第1話 新たな冒険
里山に春がやって来た。
ここは和歌山県上ノ郷村。
和歌山北部を東西に流れる紀ノ川の南に位置する、延々と連なる紀伊山地の奥深くにある自然豊かな村だ。
里山の春は、山々を白く染め上げるたくさんの山桜の開花によって始まる。
今年も春色に染まった山々と新緑の緑が、この小さな村を彩る季節がやって来た。
新しい芽吹きは自然に限定したものだけではない。この里山の田園風景の中にぽつんと建つ、やたらとグラウンドだけは広いこじんまりとした小学校にも、今年、真新しいランドセルを背負った新一年生が三人入学した。
そして、そんな春の訪れを迎えた里山の小学校にもう一人、新しく東京から来た転校生の女の子が、四年生のクラスに通い始めた。
これはその少女、一ノ瀬さくらが特別な同級生の少女、畠山小春と歩んだ、とある冒険の物語。
窓から射し込んでくるお日様の光に彩られた教室で、春から四年生になった私と小春ちゃんは、机を並べて四時限目の授業を受けていた。
広いグラウンドを見下ろす二階の教室には、数えるほどの生徒達。
全校生徒がたった十六人のこの学校では、二つの学年が一つのクラスにまとめられており、低学年、中学年、高学年の三クラスしかない。
そんな中、三年生三人と四年生二人の合わせて五人の中学年のクラスでは、ギリギリ二十代の担任教師、香坂節子先生が今日も黒板にカツカツとチョークを走らせていた。
先生は運動不足で、休みの日には昼間からお酒を飲んでいる、ややだらしない大人だけど、なかなか生徒思いの優しい先生だ。
私の見る限り、三年生と四年生のクラスを同時に受け持つ節子先生は結構忙しい。
先生はいつも三年生用と四年生用のプリントを用意し、テキパキと授業を進めていく。
ちゃんと別々の授業内容を用意しているお陰でこうして授業が成り立っているわけなのだが、私は素直に「成る程なぁ」と感心していた。
「なあさくらちゃん、今日はあの日やで」
鉛筆を持つ手を止めて、隣の席に座る小春ちゃんが私にこっそり耳打ちしてくる。
「うん。あの日だね」
私は先生に聞こえないよう気を付けながら、屈託のない小春ちゃんの笑顔に応える。
いつも隣にいるこの夏の妖精の様な少女は、今日もサクランボのヘアゴムで括った髪の毛をぴょんと撥ねさせ、教室の空気を明るく彩っていた。
「今日はまた一段と着飾ってるなー」
小さく感心の声を上げた小春ちゃんに、私はあらためて先生の様子を観察する。
今日の先生はいつもと違う。
それは、どことなくとか曖昧なものではなく、とにもかくにも常日頃とはまるっきり違う。
まず服装。
いつもジャージ姿の先生が、今日は見たことの無いワンピースを着ている。
そして髪型。
いつも適当に括っている髪が、ピシッと纏まっている。
そして極めつけは顔だ。
普段化粧などまるでしない先生の薄っぺらい顔が、今日はなんだか立体的だ。朝のホームルームで顔を合わせた時に、本気で別人かと思った。
そう、今日は金曜日。
節子先生にとって、特別な曜日なのだ。
何故、金曜日が特別な曜日であるのか、その経緯をここでお話ししておこう。
私が山村留学に来ていた昨年の八月に事件は起こった。
きっかけは、節子先生があまりにも日焼けを気にしていたことだった。
もしかすると恋をしているのかも知れないという軽い憶測から始まった先生の恋愛事情は、小春ちゃんの見事な推理で、隣村で学校給食を作っている食堂のおにいさんが意中の人であることが判明した。
そして、これも小春ちゃんがおにいさんに直談判した結果なのだが、火曜日と金曜日はおにいさんが給食を配達しに来る日となったのだった。
つまりは今日、おにいさんはお昼まえにこの学校へ現れる。
そして、節子先生と食堂のおにいさんは、大おかずの鍋を車から運搬用のワゴンへと二人で載せるのだ。
これって共同作業ってこと?
私はそんなことをちょっと意識してしまう。まだ四年生になったばかりだけど、女の子はこういったことに関して敏感なのだ。
とまあ、私のことはさておき、節子先生は準備万端で、おにいさんが来るのを今か今かと待ち構えている状態だった。
ピクリ
まるで野生動物か何かのように、先生の耳が僅かに動いた。
「はい、皆さんしばらく自習していてください」
そう言い残してスーッと先生は教室を出ていく。
バタバタバタ
廊下を走る音。
いつも廊下を走るなと言っている先生が、この時ばかりは猛ダッシュしているのを生徒全員が知っていた。
「またしばらく帰ってこうへんで。生徒に自習させといて自分はお喋りしてるんやで」
私に耳打ちした小春ちゃんは、多少呆れ顔を見せつつ白い歯を見せる。
なんだかんだ言いつつも、小春ちゃんは先生の恋路を応援している。
「まあ、そんな感じだろうね」
同じく私も、小春ちゃんと同じように先生の恋が成就するよう願っている。
そして二人とも先生の恋の行方が気になって仕方ないのだ。
「あーあ、先生行ってしもうた」
教室から先生がいなくなれば、当然生徒たちの気も緩む。
三年生の一人が鉛筆を置いたのを皮切りに、今日も恒例のお喋りが始まった。
「また先生、廊下走ってた。うちらには走るなってゆうといて、ほんま都合のええ先生やで」
「ほんまや。普段全く走らへんのに、給食の受け取りの時だけ猪みたいに走りよる。ほんま食い意地の張った先生や」
三年生の三人は節子先生の恋事情のことをまだ知らない。
歯痒い話だが何分繊細なことなので、あまり周りが囃し立てないようにと、事情を知っている私と小春ちゃんはお母さんから釘を刺されていた。
小さな村ではあるし、そのうち生徒全員に知られてしまいそうだけれど、とにかく気付いていないふりを貫こうと、小春ちゃんとは示し合わせてある。
「そやけど、先生が走るの、俺ちょっと分かる気するねん」
三年生の小森蓮君、通称レンちゃんのその発言に、私と小春ちゃんはビクっとなった。
「実は俺も、洋食の給食気に入ってるねん。うち、お母ちゃん働いてるからばあちゃんが夕ご飯作るねんけど、いっつも和食やねん。それはそれで美味しいんやけど、給食で洋食食べられてちょっとラッキーやねん」
なんだそっちか。取り敢えず私と小春ちゃんがホッと胸を撫で下ろすと、レンちゃんの隣の席に座る丸顔の女の子、中野久美ちゃんが何度か頷いてその意見に共感した。
「うちもレンちゃんと一緒や。洋食の給食になってからお昼ご飯楽しみやねん。特に、たまに出てくるデザートのムースが気に入ってるねん」
「そうそう、あれ美味いよな」
どうやら節子先生の変化のことではなく、給食が美味しいということに三年生たちの意識は向いている印象だ。何だか無性にお腹が減ってきたのを私は感じていた。
「それでな、うちな、この間お父さんに頼んで、給食作ってくれてる食堂行って来てん」
久美ちゃんの発言に私と小春ちゃんはまたビクッと反応してしまった。
「へえ、それでどうやった?」
すかさず小春ちゃんは、さりげなく久美ちゃんに探りを入れた。
「美味しかったよ。いっぱいメニューもあって、お父さんもお母さんもまた行こうってゆうてた」
「ふーん、そうなんや。それで店はどんな感じやったん?」
お母さんの車に乗せてもらい、私と小春ちゃんは一度、おにいさんの食堂に行って節子先生と鉢合わせになった経緯がある。
小春ちゃんと私は、食堂に行ったこと自体を内緒にしておこうと示し合わせていたので、ここで小春ちゃんはわざと食堂の様子を尋ねたのだ。
「休みの日やったからかな。けっこう流行ってた。おねえさん一人で注文聞いたり、お皿運んだりしてて、なんや大変そうやった」
「おねえさん?」
小春ちゃんは一瞬眉をひそめた。
私と同じくきっと内心動揺しているはずだが、小春ちゃんはそのまま情報収集を続けた。
「おねえさんって、若い人やったってこと? 具体的に、いくつぐらいやった?」
「えーと、二十歳くらいとかかな?」
「どんな感じやった? 綺麗な人なん?」
「まあ、小綺麗な感じの人やったよ。そやけどこはるん、なんでそんなこと聞くん?」
自然と前のめりになってしまっていたのだろう。
小春ちゃんは久美ちゃんに指摘され、ハッと我に返った。
「いや……まあ、ちょっとした好奇心やよ」
小春ちゃんはそこで詮索を止めて、私の耳に口を近づけて来た。
「さくらちゃん。あとで作戦会議や」
何気ない教室での会話から始まった小さな事件。
こうして、またこの里山で私と小春ちゃんの新たな冒険の幕が上がったのだった。




