ヒデちゃん 9 魔女
胸騒ぎがして、目が覚めた。
心の星に導かれるように、奇漫亭へ急いだ。二夜月の夜は奇漫亭はお休みだった。なのに、息を切らせて扉の前に立つと、音もなく開いて、中からヒデちゃんが顔を出した。
「あれっ?」
驚いた顔をしていた。黙って扉を閉める。そして、静かに言った。
「そう、あなたも『幻の月』を見に来たの」
えっ、アヤカシノツキ?
ヒデちゃんは、北の空の一角をしめした。赤い月が見えていた。
ああ、あれが。
噂には聞いた事がある、奇漫亭があるのは幻商店街の東の外れだが、そのアヤカシ商店街のいわれになっているのが、二夜月の日に見える赤い、幻の月だった。一生に一度、見ることができれば運がいいと言われる、幻影の月。あたしはぼんやりと、その赤い月を見つめていた。
そこへ魔女が舞い降りて来た。箒に乗って飛んで来たのだから、やはり魔女なのだろう、黒い服も着ていたし。
「ハァーイ、ヒデちゃん」
魔女はそう言うと、にっこりと笑った。
彼女は、あたしたちの目の前でホバリングをしていた。彼女の足は、地面から十センチほど上で見事に停止している。歳はヒデちゃんと同じくらいだろうか、美人とは言えないかもしれないが、人を引きつけるような顔だちをしていた。
「マキさん」
彼女の顔を見て、ヒデちゃんは言った。
魔女のマキさんは、箒からひらりと降り立った。ヒデちゃんの側へ近寄ると、その両手を握りしめた。
「ひさしぶり」
彼女は言った。
「マキさんも、」
しばらく二人は黙っていた。
「キヨミから聞いたのね」
キヨミと言うのは、キヨミ娘娘の事に違いなかった。でも、ヒデちゃんの口から『キヨミ』なんて言い方を聞くのは初めて。
マキさんは、小さく肯いた。
「もうすぐ『魔女の渡り』が始まるのよ」
その場を沈黙を切り換えるかのように、マキさんは言った。
空をみると、東のほうから、小さな影が三つ四つと飛んで来ていた。だんだんと、その影は大きくなった。その影も魔女だった。箒に乗った魔女たちは、幻の月に近づいていった。そして、赤い光の中に飛び込んでいく。気がつくと、魔女の姿は消えて、同じ数の紫銀に輝く蝶が飛んでいた。紫銀の蝶は、わたしたちの側へ近づくと、くるくると二三回、旋回して見せた。
マキさんが手を振った。蝶たちは幻の月に向かった。そして、そのまま吸い込まれるように,姿を消していた。
「渡っていったわ」
ヒデちゃんは、また肯いた。マキさんは、何かを期待するような顔で、ヒデちゃんを見た。
「どうする、私と一緒にいく?」
えっ?
胸がどきんとした。さっきの胸騒ぎはこの事だと思った。泣き笑いのような顔をして、ヒデちゃんは、彼女を見た。言葉を紡ぎだすのがつらそうだった。だけどヒデちゃんは、きちんと言葉を区切って言った。
「わたしはここにいるわ」
なにも言わずに、マキさんは箒に乗った。
あたしは、なんとなくほっとしていた。マキさんの箒が、幻の月へ登っていく。あたしは、はっとして、ヒデちゃんの顔を覗き込んだ。ヒデちゃんの両目から光るものが落ちて行った。それは頬をつたって、ひとつの滴になっていく。滴は赤い光を浴びた。紫銀の蝶が一羽、幻の月へと向かって行くのが見えた。
その夜、無数の紫銀が、幻の月へと飛んでいった。