「見て見ぬふり」と「四面楚歌」
家に帰ると航は書き初めをしていた。
半紙にでっかく達筆な字で「見て見ぬふり」と書かれていたので、何やってんのよ、と聞いた。
航は、今年の宿題は座右の銘なんだ、と答えてからカルピスソーダを飲み干した。
「見て見ぬふり」
この言葉が、ガラスの破片のように胸を突き刺す。
同調してくれる人はいる。同じ噂に加われる人もいる。
でも、誠実さなんてどこにもない。
本当の両親が打ち解けたのは職場でビリー・ジョエルというアメリカの歌手の話で盛り上がったからだという。
ビリーの歌で『オネスティ』という歌がある。
オネスティ。直訳すれば「誠実」。
母が私に貸してくれた訳詩集には確か、誠実に対する虚しさが訳されていた。
今にして思えば、かなり意訳だったことに最近気づいた。
でも、正確な言葉に加えて、母の面影もだんだんと薄れていく。もう10年近く会っていないのだ。
当たり前だ、当たり前だけれど……。
その先を言っても何にもならない。そう知っているから、シャワーを浴びた。
一日の疲れを流していると、ふいに母親の言葉が浮かぶ。
「ビリーのベスト盤で『オネスティ』が収録されているのは日本向けだけなのよ」
そう嬉しそうに話す顔が急にはっきりと浮かんで、なんだか切ない。
その訳詩集をお母さんが肌身離さないまま実家に持ち帰ったこと。それは今でも忘れられない。
頭を乾かしていると、航が部屋をノックした。
「入っていい?」
「うん」
つるんとした卵顔にスベスベの肌。くりっとした目は同級生の女子からきっと構われるだろう。
「やっぱ、「見て見ぬふり」はやめるわ。なんかあてつけがましいし」
そう言って新しく書いた半紙を見せてきた。
「四面楚歌」
画数の多い四文字熟語だけれど、書道のお手本そのものの書体だった。私はため息をついた。
「直にあんたがそうなるよ」
「俺、結構人気者だよ」
習字道具を片付けさっさと出て行った。
うん、知ってる。そういうこと書いて許されるの、人気者だけだよね。
今の私にこんなこと、書けない。昔だって書けなかった。




