琥珀
翌日、葬儀はしめやかに執り行われた。クラス総出で出席した。僕は、クラスメイトという形で霧島さんの葬儀に出席した。これなら彼女に嫌われたままでも、きまり悪くないな。こんな陰気な僕を、霧島さんは笑うかな。いや、笑っても、もう、僕には分らないのか。
親族のすすり泣く声を耳で聞きながら。僕は、身の回りに横たわる現実を、テレビの中の映画を見るような気持で眺めていた。
瞳に映るもの。耳に聞こえるもの。鼻に香るもの。麻酔を打たれたように、何も感覚がない。
悪い夢なら醒めてくれ。
僕は涙を流すことすらできないまま、虚無の時間を過ごした。
「皆瀬くん」
背後から、聞き覚えのある声が。振り返ると、霧島さんの母親が立っていた。
「あれからもお見舞いに来ていたんですって?」
僕は、言葉を忘れてしまったみたいに、無言で頷いた。僕に発語能力がないと察した霧島さんの母親は、何も詮索せずに話を進めた。
「あのこ。ずっと、大切そうにしていたから」
僕と霧島さんをつなぐものならば、僕が持っていた方がいい。そう判断したらしい。僕が、霧島さんに「好きだ」と伝えた日に渡した便箋とペンが、無様に帰って来た。無様な僕が、無言で頭を下げる。
脳みそを摘出した僕は、ふらふらと家路についた。
なにも無くなった。
なにもかも無くなった。
葬儀会場からは、電車で帰る。脳みそがなくても、降りる駅が分かって、帰り道も分かった。狩谷と途中まで一緒だった。互いに何も話さなかった。
便箋とペン。霧島さんの残り香に埋もれながら、彼女の姿を思い描く。反射で映った僕と狩谷が座る電車の椅子。僕の隣にスペースが空いている。そこに霧島さんの姿を思い描いた。
でも、もう彼女はいない。
駅で停車して扉が開くと、僕の隣に中年の女性が座った。
辛い。
たどり着いた家。僕は言葉を失ったまま、自室にとぼとぼと上がる。部屋のドア、敷居を跨いだ瞬間、電源が切れたように倒れ込んだ。耳の中で微かな音が聞こえた。小さな生き物が、粘性の高い液体の中に飛び込むような音。
とぷん。
『私は琥珀になりたい』
もう聞こえないはずの彼女の声が聞こえた。彼女はその願いをずっと持ち続けていたのか。あの夢の続きが天井の真っ白なキャンバスに浮かびあがる。
『あなたは優しい。でも優しいことが私には苦しい。だから、私は琥珀になりたかった』
いつから、霧島さんはそう思っていたんだろう。
琥珀になりたいと思っていたんだろう。
時を止めてしまえたらいいのにと。
答えを知りたかった僕は、彼女がいつか「見ないで」と言った便箋をついに開いてしまった。
そこには、僕の知らない霧島さんがいた。彼女の綺麗な文字が並んでいる。
――今日、空太が好きだと言ってくれた。嬉しかった。この便箋と、万年筆みたいなインクペンをくれた。素敵なプレゼントだった。ずっと、こんな日が続くなら、もう少しここにいてもいいかな。
いや、駄目だよね。きっと駄目だよね。
私は彼に甘えるだけの存在になりたくない。私は、そんな自分を許せない。
だから、覚悟を決めないといけない。今日を最後にするそのときを。
――夜になると、独りになる。
空太が帰っていったあと、看護婦が夕食を持ってきてくれた。今日の食事の内容もすごく寂しい。
カーテンの隙間から、抗菌手袋が伸びてくる。冷たい。私の手は、空太の手をもう握れない。誰の手ももう握れない。私はずっとこの、透明な檻の中なんだ。そう思うと、辛い。死にたい。
――空太が、昨日見た夢の話をしてくれた。蟻になった夢だった。
もうすぐ歩けなくなる蟻。私みたいだなと思った。
それを意識して、空太は歩幅を合わせたいなんて言ったのかな。
空太は優しい。でも、それがずっと続いてその蟻が歩けなくなったら、どうするのかな。
空太は、歩くことを止めてしまうのかな。
ここが潮時かな。でも、まだ傍にいたい。もう少し。あと少し。
だから宿題を出した。行けもしないデートプラン。
空太の顔が紅くなった。かわいい空太。私は空太とならどこへでも行きたいよ。
――日が暮れて、またひとりになった。夜は嫌いだ。夜は空太が忘れさせてくれた全てを、思い出させるから。
トイレに行きたくなって、ナースコールを押した。
トイレさえ、ひとりで行けない。そんな身体になってしまったのは、自分で飛び降りたから。
私の身体は重い。
看護婦の頼りない手の震えを感じながら便器に座る。
私は重荷だ。何の役にも立たない。
空太は、私を好きだと言ってくれたけど。
どこが?
手もつなげない。抱きしめてあげることもできない。口を開けば、私は空太の中に居場所を求めてしまう。夜になると、自己嫌悪になって。あとは、息を吸って吐いて、飲んで食べて、汚いものを出すだけ。
こんな、役に立たない私を好きだと言ってくれる空太に、甘えてしまっている。
こんな自分は大嫌い。やっぱり、死にたい。
――空太が考えてくれたデートプラン。誰にも見えない月の裏でキス。カーテンがなければ、空太と本当にキスができたのに。もったいない。
でも、素敵だった。空太も案外、ロマンチストなんだね。
空太のことを待ってないで、私から言えば、素敵なデートができたかな。
空太は鈍感だから、私から言ったほうが良かったかな。
空太のこと、好きだって。
空太が詩を書けるようにとくれた便箋が、ただの日記になっちゃった。
空太はこんな私が嫌いかな。でも、嫌いになってくれたら。むしろ楽かな。そう考えてしまう自分が怖い。
そろそろ終わりかな。だったら、私は空太の背が知りたい。ずっと私がのっぽで空太を見下ろしていたから。
どこかで、こんな私可愛くないかなって思っていた。
空太が私の背を越えれば、そんなちっぽけなことは吹き飛ぶと思ってたけれど。そのときまで、私が空太の傍にいる自信はないなあ。
今を知りたい。私は、この今を手放そうとしているから。
――睡眠薬、吐き気止め。薬で死ぬのは簡単じゃないけれど。眠るように死ぬことが出来るなら、それがいい。
睡眠薬と吐き気止めと合わせてアルコールで流し込んで。ペットボトルのキャップを口の中に入れて。意識を失うとともに、喉を詰まらせる。
薬だけじゃ難しくても、これなら確実かもしれない。ついにこんなことを書いてしまった。
こんな自分は、早くいなくなった方がいい。死のう。
――空太はまだ、ちっちゃい空太のまんまだった。
私と空太。もう、ここで終わりだよ。
忘れないと言ってくれたけど、駄目だよ。
私はね、ずっと前から歩くことを止めてしまったの。
空太はそれ気づいて、立ち止まってくれた。
嬉しかった。でもね。そんな必要なんてないんだよ。
空太は、歩き続けないといけない。私は空太のために歩きたくても、もう歩けない。
だから、さようなら。
空太は、私を忘れるの。約束だよ。
――約束したけれど、空太はやっぱり来た。すこし嬉しくなってしまっている自分はなんなんだろう。
私は、空太を傷つけたいの?
空太を自分がいるところまで、引きずりおろしたいの?
空太を見ると、往生際が悪くなってしまう。甘えてばかりの嫌いな自分が、生きたい、生きたいって泣き叫んでしまう。
ねえ。お願い。もう、来ないで。
――空太がまたやって来た。冷たくしたのに、空太が優しいままなのが辛い。
会話をすることもないのに。私の隣にいる。
話したいけど、話せない。話したら、また私は空太に依存する。
諦めて欲しい。辛い。死にたい。
――何で来るの?
私のこと嫌いになってよ。忘れてって言ったじゃない。約束したじゃない。
辛い。
――空太に嘘をついた。嘘だって言って謝りたい。でもそんなことしたら、意味がない。
せっかく、私のこと嫌いになってくれたのに。
これでもう、空太には会わない。
自分で決めたことだけれど。さよならは辛いよ。
せめてここでは、正直な自分でいさせて。
嫌いになったなんて嘘だよ。
空太が好き。この気持ちを抱いて、私はいなくなりたい。
空太、大好きだよ。
――薬がたまってきた。もう、死ぬのに充分かな。
空太は今日も来ない。これでいい。
私のことなんて忘れてしまえばいい。そういう約束だったんだ。
私だけが、空太を好きなままで。
空太が好きなだけで、何もできない自分は嫌い。
でもこうして、空太のことをぼんやりと考える自分は好き。
死ぬなら、自分が好きな自分のままで死にたい。
――今日、薬を飲もうとした一歩手前で、思いとどまってペンを握っている。
思えば、この便箋も、ペンも。空太がくれたもの。
もっと、こうなる前に空太を好きだと言ってたら。他にもいろいろもらえていたのかな。
こんな想像に浸っていたい。もう、空太には会えないけれど。
辛い。死にたい。でも
怖い。
――辛い。会えないのが辛い。会えないと決めたことが辛い。はやく死んでしまいたい。でも怖い。辛い。
――私は意気地なしだ。まるで、自分に未来があるかのような幻想を抱いている。自分に、明日なんて与えられていないのに。
今日、久々に母親が見舞いに来た。
私が死のうとしていることは勘付かれないようにした。
空太が来ていないことを伝えると、どこかホッとしたような顔をした。私と同じ願いを持っているけれど。私は母親が嫌いだ。
母親が求める私と今の私は離れすぎている。
それを露骨な態度で表してくる。
嫌いだ。
私だって、こんな自分、大嫌いなのに。
やっぱり、死んだ方がいい。こんな自分は生きていても何の意味もない。
――間もなく、私はいなくなる。
さっき薬をのんだ。アルコールも流しこんだ。あとは意識が遠のくのをまつだけだ。
たぶんアルコールのよいがすぐにくる
くすりでいしきがとぶまえに、ペットボトルのふたをのみこもう
これで、さようなら
こわい
そらた 私のこと ちゃんと わすれてるかな
つらいな 私は そらたのこと すきなのに
そらた やくそくだよ 幸せにな て
さようなら
僕はそのときに初めて、遅い痛みを知った。
のたうち回って、鞄の中も、机の中も全てをひっくり返して。僕はひたすらに、残り香を探した。便箋の中身は、僕が見てはいけないものだったかもしれない。でも、彼女が見ないでと言った彼女の本当の想いを知った今。
僕は、どれだけ悔いればいい?
どれだけ、彼女に想いを馳せればいい?
答えは返らない。
いくら泣いても。答えはどこにもない。
鞄の中にも、机の中にも、筆箱の中にも。
「霧島さん……」
いつか彼女が渡してくれた、小さく折り畳まれた紙が目に入った。彼女が絶対に開けたら駄目だと言ったもの。震える手で、それを開く。
ただただ、彼女の残り香を求めて。
『大スキだよ、空太』
紙の中で猫は鳴いていた。僕が伝えるずっと前から、彼女は、僕よりも大きな想いを抱いていた。
彼女は、いつから僕のことを好きだったのだろう。
僕は、いつから彼女のことを好きだったのだろう。
僕は、彼女にとって何だったのだろう。
彼女はいつから病気で、いつから僕は病気の彼女を救えていたのか。
それとも救えてなどいなかったのか。
何も分からない。
そこにあるのは、もう終わってしまった僕と霧島さん。死にながら僕の胸の中に生き続ける黄金色に光り輝く宝石。
琥珀