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ヒデちゃん  作者: 一条美紀あらため建水
10/25

ヒデちゃん 10 猫公卿

 新しいルージュを買ったので、勇んで奇漫亭きーまんてぃへ行った。薄桃色の新製品。ちょっと、唇が緊張している。

 奇漫亭の前で、猫が扉を引っかいていた。白い水干すいかん薄碧うすみどり小袴こばかまをはいて、素足だった。

「おたのみもうしまする、おたのみもうしまする」

 いまにも泣きそうな声だった。

 かわいそうに思ったので、扉を開けてやる。カウンターの上には、青い妖精がいて、いつものように挨拶をしてくれた。

「おふみでござりまする。猫小窓時計様ねこのまどときかずはおじゃられませぬか」

 ネコノコマドトキカズ?

 聞かない名前よね。あやめもカキツバタも首を横にふった。平安時代の雑色ぞうしきを思わせる猫は、おろおろとして、カウンターの前を輪

を描くように歩き回った。

「いそぎのおふみでござりまするのに、こまったでおじゃりまする」

 両手で頭を抱えて、猫は歩き回った。

 厨房からヒデちゃんが顔を出した。手におたまを持っている。あたしの顔を見て、にっこりと笑った。

「冷し白玉を作ったのよ」

 ちょっと季節が違うような気がする。でもいいか、冷し白玉、おいしいもの。

 猫の話を聞くと、ヒデちゃんは奇漫亭の奥の方に声をかけた。

「チックタック!」

 なるほど、猫のことは猫に聞くのが一番よね。

 のそりと、スコッティシュホールドもどきが顔をだした。あたしたちの顔を見て、にゃあと鳴く。雑色猫が、ぱっと顔を輝かせた。

「知っておじゃられまするか」

 ふところから、いそいそと、縦長の書状を取り出す。文箱に入ってないのがご愛嬌だ。チックタックは、その書状を口にくわえると、奇漫亭の奥へ姿を消した。

 しばらくして、奥の扉が開いて、男の人がやってきた。美形なのよ、しかも縦烏帽子たてえぼし直衣のうし姿だった。公家よ、お公家様よ、源氏物語の世界だわ。合わせはね、黒生地の下に紅梅こうばい重ね。浅沓あさぐつを履いて、ゆるゆるとこちらへ近よってきた。

「猫小窓時計でおじゃる」

 低い、いい声でその人は言った。いいわよねぇ、あんな声で恋の和歌なんて歌われたら、変な気になっちゃいそう。

「美しい姫でおじゃる」

 さりげなくあたしの手を取って、時計は言った。えへへ、美しい姫だって。

「口元は新しい紅でおじゃるな」

 うふふ、わかる、高かったのよこれ。

「麿はちょうど紅を切らしていたところ、好都合でおじゃる、その紅少々拝借していくでおじゃる」

 えっ、なに、待って、心の準備が、ふわりと抱きしめられた、香の匂いで、ぽーっとする。あっという間に、唇を奪われていた。

「こらー!」

 ヒデちゃんがカウンターに飛び乗って叫んだ。猫小窓に、手にしたおたまをふりおろす。さっと時計はあたしから体を離すと、直衣の右袖で口元を隠す。ううん、ヒデちゃんを一撃をかわした奴は、初めて見た。

「あまい」

 ヒデちゃんが叫んだ。おたまが飛んだ、烏帽子がふきとんだ。ぱっと公家と雑色猫の姿が消えた。

 ああっ、なにかもったいないような。

 かりかりと、奇漫亭の扉を引っかく音がした。扉を開けると、のそのそとチックタックが姿を現した。あれっ?

 抱き上げて、顔をのぞきこむ。

 口元に薄桃色のルージュがついていた。

 

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