第八章 ~念仏は行者のために、非行・非善なり~
【私訳】
おまえの口から出てくる南無阿弥陀仏はな、おまえがおまえの意思で称える修行じゃない。
阿弥陀如来の本願が、はたらいている証拠なんだ。
おまえが率先して念仏することは、如来さまに感謝したり祈願したりするための道具じゃない。
すでに阿弥陀より願われていたから出てくるんだ。
おまえの奥底から貫き出る南無阿弥陀仏はな、阿弥陀さんの本願が、しっかりおまえのいのちを支えている証拠なんだよ。
それはおまえが望もうが望むまいが関係ない。
全てのいのちが如来によって願われているんだ。
感じるか?
問答無用に全てのいのちを「絶対救う」という阿弥陀如来の深い願いを。
おまえを「必ず救う」という願いだよ。
「本願」ってんだ、覚えとけ。
「愛しきすべての生命よ、ただ任せ、我が名を称えよ、必ず救う」
信じられなくても大丈夫だ。
阿弥陀さんがおまえの往生成仏を信じているから。
頭が自然に下がったか?
──称えよ、それが南無阿弥陀仏の念仏だ。
だからおまえにとって念仏は、修行でもないし、功徳でもない。
分かったか?
念仏は対価じゃないんだ。
でもな、たとえ間違えても問題ない。
分からなくてもいいんだ。
心配すんな、大丈夫だ。
まっすぐ自然に生ききって来い。
称えよ、すべては南無阿弥陀仏に成就する。
このことを、親鸞聖人が教えてくれたんだ。
【本文】
一 念仏は行者のために、非行・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。
ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々(うんぬん)。