第九章 ~念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと~
【私訳】
「愛しきすべての生命よ、ただ任せ、我が名を称えよ、必ず救う」
阿弥陀如来より、全てをまかせよと、声が届いていたんだ。
全てを許し、全てを受け入れ、全てを必ず極楽浄土に往生させると、本願がオレのいのちをささえていたんだ。
そのことは、痛いほど分かったよ。
どうしようもない、こんな残念なオレだから、阿弥陀さんの本願に、もう任せるしかないんだと。
本当によく分かったよ、泣きたいくらい分かったよ。
──でもダメなんだ。
とても苦しくて、たまらないんだ。
その如来大悲の願いが届いても、それが南無阿弥陀仏の念仏で、おれに響いても、躍り上がるほど嬉しくない。
全然、浄土へ行きたいなんて思えない。
苦しくて、全然、光が見えないよ。
阿弥陀さんがおいらを抱き留めてくれている。
でも全然安心できなくて怖いんだ。
もう大悲にすがるしか方法がないと分かっても、これしかないと分かっても、全然救われた気持ちにならないんだ。
──もう念仏しかない、って分かっているのに。
阿弥陀さんにまかせて、浄土に参らせてもらうしかないのに。
全然うれしくないんだよ。
どうしてオレはこんなにダメなんだ。
どうしてオレはこんなに分からんのか。
どうしたら、あなたのようになれるんだ。
どうか導いて欲しいと思い立って、それはなぜなんだと聞いたんだ。
ねばねばまとわりつく闇の奥底で、光を求めて聞いたんだ。
親鸞聖人に聞いたんだ。
──そしたらあの人は、しわくちゃな笑みをうかべて、うれしそうにほがらかに、慈愛に澄んだ眼差しで、オレを包んでこう言った。
「ああそうか。君も私と同じだったのか。
この親鸞も同じこころだよ。
私も常日頃、おかしいなぁって思っていたのだよ。
だからちょっと一緒に考えてみようじゃないか?
素直に如来の本願を、受け取ってみれば、空に飛び上がるほど嬉しくて、草原を駆け抜けるほどの快楽がある。
しかしどうしたことか、私も君もそれがない。
全然喜べないでいる。
──だからこそ、私たちの往生は決定していること理解しなさい。
とても簡単なことだよ。
阿弥陀如来に願われて、私たちは全員全部、成仏する。
信じられなくても大丈夫。
阿弥陀如来が私たちの往生成仏を信じているのだから。
それを「他力」というんだよ。覚えておきなさい。
──さあ、共に深い思考の旅を始めようか。
私たちは自力で浄土に往生するのだろうか?
違うね?
如来の本願によって往生するんだね。
──忘れてはいけない、それを「他力」というんだ。
でも君は、素直に他力本願に感動するべきなのに、ぜんぜん浄土には行きたいと思えないんだね?
他力による往生が、約束されていると分かっても、救われた気がしないんだね?
……そのことが、そんなに悲しく苦しいか。
ようこそようこそ、そこまで深めて自己を見つめたね。
心配しなくていい、それでいいんだよ、大丈夫、大丈夫。
どうして喜べないのか、簡単なことだ。
──その原因は、私たちに煩悩があるからだ。
煩悩が、君の素直なこころを曇らせているからなんだ。
私たちは毎日、自分の思いを思い通りにしようと悪戦苦闘だ。
思い通りになったなら、喜び、楽しみ、満足する。
思い通りにならなければ、怒り、悲しみ、苦悩する。
思い通りにしてくれるモノを価値が高いといって欲して、
思い通りにしてくれないモノを価値が低いといって疎んじる。
飢えて飢えて、思い通りなモノで我が身を満たしたい。
そういう欲望の炎が燃えさかっているんだよ。
──これを「渇愛」という、根源的な煩悩のことだよ。
この煩悩に尽くすことで、本当に幸せになれるんだろうか?
なれないね?
決してなれないんだよ。
なぜなら最後は、老いて、病になって、死ぬって決まっているからね。
この老病死は、価値は高いモノかね?
思い通りの結果かな?
だれも望んでいない、避けて通りたいことがらだね。
しかし、必ず誰にもやってくる、いのちの真実の姿なんだ。
だから思い通りに生きていくことが幸せだって勘違いしたままでは、最後は絶望と挫折で終わり、本当に幸せになれないんだよ。
その夢から目覚めなければならないんだ。
にもかかわらず、この身は思い通りになることに執着して、飢えて飢えて、求め続けて苦しみ続ける。
自力では、この苦悩の悪循環から解脱できないことに気付いたかね?
──そう、負の連鎖、迷いの生き方なのに、我々はこれしか生きる方法を知らないんだ。
苦悩する原因だと分かっていても、この煩悩のままに生きるしか、方法を知らない。
いうなれば、せっかく阿弥陀如来が我らが煩悩の正体を、照らしだし、我らがいのちの真実を教えてくださっているのに、私たちはそれに逆らって生きているということだ。
つまり我らは等しく、如来に反抗する悪人よ。
──それを「煩悩具足の凡夫」というんだよ。覚えておきなさい。
ところがだね、阿弥陀如来というみ仏は、こんな私たちがお目当てだという。
自分ではどうにもできない煩悩に、苦しみ悲しみ絶望している私たちこそを必ず救いたいと言う。
何が何でも絶対救う、かならずかならずこの身を極楽浄土に往生させる。
そう阿弥陀如来が願っている。
この身のために願っている。
如来の本願は、こんなどうしようもない私たちのためにこそ、はるか昔から永遠の未来までずーっと、ダイヤモンドのように輝き続けているんだ。
もう他力にこの身をたのむしかないことは分かったかね?
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
こんなに頼もしいことはないと思わないかね。
──そうそう、それと浄土に往生したいなぁ、なんてとても思えないって話だったね?
それも、私も君と同じ気持ちで、よく分かる。
病気とか、苦悩とか、うつ病とか、認知症とか、そんなことになったなら、それでも死にたくないなぁと思ってしまうね?
なぜなら私たちにしっかり煩悩が備わってるからなんだ。
──さあ、人類の歴史に想いを馳せてみよう。
人類は、果てしない遠い昔から、これまでずーっと私とまったく同じで、煩悩に苦しみ続けてきた。
煩悩を否定し、煩悩に抗い、しかし、煩悩のままに、煩悩に尽くし、思いを思い通りにするために戦い続けて来た。
そんな混沌とした世界を、私は愛おしく思ってしまう。
汚れた泥沼の悪臭を放ちながら、清らかに見えてしまう。
私はこんな苦悩に満ちた世界が好きなんだ。
人間世界が好きなんだ。
だから捨てられない。
──これを「執着」という、煩悩だ。
苦悩に満ちながら心地よい、本当に困った我ら煩悩具足の凡夫よ。
だからちっとも浄土に往生したいなんて思わない、思えない。
全然死んでもいいなんて思えない。
しかしね、誰でもかならずその時はやってくる。
心臓が止まる時はやってくる。
抗うことが一切できない、どうすることもできない人間の真実だ。
怖い、怖い、死にたくない、死にたくない、とおびえても、お構いなしにやってくる。
その時が来ても、心配しなくていいんだ、大丈夫、大丈夫。
私も君も、他力によって浄土に往生するからだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
はやく往生したいと全然思っていない私たちのようなものを、阿弥陀仏はあわれに念い、愛おしく念ってくれている。
そう信じれば、究極の大慈悲である如来の本願は、とてもたのもしく思えないか?
そう、煩悩具足だからこそ、往生は間違いないと思いたまえ。
君の求める踊り上がるような喜びの心は、そこにある。
往生の約束を喜べない、そんな我が身が救われるんだ。
全く、すばらしいことじゃないか。
──称えよ、すべては南無阿弥陀仏に成就する。
ああそれと、少しでもはやく浄土に往生したいとかいう者がいたならば、それは煩悩がないのか、あるいは煩悩を自覚していない、と思いなさい」
このことを、親鸞聖人が教えてくれたんだ。
【本文】
一 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、
よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。
よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、
まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべきなり。
いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、
往生は決定と存じそうらえ。
踊躍歓喜のこころもあり。
いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、
煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々




