ヒデちゃん 10 猫公卿
新しいルージュを買ったので、勇んで奇漫亭へ行った。薄桃色の新製品。ちょっと、唇が緊張している。
奇漫亭の前で、猫が扉を引っかいていた。白い水干に薄碧の小袴をはいて、素足だった。
「おたのみもうしまする、おたのみもうしまする」
いまにも泣きそうな声だった。
かわいそうに思ったので、扉を開けてやる。カウンターの上には、青い妖精がいて、いつものように挨拶をしてくれた。
「おふみでござりまする。猫小窓時計様はおじゃられませぬか」
ネコノコマドトキカズ?
聞かない名前よね。あやめもカキツバタも首を横にふった。平安時代の雑色を思わせる猫は、おろおろとして、カウンターの前を輪
を描くように歩き回った。
「いそぎのおふみでござりまするのに、こまったでおじゃりまする」
両手で頭を抱えて、猫は歩き回った。
厨房からヒデちゃんが顔を出した。手におたまを持っている。あたしの顔を見て、にっこりと笑った。
「冷し白玉を作ったのよ」
ちょっと季節が違うような気がする。でもいいか、冷し白玉、おいしいもの。
猫の話を聞くと、ヒデちゃんは奇漫亭の奥の方に声をかけた。
「チックタック!」
なるほど、猫のことは猫に聞くのが一番よね。
のそりと、スコッティシュホールドもどきが顔をだした。あたしたちの顔を見て、にゃあと鳴く。雑色猫が、ぱっと顔を輝かせた。
「知っておじゃられまするか」
ふところから、いそいそと、縦長の書状を取り出す。文箱に入ってないのがご愛嬌だ。チックタックは、その書状を口にくわえると、奇漫亭の奥へ姿を消した。
しばらくして、奥の扉が開いて、男の人がやってきた。美形なのよ、しかも縦烏帽子に直衣姿だった。公家よ、お公家様よ、源氏物語の世界だわ。合わせはね、黒生地の下に紅梅重ね。浅沓を履いて、ゆるゆるとこちらへ近よってきた。
「猫小窓時計でおじゃる」
低い、いい声でその人は言った。いいわよねぇ、あんな声で恋の和歌なんて歌われたら、変な気になっちゃいそう。
「美しい姫でおじゃる」
さりげなくあたしの手を取って、時計は言った。えへへ、美しい姫だって。
「口元は新しい紅でおじゃるな」
うふふ、わかる、高かったのよこれ。
「麿はちょうど紅を切らしていたところ、好都合でおじゃる、その紅少々拝借していくでおじゃる」
えっ、なに、待って、心の準備が、ふわりと抱きしめられた、香の匂いで、ぽーっとする。あっという間に、唇を奪われていた。
「こらー!」
ヒデちゃんがカウンターに飛び乗って叫んだ。猫小窓に、手にしたおたまをふりおろす。さっと時計はあたしから体を離すと、直衣の右袖で口元を隠す。ううん、ヒデちゃんを一撃をかわした奴は、初めて見た。
「あまい」
ヒデちゃんが叫んだ。おたまが飛んだ、烏帽子がふきとんだ。ぱっと公家と雑色猫の姿が消えた。
ああっ、なにかもったいないような。
かりかりと、奇漫亭の扉を引っかく音がした。扉を開けると、のそのそとチックタックが姿を現した。あれっ?
抱き上げて、顔をのぞきこむ。
口元に薄桃色のルージュがついていた。




