ヒデちゃん20 雲のパヴァーヌ
雨の晴れ間に奇漫亭へ行った。雲一つない青空だった。白いワンピースのすそを、誰かが引っ張っている気がして振り返る。小さな女の子がこちらを見上げて笑い掛けた。
少女と一緒に奇漫亭の扉を開ける。前坂さんが立っていた。ちょっと……。思わずあたしの目が点になる。ワンピースと同じ白いチュチュとタイツ姿の前坂さんは、両手を胸元を当てると大声で叫んだ。
「見ないで!」
前坂さん、女言葉になっている。ふたりの男が前坂さんを挟むように立っていた。耳の大きな三角形の仮面をかぶり、前坂さんに向かって言った。
「さぁ、やるのよ。ジュテからスーブルーソ。どじったらお仕置きだからね」
「そんなぁ、俺バレエなんか素人なんだってばー」
男たちは泣き言など聞かない、そんな顔をして前坂さんを睨む。白と赤と黒、三色のチュチュが空中で交差した。そろえた膝と爪先が伸びる。なるほど、あれがスープルーソ?
しかし、どう見てもこれは素人じゃ無理よ。案の定、前坂さんが見事にこける。それを見て男達が叫んだ。
「未熟者!」
前坂さんが助けてといった顔であたしを見つめる。いやあ、それは無理、助けてあげられないよ前坂さん。
「ファースト、お仕置きよ」
黒いチュチュを着た男が言った。大きな筆と紅い墨汁の入った容器を赤いチュチュに渡す。前坂さんの両頬に渦巻き模様が描かれる。
「今度どじったら額にお馬鹿って書くからね」
「いやあああ」
ヒステリックに前坂さんは叫んだ。赤い渦巻き模様がふるふると震える。
「無理よ、できないわたしにはできないわ。どうしておねえさまたちはそんな意地悪をいうの」
おねえさま? あたしはチュチュを着た男たちを見つめる。うーん、おねえさまはちょっとばかり抵抗があるかも。
「わたしはファースト」
赤いチュチュの男が言った。
「わたしはセカンド」
黒いチュチュの男が言った。
「でもわたしたちだけでは足りないの」
「どうしてもサードが必要なのよ」
前坂さんの体は引き起こされる。そしてダ・カーポ。額にお馬鹿と書かれた前坂さんはしくしくと泣いた。
男たちはため息をつく。
「駄目ね」
「使えないわ」
あたしは嫌な予感がする。急いで逃げようとすると、強い力で引き止められた。女の子があたしのワンピースを掴んで離さない。小さな子なのにすごい力だ。
「どうして逃げるの」
そう言って彼女は笑った。しまった、こやつもぐるか。
「スペアを使いましょう」
男たちがあたしに近づく。スペアってなに? ちょっと。あたしを目を見開いた。男達の手に白いチュチュが握られている。いつの間に……。
それは嫌。それを着るのは勘弁。ねっ、少し落ち着いて話し合いましょう。
そんな時、再び奇漫亭の扉が開いた。
「あら、何事なの」
「ヒデちゃん!」
あたしは叫ぶ。
「サードがいないのです」
ファーストが叫んだ。
「サードがいないと夏が始まりません」
セカンドもさけんだ。
びっくりしたヒデちゃんが、二人のチュチュを交互に見る。そして納得したように言った。
「あなたたち、もしかしてアワン?」
男たちが肯いた。
「サードがいないって」
「消えてしまったのです」
「逃げ出したのです」
ヒデちゃんの言葉に、男たちは口々に叫ぶ。
「そんな風には感じなかったけどなぁ」
両腕を組んでヒデちゃんは言った。
「ですから、その娘をサードに……」
男たちはあたしを指さして言った。あたしは大きく首をふる。嫌よ。
「デアルカ」
ヒデちゃんの後ろから声がした。
「アルベリッヒ!」
あたしは叫ぶ。
アワンたちがうめくように言った。
「妖精王さま」
プラチナブロンドの背の高い人はアルベリッヒ。ヒデちゃんの友人で妖精王。彼はあたりを見渡し、あたしの横にいる女の子に目を止めるとにやりと笑った。
「踊るがよい」
彼は言った。
「音楽は決して人を忘れぬ。調べに心を許し、無心で踊れ。さすれば必ずサードは現れる」
アルベリッヒは右手を背中に回す。その手にいつの間にかバイオリンの弓が現れた。
「バイオリンは近年接してはおらぬのだが」
左手を、まるでバイオリンを持つように形を作って見せる。
「美紀殿への馳走である。雲のパヴァーヌお聞かせしよう」
アルベリッヒは、何もない空間に弓を当てた。深い緩やかな調べが響いた。音楽に合わせて赤と黒のチュチュが交差する。やぁ、お見事だわ。
妖精王の音楽は、どれほど歌舞音曲に疎い人間でも、引き込まずにはいられない魅惑の音だ。額にお馬鹿と書かれた前坂さんもくるくるその場で回っている。目をとろりとさせた少女が、あたしのワンピースから手を離す。そして、軽やかに助走をつけると舞台めがけて跳んだ。
「開け!」
ヒデちゃんが叫んだ。奇漫亭の天井が消える。青い透き通るような空が見える。緩やかな白いローブを少女は身に纏う。ファーストが跳んだ。その肩にセカンドが飛び乗る。両腕を大きく空に突き上げる。その手の上に少女はふわりと舞い降りた。
「サードが来た」
「サードが戻ってきた」
赤と黒のチュチュが言った。
少女が膝を優雅に曲げ飛んだ。爪先が真っ直ぐに伸びる。スープルーソ。ファーストとセカンドも膝を曲げる。そして飛んだ。これもスープルーソ。
青い空の彼方で白いローブと二色のチュチュが重なり合う。アワンたちの口から白い煙が広がっていく。あれって……。
「アワン、それは我が眷属、雲の精霊である」
バイオリンを止めてアルベリッヒは言った。
えっ。あたしは驚いてアルベリッヒを顔を見つめた。
「夏の始まりをつたえる、雲のパヴァーヌ。見よ」
あたしは再び空を見つめた。アワンの姿はもう無い。
だけど……。
そこには、夏を告げる入道雲が見えていた。




