください。お願いします」
そう言って、小さく頭を下げると、ミス・テアーは急ぎ足で去っていった。私は、胸を押さえながらその後姿を見送ることしかできなかった。自分が虫けらか何かにでもなったような気がした。あるいは、ろくに動けないほどの傷を負い、依頼人にも愛想をつかされた、ろくでなしの私立探偵に。
しばらくそのままじっとしていると、心配したウェイトレスが近寄ってきた。
「あの……大丈夫ですか? お水、お持ちしましょうか? 」
「大丈夫、大丈夫だ。ありがとう」
私は何とかそれだけ、声を絞り出した。
「すまないが――コーヒーは残すよ。飲めそうにない」
「それは、結構ですけど……あの、どうなさったんですか? そのお怪我」
私は、動かしづらい表情筋を無理に動かし、どうにか笑みを作ろうとした。
「男と女が一つのテーブルにつき、やがて女が出て行って、傷だらけの男が一人残る――と来たら、もう分かるだろう? 痴話ゲンカだよ」
命がけのジョークは、しかし、ウェイトレスにはまるで受けなかった。




