プロローグ
静まり返った部屋。
物音ひとつない暗がりの中では、自分の呼吸さえやけに大きく聞こえた。
息を吸うことすら、慎重になる。
私は暗闇の向こうにいる人を見つめた。
「……先輩」
口にした瞬間、胸の奥がきつく締めつけられる。
何度も呼んできたはずの、口に馴染んだ呼び方。
それなのに今は、そのたった二文字が、記憶の底へ無理やり押し込めていた苦い感情まで引きずり出してくる。
忘れたつもりだった。
もう終わったことだと思おうとしていた。
けれど、そんなものは全部、ただの思い込みだった。
灯りのほとんどない部屋で、私は小さく息を吸う。
そして、逃げ出したくなる気持ちを押し殺すように言った。
「あの日の続き、しませんか?」
声にした途端、胸が痛んだ。
ずっと後悔してきた。
何度も、何度も。
あの時、私が拒まなければ。
私がもう少し我慢していれば。
あの人を傷つけずに済んだのかもしれない。
私たちは今も、もっと違う関係でいられたのかもしれない。
少なくとも――
こんなふうに、どうしようもなく拗れた大人にはなっていなかったはずだ。
「じゃないと私……きっと、前に進めないです」
返事はない。
暗闇の中、沈黙だけが長く続く。
逃げたくなる。
今すぐ、この言葉をなかったことにしてしまいたい。
そう思った、その時。
ギシリ、と。
ベッドが軋んだ。
それは、目の前まで迫ってきた先輩から逃げるように、私が身体を奥へ引いたからだった。
自分から言い出したくせに。
「あの日の続きがしたい」なんて口にしたくせに。
もう、後悔している。
「嫌なら、いーよ」
西嶋先輩の声は、思ったよりもあっさりしていた。
その言い方に、私は反射的に顔を上げる。
「嫌じゃ、ないですから」
違う。
嫌だとか、嫌じゃないとか。
そんな単純な話じゃない。
私にとって問題なのは、いつだってひとつだけだった。
出来るか。
出来ないか。
それだけ。
西嶋先輩が、私のパーカーのフードの先をつまむ。
そのまま、ふわりと頭へ被せられた。
「……先輩?」
問いかける間もなく、フードがさらに深く引かれる。
視界が暗くなった。
その瞬間――
唇に、柔らかな感触が触れた。
辛いなぁ。
顔を隠されて重ねた唇。
その事実だけで、胸の奥がひどく痛んだ。
きっともう、この人は私のことなんて想っていない。
これは、好きだからするキスじゃない。
私が望んだから。
私が「あの日の続き」を求めたから。
ただ、それだけ。
あの頃とは違う。
私たちはもう、子どもじゃない。
それなのに、大人になってから交わすキスは、思っていたよりずっと苦かった。
あの頃も。
そして――今も。
胸の奥が、ずきずきと疼く。
その痛みが、少しずつ私から息を奪っていく。
それでも私は、目を閉じた。
もう一度、あの日の続きをするために。
そして――
キスから、その先は――。




